小説「モモコ」第1章〜1日目〜 【2話】
海上の同じ場所を旋回しながら二十分ほど船を走らせたあと、少女はもとの港に船をつけた。言った通り、港にスーツの男達の姿は見当たらなかった。
港に降りると、数刻前まで隠れていた小屋から漁師の男が出てくるのが見えた。戻ってきたら船がなかったので途方に暮れていたのだろう。勝手に船に乗ったことをなんと説明したものだろうか。
「あの人きっと怒っているだろうな」
「あの人が船の持ち主?」
「そう。僕が海で遭難しているところを助けてくれたんだ」
「あなた、海で遭難していたの?」
少女が驚いてこちらを見た。
「まあね。危うく溺れ死ぬところだった」
「お互い抱えているトラブルが多そうね」
僕は船から降りると、少女が降りるのを助けようと手を差し出した。船上から港までは一メートル以上の高さがある。
「いらないわ」
少女は僕の手を払ってぴょんと船から飛び降りた。濡れた地面に滑って転びやしないかと一瞬焦ったが、少女は見事な着地をしてみせた。小さな体の重心を地面にまっすぐに押しつけたようだった。
「もう大丈夫。もうすぐ警察が来るはずだから」
自分をまるで頼ってくれない少女に少しでも大人のいいところを見せようと、僕は全てをわかったような口ぶりで言った。
「え? 警察を呼んだの?」
少女は声をあげた。
「あの漁師の人が呼びに行ってくれたんだ」
僕は少し調子に乗って話し出した。
「もう二十分経つから、もうすぐ着いてもおかしくないはずだけど」
「それはまずいわ」
「大丈夫。心配ないよ。事情はよくわからないけど、あのスーツの連中に追われているんだから、君は警察に保護してもらったほうがいい」
「いいえ、まずいのはあなたのほうよ」
少女は声を低くして言った。
「だって私は誘拐されている最中なのよ」
ちょうどそのとき、遠くからパトカーのサイレン音が聞こえてきた。この調子だとあと数分で港まで着くだろう。要領を得ない少女の発言に、僕は焦りを感じ始めた。
「あのスーツの連中からようやく逃げ切れたというのに、今も誘拐されている最中というのはどういうことだい?」
近づいてくるサイレン音に、言いようのない不安がこみ上げてくる。
「そうね、でも警察はあなたが誘拐犯だって思うでしょうね」
「それは、君がちゃんと説明してくれれば大丈夫だろう?」
「いいえ、私は警察にも本当の事情を話せないの。だから、警察に捕まったらわたし、あなたに誘拐されていると答えるわ」
「なんだって?」
疲労を寒さで限界を超えている思考がさらに混乱した。
「そんな、めちゃくちゃだよ! どうして正直に話せないんだい?」
僕が困惑顔で尋ねたが、少女は僕の不安など意にも介していないようだった。
「それを言っても仕方がないわ。大切なのは、この危機にどう対応するのかよ」
「じゃあ、どうするんだ?」
僕はやけくそな大声をあげた。こうしている間にもサイレンの音が近づいてくる。
少女は、にっこりと笑って言った。
「わたしを背負って走って」
その目はどこかこの状況を楽しんでいるようにも見えた。
「さっきみたいに。びゅーんって走って逃げるの!」
そこから先は、ひたすらに走った。
会ったばかりの、奇妙なほどに大人びた少女を背負って、僕は延々と走り続けた。距離にすれば二キロメートル程度だったが、港での百メートル走で僕は余力を使い果たしてしまったようだった。寒さと疲労で萎縮しきった脚を動かして、しかも三十キロほどの荷物を背負いながら走るのは、想像以上に僕の体力を奪った。
「もう大丈夫よ。休んでいいわ」
オフィス街にさしかかったところで、背中から少女が声をかけた。
「それにしてもすごい体力ね。何かスポーツでもしていたの?」
少女を背中から降ろすと、僕は崩れるようにその場に座り込んだ。周囲にはオフィスビルが立ち並び、歩道にはビジネススーツに身を包んだ人々が往来している。
「このあたりはオフィス街だから、もう少し夜が更けたら人通りが少なくなって目立ってしまうわ。このまま中洲の繁華街に紛れてしまいましょう」
「中洲? ここは福岡なのか?」
「え? あなた、ここがどこかもわからないの?」
少女が驚いた声をあげた。
「まあね、実を言うと、自分が誰なのかもわかってない」
「冗談でしょ?」
「気がついたら海で溺れていたんだ。自分の名前すら覚えてない」
「記憶喪失ってこと?」
少女は少し考え込んでから、続けた。
「きっと、海で溺れていたのと関係があるわね。海に落ちる前に記憶を無くすほどのショックを脳に受けたのか、落ちた衝撃で記憶が飛んだのか。どういう経緯にしても呼び名がないのは面倒だから、あとでわたしが名前をつけてあげるわ」
「それはありがたいね」
座り込んでから、走っているときは感じていなかった脚の痛みを感じ始めた。特に左足のふくらはぎが限界に近い。僕は痛みを我慢しながら話を続けた。
「そういえば、君の名前は?」
「モモコよ。桃から生まれたから、モモコ」
「モモコちゃんか。桃から生まれたとは、それはすごい」
僕が笑って言うと、モモコは真面目な顔で返した。
「冗談じゃなくて、本当のことよ。桃から生まれたから、スーツの連中に狙われているの」
真顔で話すモモコを見ながら、苦笑いを浮かべるしかなかった。頭はいいけど、ちょっとイタい性格の子かもしれない。
「……わかった。モモコちゃん、これからどうする? やっぱり警察に行かないかい?」
「モモコでいいわ。ちゃん付けしないで」
モモコはぴしゃりと言い放った。
「警察には行かない。どこか身を隠せる場所を探しましょう」
そう言ってモモコは繁華街に向かって歩き出した。すっかり座り込んでいた僕は、慌ててあとを追いかけるかたちになった。
左脚を引きずりながら歩く僕の姿に気付いていないのか無視しているのか、モモコは淡々と早足で歩いていく。
「そういえばあなた、身分証明書も財布もないの?」
「まあね、持ち物は何もないよ」
「仕方がないわね。しばらく支払いはわたしが面倒を見るわ」
「あ、うん。すまないけど頼むよ」
一回り下の少女にお金を無心しなければ生きていけないというのに、屈辱の類の感情はまったく湧き上がらなかった。モモコが大人びているせいだろうか。僕にプライドがないのだろうか。
しばらく歩くと、大きな国道に出た。車の往来が激しい。近くには地下鉄に降りる階段が見えた。僕は何か記憶の手がかりはないかとまわりを見渡してみたが、企業のカタカナ看板や博多アピールの居酒屋、ビジネスホテルなど、よくあるふつうのオフィス街の様相にしか見えない。
「モモコはこれからどうするんだい? 家に帰れるの?」
「しばらく家には帰らないわ。彼らの手が回っているのは確実だもの」
モモコは淡々と返した。
「どうして追われているんだ?」と口を開きかけたが、思いとどまった。毅然と振る舞うモモコの顔に、少し陰りを感じたからだ。
「あとで落ち着いたら、何が起きているのかちゃんと話してくれよ」
モモコは少し驚いたように目を丸くして僕に目を向けて立ち止まると、特に返事をしないまま、ただ、微笑んだ。僕も合わせるように立ち止まった。
「家に帰れないとしたら、泊まるところを探さなきゃいけないわ」
僕の戸惑いをよそに、モモコは首にかけた小さなバッグからスマホを取り出し、なにやら検索し始めた。
「わたしが家に戻らないことくらいわかっているでしょうから、そのへんのビジネスホテルも安心できない。足がつきにくいほうがいいわ」
「足がつきにくいというのは例えばどんなところだい?」
「スマホで検索しても出てこないようなところよ。トラベル系のサイトにも登録されてないような」
そう言いながら自分の矛盾に気がついたのか、モモコはため息をついてスマホをしまった。
「なら、そうだな。ゲストハウスとか?」
ゲストハウスに泊まった記憶は思い出せないが、それがどんなものかは覚えている。
「ゲストハウス? 泊まったことないわ。欧米のモーテルみたいなものかしら?」
「ああ、外国人がよく使っているイメージだね。ベッドを一つ、一晩貸してくれるんだ」
うーん、としばらく考えたあと、モモコは答えた。
「ビジネスホテルよりは少しマシかもしれないわね」
民泊もアリね、と付け加えながら、モモコは再びスマホで調べ始めた。
「近くにひとつあるわ」
「じゃ、そこにしよう」
「もう一つ問題があるわね」
モモコは薄く笑いながら僕を見て言った。何のこと?と僕が聞き返す。
「わたしとあなたの関係性よ。恋人にしては不自然でしょう?」
なるほど、たしかに。僕は自分の服装を改めて見て思った。若い男が、乾いてパリパリになりはじめたジーンズに、漁師から借りたままの魚臭いジャケットを羽織っている。一方で目の前の少女は、いかにも育ちの良さそうなきれいな佇まいときている。一緒に宿泊するとなれば、間違いなく不審にも見られるだろう。
「じゃあ、あなたはわたしの叔父ってことでいいかしら?」
モモコが歩き出したので、僕もその姿を追いかける。
「年齢的に叔父さんは厳しくない?」
「そうかしら、大丈夫よ。でも、何にしても名前が必要ね」
さきほどスマホで見た地図がもう頭に入っているらしく、モモコの歩みには迷いがなかった。僕はその後ろをついて行きながら、自分の記憶について考えを巡らせた。
どうやら、映画のことやゲストハウスのことなど、覚えていることもあるようだ。
レオンの映画を誰と見たのか、ゲストハウスに誰といつ宿泊したのか、僕は思い出そうと試みたが、どれも失敗に終わった。
人や場所に関する記憶は一切見つからない。知識はあるのに、それをどうやって得たのかがわからない。
頭の中から《経験》だけがすっぽり抜け落ちてしまったみたいだと、僕は思った。
〜つづく〜
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