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「井の中の蛙」でいたほうが幸せなのか?@リモート読書会/「サピエンス全史」思索日記Vol.10

サピエンス全史」を読んで世界を考えるシリーズVol.10。
今回は、Vol.4に引き続き第二回目、リモート輪読会の模様をお届けします。

今回はトークログを取っていたので、トーク形式で、40分程度の議論から一部抜粋して文字にしました。今回は下巻をテーマに話しています。

答えはありませんし、答えを出すことが目的でもない、感性の言語化、思考の言語化の時間。気になる部分があれば是非コメントをお寄せいただくか、それよりも原著を手にとってみてくださいませ。

T:ランニングを愛する読書系男子。障がい者の雇用を創出する事業に取り組む。2017年、新たな挑戦のために夫婦で福岡から鳥取移住。鳥取でも仲間を募って読書会を開催している。
A:働く・学ぶに向き合い続ける教育系女子。フランス語専攻から教育の道へ。福岡の中高生のキャリア教育など、大学の仕事を行いながら様々な教育プロジェクトへ参画している。
S:旅しない哲学系男子。気が付いたら勢いで宮崎にIターン移住。採用や広報の仕事に就く。そのまま嫁を呼んで結婚。意識高い系と言われがち。


情報が多いから不幸せ?「井の中の蛙」でいたほうが幸せなのか?

T:僕自身は今まで「人ってきっと幸せに向かっているんじゃないかな?」っていう感じがしていたけど、サピエンス全史を読んで実際そうはなっていないという事実を知って、自分のなかで認識にブレがあったなって思ってます。

だって、子供が13人生まれたうちの半分がほとんど5歳未満で亡くなってしまうとか、少し怪我をしただけで麻酔なしで腕を切り落とさなければならなかったりとか、昔はそんな状態だったたけど、今はそんなことはあり得ない。だから本来であれば、世の中は圧倒的によくなっているはずだし、人々は幸せになっていないとおかしいなと思うんだけれども。

S:たしかに、ちょっとショックですよね。えぇ、そうなんだ…と。

T:そう、ショック。

S:そのあたりの話だと、この本で出てきた、幸福は期待との相関によって決まる、というのは、たしかにそうかもなと納得感がありましたね。現代のほうが昔よりも入ってくる情報が多いので、期待が高くなっているのかもしれません。

この本の事例で出てきたのは、テレビで見る俳優やモデルと自分と比べてしまって劣等感を持つという話でしたね。

T:SNSとかで比較しやすく、すぐに情報が入ってきてしまうからね。

S:気になるのは「井の中の蛙」 のほうが幸せなのかどうか、ということです。どっちがいいのかは僕にはわからないのですが...。

入ってくる情報が少ないまま、小さな世界で慎ましく生きるほうが幸せなのか、井戸から飛び出て世界を知り、打ちのめされながらも旅するほうが幸せなのか。

T:カンボジアの大学に行ったときに、それに似た話を聞いたんですけど、カンボジアのその大学でスピーチコンテストがあって、優勝した人には日本に渡航できることになっていて。カンボジアのその大学では、あまり海外の情報とか入ってこなかったらしいんです。

そのコンテストで優勝して日本に行き、帰ってきた人が「日本の状況を知ってしまったことで、劣等感を覚えた。知らなければよかった」みたいなことを話していました。今もそう思っているかはわからないのだけれども。知ることによる幸せって、心の持ち様で変わるとは思うんですが、どうなんだろう。

S:それは、生き方というか、人にもよりますね。「井の中の蛙じゃダメだ!とにかく世界が広いことを知らなきゃいけない。視野を広げるべきだ!」いうの論調が今のスタンダードですけど、必ずしもそれを全ての人に強制すべきかどうかっていうところは、ちょっといったん立ち止まって考えてもいいのかもしれないと思います。

現代の世の中って、この本にもあるように統一に向かっていて、みんなが世界中と繋がろうとしていますけど、必ずしもそれでうまくいく人だけではないのかもなと。そうじゃなくて自分の小さな村で世界を知らずに生きていったほうが幸せな人というのもいるのかもしれないと感じていて。

僕はいうと完全に井戸から飛び出すべき派で、だからこそ、特にそういう違いを省みたことがなかったので、もしかしたら僕は自分の価値観の押し付けをしてるんじゃないのかな、とも思ってしまって。

T:カンボジアの彼と同じように、僕も劣等感というか、そういうものを思ったこともあったけど、でもそれも成長痛かなって感じるようになりました。いまは苦しいなあって感じで。

この話は、S君がこの前ブログに書いていた「不幸から抜け出す3つの道」の話につながるよね。

S不幸の本質は欲望と能力のギャップにある、という話ですね。そのギャップを変える方法は3つあって、能力上げるか、欲望を下げるか、あるいは欲望を変えるか、という話でした。

いまって「この欲望を欲するのが正しい」みたいに、欲望に正解がある感じになっていて、そこをもっと話していきたいですよね。

T:それが正しいということを植えつけられていて、疑わなくなっているということだよね。

著者のハラリさんが言っているのは、虚構そのものは別に悪いわけではなくて、自分が信じているものが虚構がどうかを見極めてその上で虚構を利用することが大事、ということだと思います。虚構なのかどうか、今はその識別自体ができていない状態なのかなと。

「宗教」は世界を全て知っているが、「科学」は何も知らないからこそ発展した

A:わたしが印象的だったのは、宗教は世界を説明するために生まれ、科学は自分の無知の発見から生まれた、というところです。

宗教は世界の全てを説明できて、知らないものは何もないという考え方なのに対して、科学は自分の無知というものを自覚して、だからこそ知りたいと思って発展していくという考え方。

その違いこそが、宗教を超えて科学が発展していった理由であって、宗教と科学が対立するようになってきた理由でもあるという話ですよね。「宗教と科学ってなんでこんなに対立しているんだろう?」という疑問が、腑に落ちたというか、すごく納得できました。

T:例えば、祟りによるものだと言われていた人の死が、科学で解明されて、実は原因は違うとわかるようになった。これは、明らかに大きな変化だよね。

S:もしかしたら、科学であっても「科学で全部説明できるんだ!」って言い出したら、それはもう宗教ってことかもしれないですね。そうなったら、もう無知を認めていないことになるから。

T:ああ、たしかに、究極はそうなるね(笑)

A:科学の基本的な原理は、反証可能性があるというところなので、いま事実とされているものでも反証できるというのが科学のスタンスだと思います。だからそうはならないかなと。

T:この話は結構面白いよね。それまでは宗教頼りに生きていて、何事も宗教で説明されていた世界から大きく変わって、科学として、人が考えるようになったのはこのあたりからなのかなって思う。人類の歴史で大切な転機なのかなと。


今回は、以上ここまで。
情報化社会をどうやって生き延びていくのか、という適応するための議論は多く聞かれますが、そもそも情報が増えることは人類を幸せにしたのか?いうメタ的な視点で考える機会は、日常でなかなか出会えないものと思います。

さて、今回のテーマで触れた「サピエンス全史」の下巻ですが、次の次くらいの回からはそろそろ内容も下巻に突入していきたいと思います。それにしてもビデオチャットで読書会するの素晴らしいですね。短い時間で濃い学びと、充実感。また別の本でも続けることになりました。

つづくのです!

ここまで読んでいただいて本当にありがとうございます! 少しでも楽しんでいただけましたら、ぜひスキをお願いします!