見出し画像

第25回:2019の目標は『真実と物語の中庸を語る』

2019始まりました。新年おめでとうございます!

1月1日に近所の神社に初詣に行ったら、それが生まれて初めての初詣だと気づきました。というのも、親戚の挨拶周りと親戚の食事会だけで正月予定が埋まり、それだけでクタクタに疲れるようなザ・鹿児島(?)なコミュニティで育ったので、一般的な正月感を知らず、5カ月の娘と一緒に初・初詣となりました。

座禅や神社巡りは経験あるのに初詣だけすっぽり抜け落ちているという、そしてそれに今の今まで無自覚だった不自然さ笑笑。

初体験に観光気分が出てきて徐々に僕は楽しくなる一方、参拝の行列は0歳児には厳しかったようで、グズって・泣いて・寝る、の3拍子をきれいに辿って帰りました。

さて、2019年元旦。みなさんはどんなことを考えましたか?

実際は年が変わったことで何が変わるわけでもなく、大晦日から元旦までは地続きに繋がっていまして、何を達成したわけでもないのに強制的に一区切りとする「暦」という発明は、皆が同じタイミングで仕切り直すという意味で、なんとも人間的で面白いですよね。

昨日の明日が来ただけなのに「なんとなく過去がリセットされて未来を明るくできる気がしてくる」感覚になるのは凄まじいエンパワメントだなと。意図的に年越しを起こせたら人の悩みも少しは減らせるのかな、とか考えてしまいます。

そんな年越しエンパワメントに、御多分に洩れず僕も影響を受けていまして、今年の目標をひとつ、掲げてみたいと思います。

『真実と物語の中庸を語る』です。

真実を毀損せずにエンパワメントするために

ストーリーをつくれ、などと、マーケティング分野ではよく耳にしますが、たしかに近いものがあります。でも少し違うのは、物語が、人々に都合のいい消費財となってしまわないようにバランスを取り続けるということ。ただ現実を物語化すると単なる消費財になりかねません。

例えば、先ほど年越しによって人々がエンパワメントされると言いましたが、これも物語です。

年が変わることで違う毎日が始まるハズ、という物語を一億人が信じているものだから、2018年から2019年に変わる時に多くの人が気持ちを新たにし、何かを決意したり開始したりする。

自然界で言えば「年」という区切りなど不要なわけで、「年越し」は大昔に人間が生み出した「暦」という物語から生まれたフィクションのひとつです。

物語には、人をエンパワメントし、行動を変える力がある。ひとつひとつの行動が現実を変えていく。フィクション(虚構)の意味と力を、改めて大事にしたいも感じます。

もっと掘り下げて説明します。

何が苦しい悲しい真実を人に伝えたいとき、苦しいものを苦しいままに人に見せよう聴かせようとしても、誰にも響きません。苦しいもの・都合の悪いものを積極的に見たい人間はいません。

真実を本気で多くの人に伝えたいのなら、真実を物語化する必要がある。

例えば日本でも多数の貧困層がいますが彼らへの支援よりも、カンボジアに井戸をつくる募金のほうが支援を集めやすかったりします。なぜなら、真実よりも物語のほうが人をエンパワメントするからです。カンボジア支援のNGOの物語化が上手だからです。(実は、寄付などの非営利活動にこそマーケット感覚が必要です)

ただし、最も重要な落とし穴があります。それは、真実を物語化するとき、「真実が毀損される」場合があるからです。

例えば僕は24時間テレビが好きではありませんが、それは真実が毀損されてるように感じるからです。毎年画一的なテーマとして「障害者が頑張ってる」ふうに取り上げること自体、明確なカテゴリ分けであってインクルーシブとは言えないし、みんなで感動しましょうと誘導する感じに気持ち悪さがあります。俗に言う感動ポルノもその類に入り、真実が毀損されていると感じます。

もちろんマーケティング的には、物語化して、人々が「望んでいる」フィクションを提供することがゴールです。

・この女性は出産したから優しくなった。
・幼い頃に親を失くしたから逞しく育った。
・貧しい生活から地道に商売で成功した。

美談として仕立て上げることで、真実はより人々の関心を唆るようになり、「大多数に伝える」という目的は達成されます。ただし、その時、どこまで真実が原型を留めているのかはわからない。

ビジネスマンとして、僕は物語化はすべきだと思うし、これから必須のスキルだと考えています。

最近のビジネス書や自己啓発書は物語化の塊です。でもそもそもエンパワメントが目的なので真実と多少ズレててもOKです。

「美味しいケーキです」とオススメしても売れませんが、「松東杯お菓子コンテスト金賞!田鳩町の果物農家、野尻さん夫婦(写真参照)が育てた冬でも旬の苺と、札幌農業高校と地元酪農家がコラボして仕込んだ生クリームを贅沢に使ったストロベリーミルフィーユケーキ」と語り、果物農家と農業高校と酪農家のエピソードを加えれば、売れ行きはきっと上がるでしょう。ちょっと語り過ぎですが笑。(全部名前はテキトーです)

でも、単純に物語化してはいけない領域があります。真実が毀損されやすく、小さな毀損が大きく人を傷つけかねない領域があるのです。

そのひとつが、僕もいま向き合っている福祉の領域。多様性が叫ばれる現代においては、LGBTや人種問題などもそうでしょう。政治や紛争、テロや民主主義の話も含まれるかもしれません。

これらの領域は、どこまで物語化が許されるのか、線引きが非常に難しい。だから人々の多くはだいたい2パターンに走ります。ひとつは、保守的になってまったく物語化をしないまま、苦しいものを苦しいままに伝える方法をとり、結果誰にも伝わらないというパターン。もうひとつは、何も気にせずに物語化をし過ぎて真実を毀損し、本質を見失った伝わり方をしているパターン。だいたいいつも、そのどちらかを起こしています。

『真実と物語の中庸を語る』というのは、その線引きできないバランスをとろうと足掻くことであり、物語化し過ぎることを恐れずに積極的にフィクション化していく攻めのスタンスと、真実を毀損しないように慎重に丁寧に言葉を尽くす守りのスタンスの両方を兼ね備えた言葉を語るということです。

そのためのバランスの取り方のアプローチも色々あって、例えば「情熱大陸」や「プロフェッショナル」のテレビ番組みたいに、ドキュメンタリー的に伝える真実寄りの伝え方もあれば、漫画ワンピースで魚人と人間の人種差別が生々しく描かれているように、完全フィクションに真実を織り交ぜて語る物語寄りの伝え方もあります。他にもいろいろな手法があって、口伝えの地域伝承とかも意外と秀逸な届け方かもしれません。

で、僕はどんな伝え方をしていくの?という話ですが、正直まだわかりません。全然わからないので、色々試していきたいと思います。

もはや、今年1年で達成出来るようなものでもなく、長期的な、大きな視野での目標になりますが、『真実と物語の中庸を語る』というこのテーマに、2019年から挑んでいきたいと考えています。

それは今の福祉の仕事の枠だけでなく、子育てや執筆活動を含めた、日常すべてに入り込んできます。このあたりの視点を軸に、仕事も幅を広げていきたいと考えています。

すでにいくつか案はありますが、実を結ぶのに時間がかかりそうなものばかり。短期的な劇薬も好きなのでそういうのも手を出しつつ、一歩一歩、少しずつ『真実と物語の中庸を語る』に至りたいと思います。

2019年もよろしくお願いいたします。

Photo by Jelleke Vanooteghem on Unsplash

ここまで読んでいただいて本当にありがとうございます! 少しでも楽しんでいただけましたら、ぜひスキをお願いします!