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第35回:未来への解像度は磨ける

このまえ書いた記事で「未来の解像度」の話をしたけれど、その話をもう少ししてみたい。

というのも、「未来を思い描く」という行為における解像度の高低の違いを、僕は今の今まで知らずにきたからだ。そうか、僕が今まで描いてきた未来は解像度が低かったなと正直に思えた。

例えば、28歳の僕が20代のうちに何か目標達成しようと決めたとき、普通なら「残り2年だ!」と言ってしまうだろう。

しかし、実際には違う。今日付で言えば、残りは1年7ヶ月20日だ。5ヶ月近くも違うのに、なぜか僕らは安易な計算で残り2年と計算したがる。

なんとなくキリがいいから2年とするか、日単位で計算して1年7ヶ月20日とするか。どちらが未来の解像度が高いと言えるかは明白だ。

例えば仕事の目標設定をするとき。わかりやすく小さなイベント企画運営としよう。そのイベントの集客数を目標KPIとしてセットしたとする。「目標30人!」と、イベントの舞台裏でよく見かける風景だ。

ただこれでは解像度が低い。

「●日までに10人、そこから10日以内で広告打って20人に。残り10名はそこまでにリーチした人の口コミで行けるとして...」

「最初は仕事関係者だけで5人は行くはず。そこからの一歩が大事だから事前に根周しして誰が連れてきてもらうとして、20人くらいは広告や口コミで集めないといけないな」

その客層がどんな人達か、どういう人達からどういう流れで集めて、いつ頃にどこまで達成するのか。(いわゆるマーケティングで言うペルソナ)

上記2例はあくまでも例えだが、仕事以外でも未来の解像度は大きな力を発揮する。可能な限り未来を具体的に想像する、かつその未来を必ず実現するという強い意志とともに。

今ある情報から仮説を立てるだけではないのが重要だ。未来の解像度が高い人間は、描いた未来を仮説だなんて思っていない。必ず訪れる未来として確信している。矛盾するかもしれないが、想像したことが実現する前提で想像しているのだ。

ところで、実は、現在の解像度を極限まで高めて刹那的に生きる人間も存在する。アーティストに多いイメージだ。僕は心底彼らに憧れもするのだが、残念ながら僕はそんな天才じゃない。

もちろん天性的に未来の解像度が高い人間もいるだろうが、僕はこの未来への解像度を高く描く能力は、後天的に磨けると思っている。

日々の未来に、より高解像度を意識して臨みたい。

ここまで読んでいただいて本当にありがとうございます! 少しでも楽しんでいただけましたら、ぜひスキをお願いします!