百合の香り

明日からとうとう社会人になります。

本当は、社会人になることが怖くて怖くてたまりませんでした。
夢のような大学時代がぷつんと切れて、幕が開けばそこは底なしの闇、入り口も出口も分からないままもがき苦しむ生活が、これから何年も何年も続くのかもしれない。
そう思うと、あれほど眩しかった思い出すら腹立たしく、一人、また一人と東京から遠ざかる友達の背中を、だらりと両腕を垂らして見送るしかない気持ちになるのでした。

しかしそんなことばかり考えていたら、せっかくの最後の春休みをつまらない感傷に浸しすぎて、ふやかして駄目にしてしまうかもしれない。私の中には、底知れぬ闇と、どこまでも差し込む光の両方があるのです。闇に蓋をするように、三月中はあらゆることに挑戦してみました。

遠くに行ってしまった人へメッセージを送る。一人旅をする。10時間ものあいだ電車に乗り続ける。知らない土地に友達をつくる。個展を開く。スノースポーツをする。人見知りじゃないふりをする。手紙を書く。苦手な飛行機にも乗る。人を決して怖がらない。

直近のことで最も思い出深いのは、やはり個展です。
一人きりで開催を決め、一人きりで準備をし、一人きりで下見をしました。
ややあって縁もゆかりもない場所を選んだので、誰もこないんじゃないか、それはまあいいとして、準備が間に合うかどうか、展示として成り立つかどうか、そもそも私から皆さんに何を伝えられるのか・・・
毎日疲れて帰ってきては、真っ暗な天井にぐるぐると思想を回して、答えのない螺旋階段の途中で体をぐったりと投げ出すことばかりでした。
前日にやっと構想が固まったのですが、その日が卒業式だったのでしっかり楽しんでしまい、殆ど眠れずに現地へと向かいました。
そして案の定遅刻。なんとか辿り着いたギャラリーで、大切に運んできた写真を一枚一枚飾りました。

夢のように楽しかった大学での4年間ですが、決してはじめから光に溢れていたわけではありませんでした。
中高一貫校出身だったので、久しぶりの新しい人との付き合いになれず、一人で冷たいご飯を食べたことが何度もあります。つまらない授業を抜け出して、知らない駅の喫茶店に飛び込んだことが何度もあります。わざと教科書を忘れたふりをしてやっとの思いで話しかけた子は、学校に来なくなってしまいました。
そういうことにいちいち沈まないようにしながら、あれこれと手を打って、それがいつしか水底で石となり、重なるうちに水面に顔を出し、滑りやすくも足場となって、その後は夢中で駆けていたら卒業を迎えてしまったのです。
今となっては、見つめていられないほど眩しい水面のことしか覚えていないので、最高の4年間だったのだと思うことにしています。

個展の日は、朝から夜まで雨でした。
準備が終わりかけたころに一人来て、準備を手伝ってもらっているところにまた一人、また一人・・・と、雨にも、そして私にとっては遥か遠い場所だったにもかかわらず、人が途切れることは殆どなかったように記憶しています。
旅先で一度だけ話して意気投合したバーのマスターと、私の中学からの親友が、ワイン片手に楽しげに話しているのを見たときは、ああこういうところが見たかったのだと、胸が熱くなりました。
まるで地面に溶ける雨粒のように、それまでにあった距離のことをすっかり忘れてしまったみたいに、昨日までまるで関係のなかった人たちが出会い、そしてまるで関係のなかったように別れていく。ギャラリーのドアが閉まる音は、寂しいようで寂しくありません。もう一度つまらない日常の中に溶け込んでいったとしても、この胸の熱さは簡単に忘れられないものなのです。それが眩しい種類のものであるなら尚更。

当日会場に来られなかった友人から、両手を広げたくらいに大きな花籠が届いて、しかし袋などはついていなかったので、偶然持ってきていた大きな手提げに助けられて持ち帰りました。固く蕾を閉じていた百合は、しかし上品な香りを漂わせていて、花開いた今ではまさに盛りというように部屋中を華やかにしています。家に帰るたびに、やたらと口数の多い友人のことを思い出します。
百合の香りといえば、大好きな祖父のお葬式のイメージが離れなかったのですが、今はそのすぐ横におしゃべりな友人がいて、祖父もなんだか喜んでいるような気がしています。

30代に入るまでは、いや30代になってからも、つらく苦しい時期が続くかもしれないと、社会人の先輩が言いました。でもどうかめげるな。花の名前を一つ一つ覚えながら、外の空気を胸いっぱい吸ったりして、日々のあらゆる光を丁寧に掬い上げてほしい。真面目に生きなさい。
ああ、社会人の目を開かなければならないのはひどくおそろしいことです。しかし、雨粒が地面に溶け合うように、濡れた石の上をひたすら駆けていた日々のように、そして名を知らぬ花を見つめるときのように、光に身体をさらして、大好きな人たちの愛のうちに咲き誇りたいと思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?