ただの愚痴を清書

「誰も傷つかない表現」ってセリフを聞くたびに、傷つきながら笑った記憶とか、思慮の浅い言葉で人を傷つけた記憶なんかが蘇る。クリエイターの覚悟がどうこうよりも、「誰も傷つかない表現が存在する」って発想は受け手の感情をバカにし過ぎだと思う。

「あなたが傷ついていないだけの表現」を一般化しないでほしい。その表現があなたを傷つけなかったことは全力で肯定するので、同じ表現によって傷ついている人の可能性を否定しないでほしい。

ポリコレの流れには基本的に賛成だ。イラストを描くときには当然、マイノリティに配慮する。ただ、都合のいい配慮した自分にムカついてることがある。俺が描いてきたマイノリティはみんな「キモくない」。人から「キモい」と言われた人たちは俺のイラストを見て「キモくない人しか描かれていないこと」で傷ついたはずだ。自分はここにいないんだと。

俺が「キモい人」を描いていないことは分かっている。分かっててやってるから、少なくとも明確に加害性がある。「キモい人」が出てくるイラストを描いたところで、クライアントの向こう側にいる顧客は誰も喜んでくれない。俺のイラストは知らない誰かを傷つけたはずだ。「誰も傷つかない表現」なんか絶対に存在しない。

娯楽作品を自分とは関係のない別世界の物語として見ていたマイノリティの知り合いは、マイノリティに十分に配慮された作品を見たとき、「配慮された表現は自分のような存在が明確に排除されている」と実感した。彼を排除したのは俺のような人間だ。ここまで言っても伝わらないやつには伝わらないだろうけど。

マイノリティに配慮した表現から外れた人たちに向けて作った表現をわざわざ見にきて「やばい」「危ない」「キモい」とか笑ってるやつも嫌いだ。実際に殴られて蹴られて吐瀉物と排泄物にまみれた光景が、人によってはそれを体験することが「自分に向けての表現」になる人もいる。例としては極端かもしれないけど。

俺のイラストは人を傷つけた。その国の宗教や人種やマイノリティなんかを調べて、さんざん工夫してもなお、人を傷つけてきた。その人は唾を吐きたくなったはずだ。その人は自分が社会から疎外されていると感じたはずだ。

俺が描いたイラストは、みんなが笑っていて、人が人の目を見て話していて、楽しそうに会話をしている。誰も不安になったり、パニックになったりしていない。腕に傷もないし、皮膚がぼろぼろになってないし、両腕両足があるし、体が曲がったりしていない。そういう人たちが世界中にいるって知ってるのに、身近な人たちがそうであることを知っているのに描かないでいる。わざと描かないでいる俺は平気な顔をしている。

何らかの障害を抱えた友達がいる。わりといる。外見から特徴のある友達のことを、一般社会に向けたイラストのなかで描いていない。非常に倫理的で、お行意のいいイラストの中に友達を描いたことがない。一度もない。自分がしている配慮なんて「世間様を怒らせない商業的な成功」程度のもので、友達からは目を背けている。

クライアントから「わざわざ描く必要はないでしょ?」と言われたら、なんて言い返せばいいのか。友達から「僕はここにいないんだね」と言われたら、どう謝ればいいのか。

描いたことへの責任よりも描かなかったことへの責任のほうがずっと重い。そして取り返しがつかない。イラストを描くときの自分用のマニュアルに『友達に見せられる』と書いたくせに、一度も丸をつけられたことがない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?