ライター佐藤智

教育ライター/ブックライター/レゾンクリエイト 全国約1000人の教師に話を聞いた経験…

ライター佐藤智

教育ライター/ブックライター/レゾンクリエイト 全国約1000人の教師に話を聞いた経験を基に学校現場の事情を伝える教育ライターに。自著『SAPIXだから知っている 頭のいい子が家でやっていること』『公立中高一貫校選び 後悔しないための20のチェックポイント』など

マガジン

  • 恋愛×自己肯定感記事まとめ

    恋愛は、人の生き方を表しているように思います。自分自身を愛しているか。自立しているか。他人を信じる力が残っているか。そうした難しい「問」が恋愛には潜んでいる。このマガジンでは、自分や友人の恋愛を通して考えたことを少しずつ綴っていきます。

  • ちょっと考えちょっと役立つライター仕事

    ライター・編集者は楽しい仕事だと思う。でも、時に弱気になるし、時に何も見えなくなったりする。そんな時の道標になるかもしれないから、考えたことを蓄積していくことは大事。そんな思いのマガジン。

  • #学校教育系記事まとめ

    学校教育について思うこと、そして、新たな学校教育への思いを取り上げていきます。noteクリエイターで、学校教育を創造していく場になれば! * * * 2020年には、大学入試改革に新入試制度となります。センター試験がなくなり、高校現場にはポートフォリオの作成などが求められる。また、小学校で英語が教科化され、道徳、プログラミング教育がスタートします。授業も講義型からインタラクティブなアクティブ・ラーニングへと転換しています。そんな怒涛の変化をウォッチしていくマガジンです。

  • 【小説】恩贈り

    連載小説『恩贈り』をこちらにまとめます。#1からお読みください。 * 教師だった父。その父が亡くなったと、母から連絡を受けて15年ぶりに帰郷する。そこで、自分の知らなかった父の姿を見つけていく。

最近の記事

  • 固定された記事

教育ライター佐藤智の仕事まとめ。

こんにちは。ご覧いただきましてありがとうございます。 教育ライターの活動をこちらにまとめております。著書・執筆記事などの情報を載せておりますので、楽しんでいただけますと嬉しいです。 ◆プロフィール佐藤智(さとうとも) 両親ともに、教師という家庭に育つ。都留文科大学卒業後、横浜国立大学大学院教育学研究科へ入学、修了。 教員になろうか悩んだ末に、出版業界へ。新卒で、ビジネス系出版社の中央経済社へ入社。その後、ベネッセコーポレーションに中途入社し、教育情報誌『VIEW21』の編集

    • 現状はすべて「自分」の選択の結果である

      今年、私のもっとも大きな気づきは、「母は不幸ではない」ということだった。 私は、ずっとずっと母は不幸だと思っていた。それはもう自分の中に染み込みすぎて、疑う余地すらないような、私にとっての「真実」だったのだ。 例えば、こんなふうに思っていたーー。 <最愛の人と思って、信じて結婚したのに、夫の裏切りにあい。それも、これでもか!これでもか!というほどの、ひどい仕打ちにあい続けてきた。 自分の親ともうまくはいっていない。 小さい頃から苦労して、苦しめられてきた。 家族に恵まれな

      • 3.11を経て沖縄に移り住んだ彼女の「終わらない」思いについて。

        沖縄で、東北出身の一人の女性と知り合った。その方が、東日本大震災を契機に沖縄に移り住んだという話は仲間内でうっすら聞いていたのだが、長く、詳しい事情を尋ねたことはなかった。 あるとき、その方と一緒にお酒を飲むことになった。「ワイン飲み放題」、そんなお気楽全開の場所で、私は彼女の経験を聞いた。 彼女は、東日本大震災で大きな被害に遭った土地に暮らしていた。そこで、仕事をし、婚約をして、生涯暮らしていこうと考えていたそうだ。 しかし、3月11日に地震。そして、大津波。 車で

        • 家にいるのに「帰りたい」と思ったこと、ありますか?

          「家」という意味をもつ英語は2つある。「House」と「Home」だ。「House」は、器としての家。「Home」は"我が家"としての家だという。2020年から2021年にかけて、私たちはこれまでにないくらい「家」に目を向けた。あなたにとっての家は、「House」と「Home」どちらだろう。 そうだ。私たちは #ステイホーム をしているのだろうか?  それとも、 #ステイハウス ? この違いは、割と心にジリジリくる差なのではないかと私は思う。 家にいてもずっと「帰りたい」と

        • 固定された記事

        教育ライター佐藤智の仕事まとめ。

        マガジン

        • 恋愛×自己肯定感記事まとめ
          23本
        • #学校教育系記事まとめ
          51本
        • ちょっと考えちょっと役立つライター仕事
          76本
        • 【小説】恩贈り
          6本

        記事

          ガチガチの世界に生きるとはどういうことか?高校生の私が見た1シーン

          澤田智洋さんの『ガチガチの世界をゆるめる』を読んで、高校時代のあるシーンが頭から離れなくなった。ガチガチの世界にいる時、私たちは何らかの息苦しさを感じながらも、「もっとガチガチになれば良い方向に向かうはず」という神話の中にいる。そして、さらに硬度を強める方向に進む。どんどんどんどん硬度が強まり、いつかポキリと折れて、気づく。 (周りをキョロキョロと見回しながら)あれ? このガチガチ必要だっけ?…と。 特徴的なのは、その高度に硬度(シャレ?)が増した社会は、悪人が跋扈してい

          ガチガチの世界に生きるとはどういうことか?高校生の私が見た1シーン

          死にとらわれた朝から、「体験的に死ぬ」ワークを経て何が見えたか?何も見えなかったのか?

          朝起きて、「死んじゃおうか」そんな声が頭にこだまする日が何日間か続いた。ふとんの粘着力が強い。頭痛とともにその場に魂が溶け出しそうだった。自分の調子に不信感を覚えながらも、体がおかしいのか、メンタルがおかしいのかもよくわからない。 何が原因があるのではないか、そんなことを思うが。特別苦しい出来事があったわけではない。 ありがたいことに、コロナ禍であっても仕事がたえることはなかった。喉をかきむしろほど苦しい恋愛をしているわけでもない。楽しみがゼロかというと、そんなこともない。

          死にとらわれた朝から、「体験的に死ぬ」ワークを経て何が見えたか?何も見えなかったのか?

          「やめてもいい」は自己肯定感と密接にかかわるかも、という話。

          私は色々なことを、ことごとくやめられない人間だった。習い事も、部活動も、会社も、いつもモヤモヤして「行きたくないな」と思っても続けてきた。しんどいな…と思いながらも、「やめます」と自分からは言いだせない。 しまいには、引っ越すとか、怪我をするとか、やむにやまれぬ事態が起きて、「すいません。私は続けたいのだけれど、どうしても続けられません」みたいな状況に陥らないだろか…とすら願い始める。 どうして自分がこんなにも「やめ下手」なのか、先日、ハッと理解する機会があった。 ◆「

          「やめてもいい」は自己肯定感と密接にかかわるかも、という話。

          ライターの私がガチンコでインタビューについて考えてみた #ライター交流会 登壇を振り返り

          9月5日 #ライター交流会 のイベントで、第3部の「インタビュー」について担当し、お話をさせていただいた。新潟県燕三条からモデレーターをしてくださった水澤 陽介さんと、webライターとしてお話してくださった鈴木詩乃さんのおかげで、自分自身の思考を深める機会となった。(ありがとぅー!) 1年後、3年後、5年後と、少しずつアップデートした思いが出てきそうだと感じていることもあり、今の時点でお話した内容をここで書き留めておこうと思う。 ◆取材ってなに? 取材のスタンスは?端的にい

          ライターの私がガチンコでインタビューについて考えてみた #ライター交流会 登壇を振り返り

          保護犬を迎えると決めた私は、見えていない世界の広大さに愕然としている。

          保護犬を飼うことにした。昔から動物(というか昆虫も植物も生物全般)が好きで、ずっと飼おうよ飼おうよと親に交渉を重ねてきた。しかし、共働きだった我が家には面倒を見る余裕がなく、「もう! としぼう(弟)で我慢しなさい」と言われ続けてきた。…いや、この母の返しもどうなのよ? 大人になってからも、出張、出張、出張で、犬どころか自分の面倒すらままならない。自分の身体を含め、生命体を慈しむ環境にはなかった。 ずっとフツフツと動物がいる暮らしに憧れてきた。 でも、その思いは閉じ込めてきた

          保護犬を迎えると決めた私は、見えていない世界の広大さに愕然としている。

          履歴書に書いていない私を書いてみる。

          先日、ポートフォリにこれまでのライターと編集者の「仕事紹介」をさせてもらった。自分の携わってきた仕事を棚卸しする機会となり、なんだか少し前に進めた気がしている。 ポートフォリオは、「仕事の面」から見たこれまでの私なわけだが、もちろん、私のすべてではない。 ライター塾の同期で、ライターの先輩がこんなnoteを書いていた。「人は、履歴書に載らない事柄でできている 〜不要不急なものたち〜」。 「おお、たしかに!」と。履歴書に書く内容はある程度の定型にはめているようなところがある。

          履歴書に書いていない私を書いてみる。

          人間に期待しすぎる私はコロナを経験した後も、何も変わらないのではないかと震えている。

          今日は私が実は一番不安になっていることを書きたいと思う。それは、自分がコロナにかかって苦しむことでも経済破綻でもなくて、コロナが収束(終息)しても社会が何も変わらないのではということだ。 afterコロナやwithコロナの社会が”どう変わるのか?”ということが、至るところで議論になっている。私自身も、きっとコロナ禍を経験した我々の価値観や生き方は大きく変わるはずだ……と思っていた。 しかし、本当にそうだろうか? 最近、「どうせコロナ明けたらみんな変わらない生

          人間に期待しすぎる私はコロナを経験した後も、何も変わらないのではないかと震えている。

          【小説】 恩贈り #6

          ◆◆前回までのストーリー◆◆ 父親を亡くした手島一也は、15年ぶりに北海道に帰郷した。教師だった父親の葬儀には、多くの教え子が詰めかけた。そこで、28年前に起こった列車脱線事故と、その被害者を救うために遅刻した8人のためだけの卒業式が開催されたことを知る。さらに東京の教え子・川瀬祐美から父宛に届いた現金書留に、一也の心は揺さぶられる。ついには、連絡を取り対面することになるがーー。  父の教え子・川瀬裕美と会うことになったのは、高層ビルの間に忘れ去られたように佇む古い喫茶店だ

          【小説】 恩贈り #6

          会いたい人のことを思い、もう会えない人のことを飲み込めずにいる日。

          昨日、知人が新型コロナウイルス感染症で亡くなったことを知った。間違いなくこれからやりたいことが、たくさんたくさんあるだろう方だった。パワフルだったし、生命力にもあふれていた。年齢は私とそう変わらない。 私は、この事実をうまく消化できずにいる。 「悲しい」とか「悔しい」とかそういう感情ではなく、「え?」という飲み込めないゴツゴツとした気持ちが喉元に引っかかっている。思えばこれまで私は、人の死をきちんと受け止められたことがない。 いつも「え?」とキョトンとしたまま、時に

          会いたい人のことを思い、もう会えない人のことを飲み込めずにいる日。

          我慢をすると我慢を強いる人になる。我慢から楽しさへの転換を。

          コロナ禍でパチンコに行ってしまう人やサーフィンに向かう人、沖縄への渡航を考えている人などが日々報道されている。もともと家で過ごすことが多い私は生活が大きく変わった感覚はそこまでないのだが、一方で家にいることへの我慢に「限界だ!」と叫ぶ人も少なくない。 これまで以上にどんどん「我慢」度が高まれば、 「あの家は昨日も行っていたのに今日もスーパーに行っている」 「あの一家は公園で遊んでいる!」 など、他者への目がどんどん厳しくなる可能性がある。 ◆「我慢」という言葉が気になってい

          我慢をすると我慢を強いる人になる。我慢から楽しさへの転換を。

          【小説】 恩贈り #5

          ◆◆前回までのストーリー◆◆ 父親を亡くした手島一也は、十五年ぶりに北海道の田舎への帰郷を決めた。教師であった父親の葬儀には、多くの教え子が詰めかけた。そこで、二十八年前に起こった列車脱線事故と、その被害者を救うために遅刻した8人のためだけの卒業式が開催されたことを知る。さらに東京の教え子から父宛に届いた現金書留に、一也の心は揺さぶられる……。  東京に戻り、スマホの画面を眺めた。そこには、「川瀬裕美」の連絡先が撮影されている。電話を掛けるという行為はただでさえ妙な緊張

          【小説】 恩贈り #5

          「正義」の反対は「悪」ではない

          コロナによる自粛の動きが進み始めてからというもの、各人が自分たちの「正義」を公表する機会が増えたように思う。そういう私も、「なぜこうしないんだ」「もっとこうしないと!」という思いをいつもより強く抱くようになった。自分の考えが100%正しいとは思っていないし、経験したことのない事態に直面する今、誰の言うことも100%正しいとも思えない。 しかし、それでも、自分の中の「正義」が顔を出す頻度が増えている。非常事態とは、“そういうもの”なんだろうか。 例えば私は、「さすが

          「正義」の反対は「悪」ではない