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自分のために書くということ。

やっと少しだけ、ほんの少しだけ落ち着いて、自分のために文章を書ける時間ができた。noteには、「書きたいこと」の下書きばかりが溜まっていて、未完成な文章たちがかわいそうに打ち捨てられていた。これから少しの間は、そのひとつひとつを掬い上げるのに、時間を使ってみたい。

自分のための文章を書かない日々が続き、徐々に体が重くなっていくのを感じていた。仕事がライターなので、常に何かしらの文章には向き合っているのだが、それは自分のためというよりは多くは読者のためであり、著者のため。そこからも、自分を見つめるヒントをいただくのだけれど。

私にとって、これほどまでに自分のために書くという行為が大切だったのか、と今更ながら愕然としたタイミングでnoteと向き合う時間ができた。
変な比喩だが、マッサージに行く時間がやっと取れた感覚に似ている。

話は飛ぶが、私にとって文章とはなんなのか?を考えて作ったスライドがある。ライティングの講座の最後に、投影しているものだ。

自分が思い描いた通りの世界を文章で表現できるようになると、心の重荷を少しおろすことができます。
あなたの思いや感動、視点が文章を通じて多くの人に共感されることは、大切な人があなたの話しで笑ってくれたときの感覚に似ています。
「自分」を表せる文章を書ける人が増えることで、ほんのちょっとだけ幸せの数が増える、と私は思っています。
文章を通じて、多くの人とつながり、自分自身ともつながり合っていけることを願っています。

最近わかってきたのだが、私は自分の気持ちを表現するのが得意じゃない…、というか自分なりの理屈があるんだけれど、それを多くの人に理解されるような言葉におろしていくのが苦手なようだ。
文章化は、否が応でもその工程をはさむ。しかも、会話のような瞬発力は必要なく、持久走のように向き合って向き合って、それができる。

いままで名前のついていなかった感情に名前をつけることになるし、縁取りのない薄ぼんやりした色彩を人間界の言語ボックスに整理していくことも可能だ。
善い悪いではなく、少なくともその行為は私を救っているような気がする。

書くことを商売にした今も、文章は私にとって「自分とつながるツール」だし、「自分と他者をつなげるツール」だ。

たまに、「天職」という言葉で表現していただくことがあるのだけれど、物書き業と私の関係性はそういう「プラスの意味」ではないような気もする。どちらかというと、私は書くことを仕事にせざるを得なかったんだろうなぁと思っている。ほかの仕事では、きっと自分をこの世界のパーツとしてハメることができなかった。(いや、未だハマりきってはいないから、ままならないんだけれど。)

若干周りが見えるようになった最近は、あわよくば、私と同じようにもどかしさを抱えて生きている人に、「文章を書くという漢方薬があるんだよ」と伝る役を担えたらいいなとも思っている。

ここで、このnoteを終わろうと思ったんだけれど…。少し加筆。

今日会った人が、「自分の感情と書ける文章とのギャップがありすぎて、書くのを諦めてしまう。だから文章は得意ではない」と言っていた。
…それを聞いて、「そうか」と思った。

私はどうしても文章が上手くなりたくて。今もずっと何を追いかけているかわからない何か追いかけていて。あげく勝手に苦しくなったりしているのは、自分の心と文章力の溝を埋めたくて埋めたくて仕方ないからなんだろうな。
究極の自己満足追究人間、たぶん、それが私(笑)

いつもありがとうございます!スキもコメントもとても励みになります。応援してくださったみなさんに、私の体験や思考から生まれた文章で恩返しをさせてください。