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書評って一体なんだろう。書評コラムを書くときに考えていること

ある媒体さんで書評というか、書評コラムを書かせていただいて、ちょうど一年になる。

この仕事をさせていただくまでは、書評なんて書いたこともなかったし、書評というものを読んだこともなかった。(正確にいうと、自分の担当書籍に関する記事は読んだことがあるけれど、それ以外は記憶にない)

連載がスタートしてからは、意識的に、人の書評はおろか、Amazonレビューも読まないようにしてきた。
なので、相変わらず、どんな要件を満たせば書評と言えるのか、レビューや読書感想文とはどう違うのか、いまだによくわからない。

わからないなりに、私が、この連載の書評コラムを書いているときに考えていることを、一周年の節目にまとめてみたいと思いました。

まず、このコラムは、
読んだ本の内容について書くのではなく
読んだ本によって連れて行ってもらった場所や、
読んだ本によって見えた光景、考えたことを書いている。
明確に決めているというよりは、それしか書けないというのが、実情で。

というのも、私にとって、読書とは、ほとんどの場合
知識を得るための手段ではなく
思考をするための手段だからだ。

本を読んでいると、そこに書かれている文章から触発されて、私はいろんな所に旅をする。

こんな時、私だったらどんなふうに考えるかな

そういえば、昔こんなことがあったな

あれ? という事は、あの時のことってこう解釈できる?

……etc.etc.

いろんなことをインスパイアされた、豊かで、私にとって面白い本ほど、何度も何度も本を離れて遠くに飛んでしまうから、読むのに時間がかかるし、本の中身はさっぱり覚えていない。

私にとって「素晴らしい本」とは、私をここではない場所に連れていってくれる本だ。 

どんなに役に立つ本でも、その本から一度も旅できなかった本に関しては、感想は書けない。
本を読んでから、あ、これは書けないなと思うこともいっぱいあって、いつも締め切りにきゅうきゅうとしてる。

そんなふうだから、私は、相変わらず書評といわれるものがどういうものなのかわからないんだけれども、多分私の連載は、「書評」じゃなくて、「(書評)コラム」なんじゃないかなと、最近思ってる。

たとえば

樹木希林さんの本を読んだときは、本の内容よりも、よっぽど、「この編集さんはどんな意図で、膨大に残された樹木希林さんの言葉の中から、この部分を引用しようと思ったのか」の方がとても気になった。


気になったので、元の原稿を国会図書館に読みにいったのだけれども、そこで読んだ文章から、さらにいろんなことを考えた。
コラムにはそこまで書かなかったけれど、まず、対談相手がいる原稿の、片方だけの言葉を書き出すことで、大切なことの8割が抜け落ちるなということを「発見」した。

樹木希林さんが、その言葉を、吉永小百合さんに言ったのか、橋本治さんに言ったのか、はたまた瀬戸内寂聴さんに言ったのかで、意味は全然違うのだ。
だってみんなもそうでしょう。同じ言葉でも、会社の上司に言うのと、夫に言うのと、元彼に言うのでは、意味が違うよね。

そして、もうひとつ。樹木希林さんの対談は、樹木希林さんの答えよりも、問いの方に面白さがあった。人は何を答えるかよりも何を問うのかの方に本質が出るなと、感じた。これも「発見」だった。

さらにいうと、樹木希林さんがインタビュアーをした連載がずば抜けて面白かったし、樹木希林さんがライターまで買って出たという、郷ひろみさんが松田聖子さんにフラれたあとの失恋対談の原稿のセンスがすごかった。

そして、ここからは想像だけど、きっと樹木希林さんは、『一切なりゆき」の本の印象から受けるほどには、はっきり言い切り方の話し方をする人ではないような気がする。また、それを良しともしていなかった気がする。

ほぼテープ起こしのまま出されたような対談や、ご本人がライティングされた対談原稿は、ものすごく行間が広い。
いろんな解釈ができる曖昧な言葉と、結論のないままあちこち飛ぶ会話で成立している。
ひょっとしたら、こちらが普段の会話に近いのかもしれないと思ったところで

ああ、どんな人の人生も、誰かに編集されているんだなということに思い当たった。 

そんなこと、言葉にしてしまったら、当たり前のことだ。
でも、私は、この本を読むことで、生まれて初めてそのことに、自分で気づいた。

これが、私にとっての、読書だなあ。

『一切なりゆき』に書かれていた、いわゆる名言はいっこも覚えてないけれど、この本に連れて行ってもらった場所のことは一生忘れない。
だから、この本はわたしにとって、本当にいい本だった。


そういうことを、書こうと思って書いてるんだけど、それが誰かの何かになるかどうかは、皆目わからない。
わからないまま一年も書いてきた。


小野美由紀さんの本を読んだときに感じたことは、読み手としてだけではなく、書き手として。

こんな文章を書ける人がいるんだなあって心の底からバクバクしたし、
あまりに自分から遠いと嫉妬もしないんだなあとも思った。
基本的に、読者がライターさんじゃないのに、書き手として感じた何かを書くのは求められてないと思うから、これまでは避けてきたのだけれど
読んだ時には、ライターとしての後悔と同じ書き手としての尊敬の念しか思いつかなかった。

その一方で、この文章がどれだけ凄まじいものかがわかるくらいには、わたし、この4年間、ちゃんと書いてきたんだなあ、と、自分を褒めてあげたい気持ちにもなった。


ときどき、どうしてこうやって、仕事として、本について書いてるんだろうと思う。
仕事になる前はもっと自由に気楽に、書いていた。

でも

読者対象が限られた媒体で書く制限感と
制限されてるから面白い感と

テーマがあるから書けない書籍の数々と
テーマがなければ出会えなかった書籍の数々と

締め切りがなくて書きたいことを書ける自由と
締め切りがあるから書ける不自由さと。

そんなことを感じながら、今の方が面白いなあと思うから、書いてます。

最近、いろんな媒体さんから書評のご依頼をいただき、しかもものすごく丁寧に読んでご感想くださり、それはとても嬉しいです。ですが、こんな感じで、現在は、週一連載でいっぱいいっぱいです。

届けたい読者がいるという責任(を持っている編集さん)の元で書いてること自体、読書の延長線上の思考なので、とても楽しいです。

来年度もよかったら、読んでくださいませ。

telling,の書評コラムはこちらです

んでは、また。さとゆみでした。

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