思いやりと偽善

先日,YouTubeでとある動画を見ていると,他人へのやさしさや思いやりなど手を差し伸べる行為について,何十年も前に恩師が言っていたのと同じことを言っていて,忘れていた記憶が蘇りました。

大昔から日本人は思いやりに溢れた民族です。
それは,自分を犠牲にしたり我慢したりするものではなく,心からの行動でなければならないと教えられました。

当時,自分がそうではなかったことに気づかされましたが,その後,時間が経つにつれ,こんな大事なことをすっかり忘れていました。

恩師曰く,人の心をコップに例え,コップに水を灌ぐようにコップを幸福で満たし,コップから溢れた幸福を周りの人々に灌ぐことが本来の思いやりでありやさしさであると。

今の世のボランティアと言われる行為の多くは,コップの水が半分しかないのに,その水を他人に分け与えようとしている。
身を削って他人に奉仕しているから,相手から見返りや感謝を期待する。
それらが無かったり,自分の思いと違う結果になったりすると腹が立つ。
それは「偽善」であると。

コップから溢れ出たものは,自分の中には溜めることができないもの,放っておけば消えていくものですから,それを他人に分け与えて,見返りがなくとも感謝されなくとも気にならないはずです。
極端な話,その人に分けたものをその人が他人にあげようが捨てようがその人の勝手であり,それに腹を立てたり文句を言うのは筋が違います。

本来,思いやりとはそういうものだと教えられました。
そして,元来,日本人は,コップを幸福で満たすのが上手な民族であるから,思いやりに溢れているのだと。
朝日が昇るのを見て,澄んだ空気を胸いっぱい吸い込んで,子供たちの元気に走り回るのほ見て,そういう日常のすべてから幸福を感じコップを満たす名人であり,日本は常にコップを満たしている人たちばかりでした。

当然,病気で苦しむ人や仕事で失敗した人,物事が思い通りにいかない人もいて,その人たちに溢れた分の幸福をおすそ分けして,互いを思いやることが義務や同調ではなく当たり前の国だから,日本は世界にまれにみる幸福にあふれた国だったと。

それが,日本よりも遥かに劣化した欧米文化を取り入れることにより,金,権力,安楽という,それまでの日本とは全く異なった価値観を植え付けられた結果,日本人が本来持っていた幸福感を喪失し,欧米同様の堕落した民族に成り下がってしまいました。

縄文や弥生時代には万の単位の渡来人が蓬莱山を夢見て日本にやってきました。当時の日本の人口は今の1/1000程度だったにもかかわらず,それだけ多くの渡来人を受け入れられたのは,日本人が幸福に溢れた人たちだったからであり,渡来人たちは,そんな日本に来て,心から日本人になりたいと願って日本人と同化していきました。
秦氏一族などがその代表です。

現在も続く戦争で,多くの子供たちが悲惨な目に合っていて,できる限りの支援をしたいと思いますが,難民や移民受け入れなどは,今の日本では,身を削った偽善ではないでしょうか?
渡来人を受け入れられるほど幸福に溢れた国でしょうか?
そんな渡来人が日本人になりたいと思える国でしょうか?

日々,「一隅を照らす」ことを心がけていますが,この動画のおかげで,それが身を削っての行為では意味がないということを思い出しました。

まずは,自分のコップを幸福で満たしましょう。
日々の暮らしの中に,今まで見逃していたけれど,幸福を感じられるものがたくさんあります。
そうやってコップから溢れた思いを多くの方に届けていければ,日本は少しずつ良くなっていくはずです。

あっ,私は僧侶ではありません。あくまで科学者であり技術者です。
世の中には,京大を辞められる宮沢氏のように,こんな科学者も僅かながらに存在します。
世に溢れる「今だけ金だけ自分だけ」の欲に塗れた科学者だけを見て,科学者に失望しないでくださいね。

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