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タピオカと写真と宝石集め

子供の頃、私は石が好きでした。道端できれいなものがあれば拾って持ち帰り、当時自分が持っている中で一番重厚な(たしかカステラの箱だったと思います)宝箱に入れて集めていました。放課後、集めた石を友人と持ちよってジュースでも飲みながら、見せ合いなんかもしたものです。

実はこの宝石集めと写真は似たものなのかもしれません。

飽和したタピオカミルクティーの写真

2019年はタピオカミルクティの年でした。タピオカ店には行列ができ最後尾は1時間待ちなどざら。長蛇の列が路地の一角を埋める光景をよ目にしました。ここまでして人々がタピオカを飲もうとする理由はなんだったのでしょうか?タピオカがむっちゃ美味しいからでしょうか?
主たる目的はトレンドに乗る(または流される)ことだと思います。トレンドという大きなものは人々を同一のベクトルへと推し進めます。ファッションも文化も思想もー。

トレンドというものは現に始まったものではなく昔からどこにでも存在していたはずです。江戸時代の庶民の着物の色にも流行りがあったことでしょう。ただ、インターネットでありとあらゆるモノが繋がれた現代においてはその生成と消滅のスピードが違います。例えば80年代に流行した○○などとよくテレビで耳にしますが、タピオカブームはせいぜい1年だったのではないでしょうか。過去のことだからまとめて大まかに言われているだけと思う人もいると思いますが、タピオカブームが将来紹介されることがあったとしても10年くくりにはならないような気がします。それだけ時代の流れは速くなっている。

このようなトレンドの急速な生成と消費はインターネットの発達、特にSNSの普及が関係していると考えられます。
SNSの中で、個人は趣味・趣向など様々な要因で結びつき、ある程度似通った傾向を示す者同士がまとまったクラスターという集合を形成しています。写真愛好家の集団をカメクラと言いますがこの"クラ"がクラスターです。近しい個の集合体であるクラスターは個同士の関連が強いために同調が起こりやすく、加えて、アンテナが張り巡らされているため、同一の思想をほんの一瞬のうちに形成することができます。ちょうど、くるくる回っているたくさん方位磁石に磁場を与えると同じ方向を向くように。

トレンドは、このクラスターの中で個もしくはほんの一部が同じ方向を向いたときに起こります。方向の一致に気づいた人々が同調し同じ方向を示してくのです。結果的に一つのクラスターは同じベクトルを持った集団になり、繋がりによって急速に個をそして別のクラスターをも取り込んで成長していきます。これがトレンドの形成です。このようにしてタピオカもトレンドになったのかもしれませんね。

さて、タピオカの話に戻しましょう。タピオカを飲むことではなく、"タピオカの写真を撮る"ことにはどんな意義があるのでしょうか?これには写真のその時その場にシャッターを押した人がいた事実を伝える性質が関係しています。流行りのタピオカ店のタピオカミルクティーの写真を持っていることはトレンドに撮影者がのったという意味合いを持ちます。これをSNSというメディアに投稿することで自分以外の他者に対して自分がトレンドに乗っているということを開示することができるのです。大多数を占める大きなもに含まれたいという欲求は本質的に人間が持っているものなのかもしれません。。

イメージの占有

特定のスポットのあの構図の写真というものはタピオカの写真と同様にSNSではあふれかえっていますが少々背景が異なるように感じます。
タピオカの写真は撮影者がトレンドに属することを明示するものでしたが、トレンドに乗るということは写真においてはあまり好意的にとらえられる内容ではありません。同じ写真を撮影することはむしろオリジナリティを欠くような行為であり撮影者にとって利益となることは少ないと考えるのが普通だからです。ではなぜありふれた同じ風景を撮ってしまうのか?そこにはイメージを所有もしくは剥奪したいという願望があるのではないでしょうか。写真を撮るということ、現地に赴いてシャッターボタンをを押すことは、その時その場にシャッターを切った事実と同時に現実世界の一部・一瞬の投影を撮影者の所有物に変換します。ほぼ同じ位置で同じ構図で撮った写真があってもシャッターを切った人が違えば撮影された画像の所有者は異なるのです。つまり、ほとんど変わらないイメージを複数の人が自分の物として所有することができるという特性が写真にはあります。

タピオカの説明で、トレンドの始まりは、個人か小さな集団が同じベクトルを持ちそれに同調が生じることによって引き起こされるとしました。写真でのよく見るあの場所あの構図の写真もこれと似た形で起こるのですが、同調ではなく共感が人々を取り込むという点で異なります。
ある写真が投稿されたとき美しい・驚きといった共感が広まります。これはいいねと言ったリアクションに置き換えられコミュニティー上で表明されていきます。このリアクションのクラスターの枠を超えた広がりが所謂バズリなのかもしれません。このようなバズった・多数の共感を得た写真はトレンドと同様に個を引き寄せる力があり、増幅していきます。
受け手が写真をやっていない人であれば共感とその感情の表明にとどまります。ですが、受け手が発信者と同じカメクラに属している場合、表現者としての側面も持つ受け手は、似たものを撮るという選択をすることができます。これは先ほど説明したように写真がほとんど変わらないイメージを複数の人が自分の物として所有できるという性質を持っているからです。

オリジナリティと著作権

では実際に受け手が同じような写真を撮った時、その作者はだれになるのでしょうか?オリジナルと主張する構図を撮った作者はこの人たちに対してパクリだと指摘することはできるのでしょうか?この点については感情ではなく理性で判断されるべきです。同じような焦点をもつ判例がいくつか存在しています。判例については以下の記事を読んでみてください。

この記事をもとに考えると、現在SNSで見かけるスポット化した写真は対象に作者の創作が関与しない自然的被写体にあたりますから、仮に訴えが起きた場合、被写体以外の要素で類似性が議論されることになります。
ですが実際、両者では、天候・光といった条件も違いが認められるはずですし、編集においても独自性が見られるはずですから、この手のスポット化した写真が著作権侵害になることはめったにないように思います(個人的見解ですが)。

ですので、法的に見ると"ほとんど"変わらないイメージを複数の人が自分の物として所有することは問題にならないということが言えます。

パイオニアのジレンマ

人間である以上やはり個人として他者に認められたい承認欲求があります。SNSでの発信という行為も当然のことながら少なからずこれを含んでいます。他者から承認されたということは実社会では実態を持つモノではありませんが、SNSにおいてはリアクションという目に見える数値で表出します。バズるつまりリアクションが多いということは多くの人に承認されたというSNSの目的の達成なのです。
この多くの承認を得るために新しい誰も見たことのないような光景を求めて写真愛好家たちは日夜活動しています。そして新しいスポットの発掘という形でバズが達成された時、あるジレンマが生じてしまいます。それがスポットというトレンドの形成と消費です。自身のアイデンティティ・表現だったものが一瞬のうちに広まり飽和する。結果、一時は承認欲求を満たした特別な一枚がありふれたものとして価値を失っていく。
SNSにおいては自己の承認と埋没という2つの背反する事象がほぼ同時に起こる構図が成り立っているのです。
前項で述べたように著作権という点において、同じ場所で撮影された似た写真というものが侵害になる可能性は低いです。ですので、自然的被写体を対象とする写真家は、写真という手段においてはオリジナリティが消却されてしまうことを受け入れる必要があります。

スポットに限定して書いてきましたがこれは視点や手法においても同じです。ある時は斬新な視点・技術も一瞬のうちに消却されていきます。ICMという意図的にブレを生じさせる技法は今やどこでも見るものになりました。

宝石集め

石の話に戻しましょう。
学校が終わった後、友達と宝石箱を持ち合って自分の石を見せあう。

「この石綺麗だね」
「こんな石が欲しいな」

時には自分ひとりで石を愛でることもあるでしょう。

「ああ僕の石綺麗だな」

と、やりかけの漢字ドリルの上に鉛筆を放り出してー。
当時大人だった親からしてみたら友人の石も私の石も同じような似たものに見えたのかもしれません。ですが、石を集めている私たちからすればすべてに個性があってそれぞれ輝いたものに見えました。

写真だって同じです。特定のスポットの写真は一歩引いて見ると全部同じものでしょう。ですが当事者である写真愛好家からするとその中の1イメージは紛れもなく自分のものであり少なからず個性がある。友達の石に似たものを拾ってきてもそれは友達のものではなく私の石であり、その私が所有しているということに意義があるように。

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