イケメンの家でハム食べながら泣く女

恋をすると私はみすぼらしい。
自分が、とんでもなく弱くかなしい生き物に思えて仕方がない。

新しいシェアハウスに引っ越して数日、
天気やラジオの話をしたくてもルームメイトたちはほとんど家におらず、私は走り回る近所の子供達をつかまえて「晴れてるね」なんていきなり話し始める。子供達は適当に笑って、方々へ散っていく。

私の世間話欲求はMAXに達していた。

子供を使って自分の欲求を満たそうなんてほとんど変態と同じ発想である。
しかしわざわざ日本の友人らに電話をし「今日は近所のスーパーのじゃがいもが安いんだよ」なんて話をし始めるほどの勇気がない。しかも日本は現在早朝5時である。
こんな時間に誰がグラスゴーのじゃがいもの値段など知りたいだろうか。

これはほんとうに誰かと話をしなきゃまずい。
と思って、いつものパブに行ってカウンターのすみでビールを引っ掛ける。誰も彼も友人たちや恋人たちを連れて、たのしそうである。
ちょっと前の私なら「ヘーイ!日本から引っ越してきました」などとへらへらその輪に入り込んで喋り散らかし勝手にいい気分になれた。
でも今夜どう考えても私は「やたら陽気な日本人の女」としてではなく、
ただのなんの面白みも意外性もない私として、じゃがいもや天気やサッカーの話をしたかった。

ジョージしか思いつかなかった。

「飲みに行こうよ!」「無理」「明日は?」「明日にならんとわからん」
とリズミカルに惨敗を続けている私であるが、
今日はマジでもうどうにもならないと思った。

「人間の形をした人と話をしないとマジで死にそうです」

忙しいのはわかってるけどちょっと家にお邪魔してもいいですか、本当にちょっとだけ!ちょっとだけでいいんで!と私はプライドも何もかなぐり捨てたもらったら困るメールランキング入り確実のメッセージを連投する。
すると

「じゃあついでにスプライト買ってきて」

と私の悲痛な叫びを完全に無視したパシリ要請がきた。
普通は「大丈夫かい?もちろんおいで。駅まで迎えに行くよ」だろ!
全く女心をわからない人である。
でも、きっとそれだから彼は彼なのだろう。

ぷりぷりと憤慨しながらコンビニに向かうと、めずらしく陽気なインド人店員が100万ドルの笑顔で迎えてくれた。
スプライトとハムとチョコレートを買い、何日かぶりのジョージ宅を訪れる。
まだ持っていた合鍵で建て付けの悪いドアを開け、オッスと声をかける。
と、ソファに横たわりサッカーを見ている彼がいた。
おっと顔をあげてから、オーッスといって笑った。

その顔を見たら、途端に意味不明な量の涙が湧き出てきた。

ジョージは驚いた顔をした後に、とりあえず立ち上がりひとまず抱き寄せて、私の背中をさすってくれている。
彼の腕の隙間から、ダイニングテーブルの上でマッシュルームとマシュマロとタバコがなにくわぬ顔でしれっと共存しているのを見ていた。
ああジョージだなあと思ったら、泣けた。

家に押しかけていきなり泣き出す女ほど迷惑なものはないだろう。
私だって嫌だ、でも私はそんな女に成り下がっていた。

そしてそんな自分がたまらなくみすぼらしくて余計悲しくなった。
「大丈夫か?」と心配そうにうろうろしているジョージを見たらさらに悲しくなってトイレットペーパーをぐるぐる涙をぬぐう、大丈夫、大丈夫、と言いながらいきなり買ってきた1ポンドのハムを食べだす、「そのハム、最強にまずいだろ…」とまた心配そうな瞳の彼を見て泣く、そのティッシュのカスをジョージがゴミ袋に入れる、の繰り返しで彼にとって私ははるばる東洋からやってきた迷惑の塊だった。

私は全くなんで自分がこんなに悲しいのかわからなかった。
ジョージが私に恋をしていないからかなしいのではない。
どこかに自分が、必要とされる場所が欲しくてたまらなく悔しくて泣いていた。
恋じゃなくたっていいのだ、なんだっていいのだ。
しかし恋というフィールドでは簡単にそれが手に入るので、私は弱っているときついつい恋に「私をわかっておくれ」欲求を任せてしまう。

自分を好きでいてくれる人にいつだって話を聞いてもらえる環境は最高の温室だ、その世界の中で私は女王で居られる。

しかし、一歩その外に出れば、私は何者でもないただの日本人の女Aであり、誰かに認められないのなら自分で何か自分を認められるように足掻かなければいけない、よっしゃここは一発かましたろとこん棒ブンブン振り回しながらはるばるイギリスまでやってきたのに、すっかり人のやさしさにほだされてまたビショビショのほうれん草のおひたし状態になっている。

ほとんどジョージが憎い、中途半端に優しくしないでおくれよ、と思う。

でもその優しさはいつも抜群のタイミングで私を包み、
調子に乗ってもっと優しくしておくれと歩み寄ればさっと居なくなってしまう、そして私は探す、かなしくなって諦めたころにそっと現れて、やさしい笑顔でまた消えていく。

そして忘れられなくなる。

たくさんのやさしい人々の顔が浮かんで、また私を悲しくさせる。
最初からひとりでいれば、こんな気持ちにならなくて済んだのだろうかと思う。

うちのバアちゃんがいつも、やってくる野良猫にかたくなにエサをやらなかったのを思い出す。
こっそり陰でエサをやっていた私を見つけて、「飼えもしない奴がエサやるな!」とよく怒られた。血も涙もないババめと恨めしく思っていたが、今は少しババの気持ちがわかる。

責任も取れないのにその時の感情だけで優しくするのは、本当に優しいのとは違うのかもしれない。
やっぱり、ジョージは悪いやつなのだろうか。

あの猫はどうなったろうか。


いただいたサポートは納豆の購入費に充てさせていただきたいと思っております。