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一ヶ月後にあなたを抱きしめてもいいですか

「来月の僕の誕生日に、餃子とビールと、あなたの抱擁がほしいです」

一ヶ月後の抱擁をメールで予約してくる人に出会ったのは初めてであった。

オトさんは、変である。

このひとは沈黙というものが全く苦にならないようで、平気で私の隣でいつまでもじっとしている。
私が西洋だるまと称したその眼光がじっと動かないのを見ると、ほとんど恐怖を感じる。
でもわたしが恐る恐る顔を覗き込むと、一気に散歩宣告をされた芝犬の如きコロコロとした笑みがそこに弾ける。
変わった人だな、と思った。

私たちは週に一回のペースの”デート”を重ね続けてもう早2か月が経過しようとしている。
手を繋いで町を歩いたりとかそういうことでウキウキ、それからお互いの顔を見てはただニコニコしているだけである。
あら素敵ね、とおもいたいところだがここで注意したいのは、私たちは30を過ぎた大の大人だということである、初恋の波に乗った中学生ではない。
私はだんだん、途方も無いこの先の恋の行方について考察のち眩暈、なんだか妙にセンチメンタルな気分を抑えきれなくなっていた。

この夜、わたしたちはいつものように近場のDJパーティーへと繰り出す。
そこではいつになく退屈な音楽ばかりが流れており、踊りきれずにいた私たちはただダンスフロアでワインによく似た飲み物をすすっていた。

隣にはいつものオトさんである。

私は彼に、
「あ」と声にならない声をかける、
するとオトさんは私の方に身を寄せて、「ん?」と私を見やる。

その仕草を見た途端に、
私の中でなんだか猛烈にかなしいような、せつないような、私にはどうにもできない感情のはしくれが騒いだ。

私は「帰るね」と言った。

いつもはわかった、送って行くね、とすぐに応じるオトさんが、この日は違った。
この近くで友達が別のパーティーをしてるみたいだから、そっちに移動しようと私の手を引いた。

外はざんざか雨が降っており、
誰ひとり傘を持たないストリートはずぶ濡れの人々の洪水、
「歩いて10分くらいのところ」にあるというその家へと向かう道すがら、
同じくそのパーティーに向かうという彼の友人・アリと合流し私たちは散々に歩いた。

だれもかれも頭のてっぺんからつま先まで完全にずぶ濡れである。

と、前方からやってきたびしょびしょフードの男がとつぜんアリに掴みかかり、アリのつけていたチェーンネックレスを引っ掴んだ。

ちょっと、という間も無くオトさんはサクッとその間に割って入っていき、
びしょびしょフードの男を道の脇に呼び寄せて何やら話し込み始めた。
アリはすっかり完全に殴り合い上等だコラ的なオーラをムンムン解き放っている。

なんてこったろうか。私はもう寒いしずぶ濡れだし怖いしもう帰りたい。

私とアリは、オトさんとフードの男をしばし眺めながら長いこと雨に打たれていた。

身体が冷えると闘気というのは消えゆくものらしい、
最初は殺気バリバリだったフード男は次第になんかめんどくさくなってきたな、というような顔になりとうとうフンを鼻を鳴らして去っていった。

アリは、なんだあいつはーまじで間に入ってくれなくても俺がぶっつぶしたのによーとグチグチ言っている、
しばらく黙って歩き続けていたオトさんがふと口を開く、
ああいう輩に絡むとまじで死ぬぞ、絶対下手に関わるんじゃねえ
と言った彼の目は、完全なる殺気にあふれていた。

私はもう一度「帰るね」と言った。

途端に、
オトさんの顔から般若が消えていき、
あれよあれよという間に雨の日に捨てられたダンボールの中の芝犬である。

そして次に私の口から出た言葉は「一緒にうちに帰ろう」だった。

オトさんはうなづいて、タクシー代もない私たちはバスに乗って30分かけてうちに帰る。

それから私たちはただそっと寄り添って横になる。

しっとりとした髪と肌の感触が体温でゆっくりと温まっていくのを感じる。
あれ、ちゃんと鍵かけたっけな、とかそんなことを思いついたくらいで、それから私はすぐに眠ってしまった。

昼過ぎに目を覚ますと、窓から見える空はすっかり秋晴れ。

隣でじっと寝息を立てているオトさんをみて、ああそうかとおもう。
この人はまつげが長いな、なんて遠慮ない視線を浴びせていたら
そのまつげがぱっと開いて、
そこに大きなブラウンの瞳が現れる。
それは私の瞳を捉えて、
恥ずかしそうに細まる。

それからオトさんは、
その目の下にできたでっかいクマをこすりながら
「またね」
と私の頬にキスをして、去っていった。

その後、私はいつもと同じ日曜日の昼下がりを過ごす。

掃除機をかけて、アダムと一緒にランチを作り、
ロジャーとピラティスをし、キキの散歩をする。

だんだん昨日あったことが全部ほとんど夢だったような、そんな気がし始めていた。
夜、溜まりに溜まった洗濯物を片付けていたらメッセージが一件。
オトさんである。

「来月の僕の誕生日に、餃子とビールと、あなたの抱擁がほしいです」

餃子とビールと抱擁を誕生日に求める彼を、
そしてこのメールを打っている時の彼の表情を想像すると、私は胸の奥をペンチでキューっとつままれているような、そんないたみを感じた。

私はこれまで人間の関係なんてなるようになるさ風まかせだよとただただ何も考えずにその場の感情に任せた人付き合いばかりを重ねてきた。
彼のようにひとつひとつレンガを積み上げるように、
ていねいに”関係”を築こうとしている人をみたことがなくて、私はこのひとがいじらしくてどうしようもなかった。

一体どうしたものかとしばらく部屋中を転がりまわった挙句に、
私はもちろんです、と返信。

それからすぐに階下に降りていって恋バナ仲間のジョアンナにねぇねぇ聞いてこの人めっちゃ可愛いんだけど一ヶ月後にハグしたいって!とかって言おうかと思ったけどやめた。

この人の不器用な愛情表現を、私はただひとりで噛み締めてみようと思った。

オトさんの存在をおもうだけで、私はなぜだか泣けてくる。
なんて切ないひとなのだ、とおもう。


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