もう死んだみたいな気分

若さという呪縛から逃れる。先日23歳になった。世間的にはまだまだ若い年齢だが、心の底では、本当はもう若くないと思っている。
なぜなら私の中での「若い」は多分、10代の時の感覚のまま止まっているからだ。当時の自分が思う本当の「若い」とは、せいぜい20歳くらいまでだった。10代のとき、あまりにも若くなくなるのが怖かった。そして、その後衰えていく人生、若くなくなった先の時間に生きる意味はないと思っていた。しかし23歳の自分は今まさにその期間を生きている。
10代の頃の「若さ」へのこだわりはどこから来ていたのだろうか。思うに、若さそのものの価値はあまり分かっていなかったような気もする。体力がある、とか位だろう。大事なのは、老いと相対化されていることだった。
数年前に友達と「女の人生の賞味期限」について話した。女の人生のピークは20代前半、あとは落ちていくだけ。なのに世の女性は何で生きてられるんや。という身も蓋もない結論となった。社会で女の若さはそれだけで金になるが、失ったら人間としての価値は普通以下。老いへの恐れは最高潮だ。当時の自分に無条件に与えられた、いつかは剥奪される身の丈に合わない社会的価値をこっそり自覚していたのかもしれない。
高校生の頃、老いるのが本当に本当に嫌だった。大学受験より何より、ぼんやりと見えてきた「将来」の存在が嫌だった。花のJK、花のセブンティーンとよく言っていた。しかし花は枯れてしまう。若さに価値を見出すことは、自分の首を絞めてしまう。

最近、お香にハマっている。これは本能的に人間(特に仏教文化を持つ人達)をリラックスさせてくれる。嗅覚は勿論、白く立ちのぼる煙が視覚にも訴えかけてくる。仏壇のない暗い1人の部屋でお香を炊いていたら、自分が死んだみたいな気分になる。煙で視界が少しぼやける。お香の香りは香水の香りとは違い、線香の香りを思い出させる。
私はまだ、若いとは10代のことだと思っている。衰える人生は始まっている。私の思う本当に若い自分はもういない。

10代の頃は若いままで死にたかったが、今はあまり思わない。今が若くないから、若いままというのはもうどんな手を使ってでも達成されないのだ。今死んでも、中途半端な歳で死んだというだけだ。
17歳のとき、老いてからの人生が長すぎて絶望し、なんとなく、27歳で死ぬことにした。27歳なのは、単純にあと10年というのと、ロックスターが死ぬ年齢(27club)というので、丁度良いと思ったからだ。このくらいの年齢なら社会的にはまだ若いとされてるだろう、と考えたのもある。27歳までにやりたいことを全て終わらせるための(ガバガバ)人生計画もあった。だから学部卒後は、結局寄り道せず就職した。
若さを失うのが怖かったが、気づいたら失っていた。なんだかんだで21歳くらいまでは10代のような気持ちだったのだ。学生だったからか、どうせ死ぬと思っていたからか、心のどこかに余裕があったが、ふと気づいたら、もう若くなかったのである。22、3歳を10代とは流石に思えなかった。そして「若くして死ぬ」年齢のはずの27歳はさらに若くないのである。あららと思っているその間に価値観が変わって今である。死ぬまでの期間をちょっと長めに取ってしまったせいで計画が頓挫する、当時の自分からしたら誤算だ。

社会人になって、良い歳のとり方というものがあることが分かった。社会に出て、世の中にはいろいろな年齢の人が暮らしていることに漸く気づいたのが大きい。迂闊に社会に出たばっかりに。さらに、ヒットした漫画『東京リベンジャーズ』を好きになり、主人公が未来へタイムリープするたび、登場人物が歳をとっているのが楽しみだった。未来によって、歳のとり方が大違いなのである。漫画のように何パターンもの未来は見られないが、歳を取った自分は別バージョンの自分。ちょっと見てみたいと思うようになった。
もう、若いまま死ぬことはできない。そうなってしまったら、いろんなパターンの自分をなるべく見て、満足したら死にたい。そのためにはある程度歳を取っていく必要がある。というのが23歳、現時点での持論だ。

若さを諦めたので、早急に新しい人生観を構築する必要があったのかもしれない。自分は死ぬんだと思ってたのが、いざ死ぬリミットである27歳が近づいてきたら怖く受け入れられなくなって、何か無意識に生存の方向に最適化されたのかもしれない。そうやって、騙し騙し生きていくのだろうか。でも、騙してでも理由があるなら生きていれば良いとも思う。全て、死んだら終わる。それはありがたいけれど、気が向いたら次また生まれるとかはできないし。何もなくなったらそれが本当に死ぬタイミングなのだろう。いつかそんな時が来るのだろうか。

高齢で亡くなった祖父の葬式からもうすぐ2年になる。こんなに死についてばかり考えていたくせに、本物の人間の死に向き合うのは物心ついて初めてだった。
葬儀の間、非常にたくさんの感情が心に現れては消えたが、当時の感情として残していたメモを引用すると、
“寿命を全うしてあとの死は人としての完全だと思った。「不幸」だが不幸ではない”
となっている。祖父も色々仕事をして、青年だったり父親だったり、おじいさんだったりしたのだろうが、生きているうちになるべく沢山のパターンの自分を全うすることが、人生を味わい尽くすということなのかもしれない。そして、それこそ幸福な人生だ。そう思うと、若くなくなったから死んだ場合の人生は 20% completedくらいな気もしてくる。
病気とか事件事故で死んだ場合はどうやねんと言われたら何も言い返せず、貧弱な持論ではあるが、自分を騙しながら、一旦はこれでやっていくつもりである。

来年もできれば生存していたら良い。


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