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『重力ピエロ』で春の母が審査員の尻を叩いた理由

『重力ピエロ』のワンシーン。まだ幼い春が、自分と父親の関係性(=血が繋がっていないこと)に嫌味を言う失礼な審査員に向かって絵の額で襲いかかる。慌てて春の母親が割って入り息子の乱暴を静止したかと思えば、今度はその母親自身が春に変わって審査員の尻を叩くというシーンがある。原作の小説と映画版の両方にこのシーンは存在する。しかし、小説と映画版では描き方がだいぶん異なるように思う。映画版は小説を踏襲せずに、新しい切り口で意味付けを図ったのではないか。僕はそう睨んでいる。

原作小説では次のような書きぶりとなっている。くすりと笑いが溢れるコミカルな印象を受けた。

 春は躊躇することもなく、絵を振り回し、審査員であるその女性の尻を思い切り叩いた。ぎゃ、と悲鳴がした。
 布団が叩かれるようだった。私は事態が把握できず、とまどったが、その時にすぐに反応したのは母だった。「やめなさい!」と声を上げ、春の身体を取り押さえる。
 春は、何度か女を叩くことを続けた。審査員の女性はバランスを崩して、前のめりに床に倒れ、ようやくそこで、母が額を取り返した。「やめなさい」ともう一度言い聞かせるように、言った。
 母は言葉ほど怒ってはいなかった。その証拠に、額を取り上げると父と顔を見合わせて、にこりと笑った。あれ?と私は不思議に思ったが、すると、春から奪ったその額を振りかぶり、倒れたままの審査員の尻を、今度は母が叩いた。
 そんなことしちゃ駄目だよ、と春が止めに入った。
―『重力ピエロ』伊坂幸太郎より

さて、映画版では件のシーンは、どんよりと重く、暗いトーンで描かれていた。審査員がぐだぐだと嫌味を言っている間に、春の両親と、ぼくら視聴者は、春がレイプ犯の遺伝子を引き継いでいる事実を途轍もなく意識させられる。小説の方では、女審査員の誹謗に対して、父親が毅然とした態度で切り替えしているが、映画版では小日向文世演じる父親の表情から精神的ダメージを食らっていることが垣間見える。鈴木京香演じる母親にしてもそう。この違いは、映画版でカメラが両親の表情を捉えている場面が、小説よりもずっと多いことによるものだろう。”レイプ犯の遺伝子”、容赦ないキーワードが皆の頭に浮かぶ状態で、当の春が絵の額を持って女に殴りかかる。静かで物悲しいピアノをBGMにして、暴力の残酷性が際立つ。暴漢魔の遺伝子には抗えないのだという運命の厳しさが眼前に突きつけられるのだ。止めに入った母親は、瞬間、父親と目を合わせるが、小説とは違って、二人とも、にこりとはしない。ハッと何かを悟ったような、あるいは何かを決断したような顔をする。そして母親は女の尻を額で叩く。まるで母親の暴力性が息子に遺伝したのだと言わんばかりに。ここが映画版の打ち出した独自性だと僕は解釈した。DNAに刻まれた暴力的な素質は決して父親譲りのものではない。母親である私由来のものなのよ、と。冷たい現実に対する母親のささやかな抵抗、それは春の暴力性の意味合いを上書きすることだったのだ。

母親が暴力を振るった直後、帰りしなの車中の場面にカメラは切り替わり、父親が「いやあ、びっくりしたよ、まさかお母さんがあんなことするとはな」と先の喧嘩を笑い飛ばす。このあたり、ややコミカルな後味で終わるので、表面上、原作のイメージを崩していないようにも見える。しかし、だからこそ、コミカルで上塗りするからこそ、笑って誤魔化しきれない残酷さが、滲み出る物悲しさが、ひんやりと僕らの背中を撫でるのだ。

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