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平野謙(3)(2005)

5 情報局
 こうした交渉人的傾向は情報局勤務という経験に起因する。平野謙は一九四一年一月から四三年六月まで情報局第五部第三課に所属している。その後、日本文学報国評論随筆部会幹事を務める。彼は、野上弥生子との対談『歴史的現実と創造』において、「どんなことがあっても戦争にだけはいきたくない、という気持ちが強うございました。ですから、もし兵役をのがれる機会がございましたら、悪魔に魂を売り渡しても、何でもいいから、それは利用すべきだ、という気持があったんでございます」と言っている。四三年に召集された弟徹を見送ったとき、弟が京都学派の受け売りを口にする姿に、中山和子の『平野謙─人と作品』によると、不機嫌に「戦争の性格と成り行きは山田風太郎『日本資本主義分析』に書きつくされている通りさ」と吐き捨てるように答えている。

 平野謙はこの仕事と文学を両立させる。情報局に勤務していたため、彼は当時の文学事情を表も裏も知ることができたので、文学者たちが行動しようとした際、当局や時局の動向を暗に伝えている。当局から睨まれる可能性があるにもかかわらず、大井広介や小熊秀雄らの『現代文学』を含めいくつかの同人誌や文学研究会にも出席している。多くの文学者が検挙される中、言うまでもなく、彼はただの一度も逮捕されていない。

 『情報局とは』に見られる情報局に関する記述は、平野謙が一般の文学者たちと違うセンスを持ち合わせている点を明らかにしている。検閲について、ほとんどの文学者は検閲される側から見ているため、粗雑な知識しか持っていない。検閲制度を官僚組織が行う以上、そこには官僚機構の弊害が反映している。陸軍報道部と海軍報道部、情報局、内務省検閲課などの間で、縦割りに縄張り争い、予算の配分、学閥、前例主義などが絡み合いながら、検閲制度が実施されている。

 平野謙は、『情報局とは』において、検閲にも「統制」と「指導」の二種類があり、自分が属していたのは主に指導の方だったと次のように述べている。

 情報局といえば、戦時中の一元団体たる文学報国会を所管した情報局内の一部課と情報局全体とを混同する嫌いさえ、文学者は持っているようにみえる。たまたま私は文学報国会を所管していた第五部第三課の嘱託だったので、少し内情に通じているから断言してもいいが、第五部第三課などは情報局全体のなかでは、最もウェイトのかるい微弱な部課に過ぎなかった。つまり、それは文化面の育成という部面を担当する、いわば抽象的な一課家にとどまる。その抽象的な役割をいかに役所ふうに軌道にのせるか、についてはじめはみんな困惑していたのが実情だろう。第五部第三課の課長は逗子八郎というペン・ネームを持つ歌人井上司朗だった。(略)生えぬきの官僚でなかったせいもあろうが、内部では少しバカにされていたのが、私などにもうすうすわかった。だから、文化藝術における指導育成という抽象的な役割を具体化するには、日本文学報国会とか大日本言論報国会とかいう一元的団体をやたらに作って、それに若干の助成金を与える、ということにならざるを得なかったのだ。新聞やラジオの統制、図書の発禁、配給紙の統制などをうけもつ部課とはどだいウェイトが違っていた。紙を握っているわけでもなければ、発売禁止にする権力を持っているのでもない。抽象的といわざるを得ない所以である。

 文学者を統制する目的で、情報局が文学報国会を設立したと思われているが、それは「文化藝術における指導育成」という「抽象的な役割をいかに役所ふうに軌道にのせる」方策である。統制は配給紙の制限・停止などの現実的な権力行使であり、有力な部署の既得権である。マイナーな部署は自らを維持するために、外郭団体をやたらと作って、助成金を与え、権益を確保する。この手法は現在でも続いている官僚の手口である。「たとえば、米の市場開放。米価を統制する食管法は戦時体制の一環である。いまの教育体制も国民学校令がベースになっている。昔はもう少し学校と距離感があったが、国民学校令から続く一連の流れのなかで、猫も杓子も学校に通うようになった。種々の管理体制も、ほとんど戦時中にできあがっている」(森毅『五五年体制じゃない、三〇年体制の崩壊なんだ』)。

 教科書の著者と調査官とは、敵対関係のように思われているが、ゲームの敵手のようなところがある。調査官は、自分はものわかりのよいような姿勢をとりながら、後の「わからず屋」がいることを暗示しながら、著者を牽制する。本当に、そんなものがいるかどうか、こちらにはわからぬのだが、もしもいるとしたら、そちらに向かっては、うるさい著者をまるめこんだと言って自慢するだろう。
(森毅『検定ゲーム』)

 この勤務経験は、かつての運動体験と合わせて、晩年に生かされることになる。一九七〇年三月、東京都施行の区画整理事業の計画が決定すると、その反対運動として喜多見区画整理対策協議会が結成され、平野謙は責任者に推されている。「天降り的な町づくりを排して、住民参加による町づくりを希うのはもとより当然だが、それ以前の問題として、私どもは住民に所有地の強制的な無償提供つまり土地のタダ取りを本質とする区画整理方式に、私権擁護の立場から反対するものなのである」(平野謙『土地区画整理法のカラクリ』)。

 この運動のポイントは情緒的ではなく、区画整理に伴う用地買収とその利権の不透明さにある。『区画整理法は憲法違反』に収められている文章を読むと、戦時中の経験を踏まえて、官僚や政治家がどう考え、動くかを精緻に記し、平野謙が感情に訴える作家と言うよりも、法的・政治的・経済的な視点を持ったジャーナリストであることを表わしている。「ただ最後に、田中角栄の提唱する『公共用地を生み出すために、土地区画整理方式を土地づくりに全面的に活用する』ことが区画整理法の歴史的・現実的にかんがみて、完全にさかだちした本末転倒の論にすぎないことを、重ねて強調しておきたい」(平野謙『わが住民運動の一結論』)。

 明らかに、平野謙は、この論理性を見る限り、あの文芸批評の方法を同時代的な文学における自分の立場を考慮して意図的に行っている。産業として発展した出版産業を意識して、論理的に書けるにもかかわらず、したたかにあのスタイルを使っている。三浦雅士は、『戦後批評ノート』の中で、「作品は作者と読者の間に立つ透明な衝立ではないと、小林秀雄は述べているのである。平野謙の方法は、作品成立にともなうこの基本的な事実を無視し」、小林秀雄が「達した地点からはるかに後退したところでその批評を展開している」と批判している。その作家の文学的・社会的地位を自明視して、作者の意図を探り、その通りに作品が仕上がっているかどうか検討するのは、結果と原因をとり違えているだけで、「意味がない」。

 しかし、論理的に「本末転倒」を指摘する先の文章を目にすると、この批判の方が「意味がない」。平野謙は確信犯的批評家である。小林秀雄は告白としての批評を確立したのであり、平野謙の批評は諷刺である。私小説は日本的な告白の文学と見なされてきたが、平野謙はそれを諷刺として扱う。小林秀雄の批評が文学的ヘゲモニーを獲得して以来、告白が批評の主流になってしまい、それ以外は批評ではないあるいは「後退している」と排除される。ところが、平野謙は私小説だけでなく、近代文学派の批評も諷刺している。平野謙の批評はソクラテスを主人公にしたプラトンの著作のようだ。

6 私小説の二律背反
 平野謙は、『私小説の二律背反』の中で、私小説の発展を分析している。近松秋江の『疑惑』に見られる「人性そのものの罪ぶかさ、いやらしさ」の懺悔と白樺派を代表にした「文壇交遊録」が示す「作家たるものの行蔵が一般読者の興味をひかぬはずはない」という戦略の二つの流れから私小説が形成されている。

 人間を自然科学に基づく実証主義的に描かねばならないとする自然主義文学は、国民国家=産業資本主義体制がもたらした都市住民の生活を舞台として、ゴンクール兄弟やエミール・ゾラなどの一九世紀フランス作家の作品に出現しする、日本では、ゾラが日清戦争から日露戦争にかけての時期に紹介され、小杉天外の『初すがた』(一九〇〇)や永井荷風の『地獄の花』(一九〇二)は最初の影響例である。

 一九一〇年代に入って近代国家体制が確立されると、国家と個人の間の葛藤や脱封建的な国民の生と死が問われ、自然主義文学が本格的に流行する。「人生の従軍記者」を目指した島崎藤村が『破戒』(一九〇六)において被差別部落出身者の苦悩を描き、実際の従軍記録を著わした田山花袋が『蒲団』(一九〇七)で性をめぐる中年作家の苦悶を率直に告げ、自然主義文学が一気に評判を呼ぶ。『早稲田文学』や『読売新聞』などの活字メディアに所属する作家や記者がこの動向に同調し、徳田秋声、正宗白鳥、近松秋江、真山青果が登場し、文学的論争だけでなく、政府・行政の帝国主義政策やメディアの代理戦争が絡みつつ、文壇の主流派としてヘゲモニーを獲得している。

 ところが、この自然主義は人間と社会を自然科学的に観察すると言うより、古臭く狭量な地域社会を舞台として、因習や権威からの解放を求めて大胆に体験や気分を記すスタイルであり、身辺雑事を自己没入的に描写する傾向が強くなり、私小説と化していく。作家自身である「私」を主人公とし、その日常生活をただ綴るこの一人称体の小説は、大正時代に、セクト的な白樺派の「自分」を語る流れを通り、昭和初期にかけて、純文学として日本の小説の主流となっている。

 平野謙によれば、「生の危機意識に対する救抜済の希い」が作者が主人公として綴ることにより、「人生」においても、「思想」においても、「不動のリアリティ」を獲得した小説の一形式である。この隆盛は文学志望者が「現世救済者」や「逃亡奴隷」だったことに由来している。彼らは生活不能者ないし性格破綻者であり、そのプライドを支えたのは芸術家の「真実性」だけであり、これが世間や周囲に示しうる唯一のアリバイである。「みじめな日常生活の断片とその破壊的なすがたにおいて文学の世界に持ちこむしかなかった」。

 平野謙は、『私小説の二律背反』において、「芸術か家庭かの二者択一が芸術家生活の場合にしばしばおこりがちな所以」と「わが私小説家をめぐる独特の二律背反が生ずる」理由を次のように述べている。

 芸術家の場合、わけて日本の私小説のような場合、その芸術家生活の持続と家庭生活の平穏とはしばしば一致しない。家庭の和楽は芸術家の情熱をなしくずしに停滞させ、家庭の危機という餌食によって、はじめてその芸術衝動は切迫感を獲得する。さきにふれたように、私小説が生の危機意識にモティーフを持ち、その危機感が形而上的な生の不安や孤独から隔絶された具体的なものとして成立している以上、そのような傾斜はまぬかれがたいのである。

 私小説は、そのため、書き続けるには私生活を犠牲にせざるを得ず、調和的な生活を送ってしまえば筆を置かなければならないという二律背反に直面する、

 平野謙は、『私小説の二律背反』で、私小説家は本末転倒に直面すると次のように続ける。

 もはやそこでは、一篇の作品を構築するにたる旺盛した実生活がいとなまれ、作者はその生活を題材としてそれに芸術的秩序を与えるというようなノルマルな芸術と実生活との相関関係は逆転して、いわば描くにたる実生活を紛失しながらなお描きつづけねばならぬために、その日常生活において危機的な作中人物と化さねばならぬという一種の価値傾倒がそこにおこなわれるのである。

 森鴎外や志賀直哉には「実生活」と「芸術」の調和的関係に至る方向が見られ、特に、伊藤整が、『鳴海仙吉』で、その「不毛な二律背反をよく救済する」試みを行い、「私小説文学精神の方法化」を具現している。日本の自然主義文学の窮屈な姿勢は、私小説の二律背反という視線の方法化を通じて、その特性を生かしながら、止揚される。

 私小説は、当然、西洋的な告白と異なっている。私小説は近代化の中で派生した社会の鼻つまみ者が生きるために辿り着いた文学であり、そもそもB級文学にすぎない。私小説には、告白の持つ知的な傾向が失われてしまう。

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