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平野謙(1)(2005)

平野謙、あるいはトゥルー・ロマンス
Saven Satow
Feb. 23, 2005

「恋をして、結婚したいというような意思表示をしたらしいな。そうするとその女の人は、いや、自分はあなたと一緒にいると今後進歩しない、……思想的に成長しないと思う、もっとしっかりとした人に指導されて運動のなかにすすんでいきたい、だからあなたの申し出を承知するわけにはいかない、と云われたと平野はそういったな。平野は非常に落胆したが、けれども平野のことだから、そうか、それならば已むを得ない、というふうに彼はすぐ反省するたちだから、そうして別れたんだ。近所の薬屋から赤玉ポートワインを一本買ってきて、それで別れの盃をかわした。……それを飲んで、そうしてキッスしてくれといってキッスしてもらって別れた。女は出ていったんだな」。
藤枝静男『平野謙・人と文学』

1 護る人
 その一〇年ほど前から、血管腫や糖尿病、食道癌により入退院を繰り返しながらも、活動を続けていたが、一九七八年四月三日、平野謙は蜘蛛膜下出血によって永眠し、その後、実家である岐阜県各務原市那加西市場町五-一三八八の法蔵寺に評言院釋秀亮として葬られる。

 柄谷行人は、平野謙の死に際して、『党派性をめぐって』において、「攻撃的に時代の先端を走っていた」からではなく、「何かを護ろうとする」人だったため、その死の「波紋は大きい」と次のように述べている。

 たとえば、平野氏はどれほど中野重治を護ってきただろう。中野重治に攻撃されているときでさえ、平野氏は相手を護っていた。平野氏の批評を「女房的リアリズム」で相手の弱みをつくものだと考えてはならない。相手を再起不能なまでに倒すことさえできたのに、一度もそうしなかった。むしろその沈黙に平野氏の凄みがあったといってもよい。だが、彼が護ろうとしたのは、中野重治という個人ではなかった。中野氏が党派性によって動いたとき、平野氏にとっても護るべき「党派性」が会ったのである。

 平野氏は「護る人」だった。たとえば、「政治と文学」、「芸術と実生活」という彼の理論をみればよい。それは、一見すると、「政治」に対して「文学」を護るものであるかのように見える。しかし、彼にとって、「政治」あるいは「芸術」はあくまでも正しいのだ。そうでないなら、「二律背反説」などなりたたない。したがって、平野氏が「政治」や「芸術」を「文学」や「実生活」の側から相対化しようとするまさにそのとき、「政治」や「芸術」は絶対的なものとして擁護されるのである。
 平野謙は何を護ろうとしていたのか。たとえば、ユダヤ人の文芸批評家シュタイナーは、マルクス主義は厳格な一神教(ユダヤ教)の再現だといっている。これはむろんありふれた考えだし、マルクスの著作とは無関係である。しかし、私は、日本人が真に一神教的な過酷さを経験したのは、マルクス主義においてだけだと思う。転向があれほど深刻な問題となったのは、そのためだ。たとえば、明治以後のキリスト教は一度もそんな衝撃を与えはしなかった。現に、戦時中のキリスト者集団の転向が内部から問題にされたのさえ、ごく最近のことにすぎない。逆に、マルクス主義者の転向問題こそ、キリスト教的な問題をもたらしたのである。つまり、人間の「弱さ」に即して生きることがはじめて問われたのである。
 平野氏は、そのような「神」そのものを問題にすることはなかった。彼は「同伴者」としてのつつましさにおいて、厳格に「理論と実践の統一」において生きる、革命家や私小説家に敬意を払った。むしろ彼らがそれを放棄したあとでさえ、「神」の正しさは決定的に否定されることはなかった。
 しかし、平野謙が、はっきりと「護る人」になっていたのは、六十年代になってからのように思われる。共産党や私小説がもはや権威をもたなくなったときである。「政治と文学」、「芸術と実生活」という図式はもはや意味をもたなくなった。実際に、平野氏は、「共産党や私小説がしっかりしてくれないと困るのです」と発言したことがある。それは、けっして自分の理論が通用しなくなることへのおそれなどではない。むしろ、「神の死」に際して、自らの「神」を護ろうとする決意だったかもしれない。

 平野謙は、その「女房的リアリズム」によって、「芸術と実生活」ならびに「政治と文学」の拮抗において、実生活や文学の優位を主張したと見られている。その執拗さにより、ときとして、「平野探偵」や「平野検事」とも揶揄される。しかし、この二項対立の上下関係を転倒するのではなく、そのヒエラルキー自体を解体するのが彼の企てである。「『政治』あるいは『芸術』はあくまでも正しい」のであって、それに対する文学ないし実生活の関係の絶対性を問い直している。

 平野謙は、『徳田秋声』において、作家を研究するのは彼がその人生の危機にいかに対処したかを知るためだと次のように述べている。

 ひとりの作家を通観するのは、その作家の生きかたをまなぶためである。その生き方をまなぶ急所は、生涯における危機をいかに作家はのりこえたか、のりこえそこなったか、以外にあるまい。元来近代小説とは「危機における人間の表現」の一形態にほかならぬ、というのが年来の私の考えである。『罪と罰』も『赤と黒』もわが私小説もその例外ではない。

 「『危機における人間の表現』の一形態」が近代小説であるとしたら、実生活が芸術に表象されることはあっても、従属しているわけではない。実生活と芸術は手段と目的の関係にはない。両者は絡み合っている。芸術が実生活での危機に対する過程の表われである点においては、西洋の小説も、私小説も、優劣はない。日本近代文学は作家たちの生活上の危機に対する態度の集合である。

 平野謙が「党派性」のために動いたのは、それが日本近代文学を発展させてきたからである。日本近代文学の原理主義者として、その原理通りに、作品を読解する。平野謙はプロレタリア文学における政治に奉仕する文学以上に原理主義的であり、プロレタリア文学も含む日本近代文学という大きな原理に忠実である。彼は三派鼎立論を提唱している。それは明治四〇年ごろの自然主義文学の成立以後に、私小説派・プロレタリア文学派・モダニズム文学派の三つの傾向がさまざまに変容しながら、日本近代文学を構成してきたという理論である。平野謙にとって、日本近代文学は各文学者が所属するある主張に基づく組織・雑誌から系列化した党派の集合体である。この党派間で抗争が繰り広げられたのみならず、党派性の教条的傾向が問題視され、その解消自体が党派闘争の一環として展開されている。党派性批判が党派間抗争に利用されてきたというわけだ。

 平野謙は日本近代文学を「護る」目的で、共産党や私小説が権威を失墜してもなお「党派性」に忠実であり続けている。「平野氏がヒラの批評家として時評のような”ホマチ仕事”に専念したことを、妙なふうに買いかぶるべきではない。それは、平野氏が時評をやめたときの捨てぜりふのような言葉の鋭さを見ないことになる。彼の時評は明らかに『党派性』──それをせまい意味にとってはならない──の仕事だったのであり、もはやそれが成りたたないとき、やめたのだ」(柄谷行人『党派性をめぐって』)。

2 身をすててこそ浮かぶ瀬もあれ
 こうした日本近代文学への忠誠は彼の少年期にその理由を見出すことができる。平野謙こと平野朗は、一九〇七年一〇月三〇日、京都に父履道(三五)と母きよ(二一)の間に長男として出生している。その後、蕃、伸子、美津子、馨、さや子、徹、闊、春子、和子が生まれている。一家は、朗の出生後、東京府豊多摩郡戸塚村大字諏訪に転居し、一九一一年、父が岐阜県稲葉郡那加村にある東本願寺末寺の法蔵寺に戻って住職にならざるを得なくなったため、引っ越している。

 履道は坪内逍遥から文学的な指導を受け、『早稲田文学』編集部に入り、平野柏蔭というペンネームで文芸批評を書いた経歴がある。この雑誌は自然主義文学の牙城である。履道は島崎藤村と同じ年の生まれであり、一九四四年に亡くなる。平野謙は、一九七七年一一月、自ら編纂して『平野柏蔭遺稿集』を刊行している。

 岐阜に移ってからも、父は息子に寺の子弟らしい教育方針をとらず、逍遥のみならず、尾崎紅葉、幸田露伴、国木田独歩、樋口一葉、二葉亭四迷、森鴎外、泉鏡花、正宗白鳥など在京時代の文壇や文学の話を聞かせている。岐阜中学時代には、特別に農家の離れを借り、そこで定期購読した『文章倶楽部』や『新潮』、『文芸時代』を読み耽り、朗少年は挫折した父の夢を担って育っていく。日本近代文学は彼にとって親子の絆であり、成長をつかさどったものである。文学で成功することは親子二代に亘る悲願にほかならない。

 第一次戦後派こと近代文学派を中心とした党派抗争は、確かに、戦後の文学を発展させている。一九四六年一月、平野謙は、本多秋五、山室静、埴谷雄高、荒正人、佐々木基一、小田切秀雄と共に、『近代文学』を創刊する。この雑誌は六四年八月まで(数回の断続を含む)全一八五冊が刊行されている。創刊時の同人はいずれも左翼運動に挫折した経験を持ち、戦時中の抑圧を経てきた彼らは、一般的に、政治の優位性を批判する論調を発表し、それがプロレタリア文学を継承しようとした『新日本文学』を拠点とする中野重治らと間に「政治と文学」論争を引き起こす。このとき、新日本文学会にも加わっていた小田切が同人を離脱している。

 当時最もホットな論争としてそれにとどまらず、文学者の戦争責任論や転向問題、主体性論争など多くの議論が派生する。平野謙の論点は荒正人らとは多少異なっている。政治と文学の関係以上に、彼はハウスキーパー制度を女性を非人間的な手段として利用したと激しく非難する。昭和初期、共産党が非合法の時代、警察の監視を避けるために、男性党員が女性党員やシンパと同居して、夫婦生活をしているように装ったが、彼女たちがハウスキーパーである。これは制度化され、ときとして、男女の仲の問題に発展している。

 党派性への平野謙の感受性はその左翼体験に負っている。彼は、一九二六年四月、名古屋の第八高等学校文科乙類に入学し、本多秋五と藤枝静男の友人になっている。彼らに誘われ、志賀直哉や小林秀雄を訪ねている。一九三〇年四月東京帝国大学入学と同時に、学内のRS(読書会)に参加する。平野謙が左翼運動に関心を持ち始めたのは、マルクス主義に関する理論書に触れたからではない。

 平野謙は、『昭和文学のふたつの論争』において、中野重治の作品に惹かれてマルクス主義文学に接近したと次のように述懐している。

 おそらく荒正人とは異なって、私はマルクス主義文学に純粋無垢な状態でひきよせられたものではない。あんなものが自分のめざしてきた文学であってたまるかという気持と、しかし、文学インテリゲンツィアとしての自己を窮極に救ってくれるものはここにしかないとする気持がながく私の身うちでせめぎあった。私はわずかに、中野重治ひとりを見つめ、身をすててこそ浮かぶ瀬もあれ、と一種絶望的な祈りに似た気持をこめて、マルクス主義運動に近づいていったものである。かくて私は決定的な浅春の一時期をマルクス主義文学運動の影響下においた。

 プロレタリア文学にまったく文学的価値を見出さなかったにもかかわらず、愛読する中野重治を信じてマルクス主義運動に傾倒している。三一年春には、日本通信労働組合書記局に入り、本多秋五に促されて街頭連絡や文書配布などの非合法活動を行い、三二年、同じく本多の推薦で、日本プロレタリア科学研究所に入っている。そのころ、後に結婚する泉充の妹たづ子と出会い、また、井上良雄の『芥川龍之介と志賀直哉』に感動している。彼は悩める青年として受動的にその党派に加わり、生涯に一貫する受動性をここでも見せている。

 平野謙はプロレタリアートの解放を掲げる革命という体制転覆に従事する活動家ではなく、それを通じた自己の救済を願っているにすぎない。その脆弱な動機付け通り、当局の弾圧が激化し、運動が自壊・衰退し始める三四年には、検挙されることもないまま、なしくずしに、転向している。けれども、動機や思いがどうあれ、文学者は党派性に巻きこまれざるをえない。

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