見出し画像

お茶くみ修行の意味(2014)

お茶くみ修行の意味
Saven Satow
Jun. 28, 2014

「涙とともにパンを食べたことのない者は、苦しみに満ちた幾夜をベッドに座って泣きあかしたことのない者は、あなた方を知らない、天の力よ」。
J・W・フォン・ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』

 個人主義的な近代的教育制度の課題を克服するために、しばしば伝統的なそれが注目される。それらは芸や技など主に身体知として長い年月に亘って伝承されてきた領域である。伝統的な継承に内弟子制度が採用されている。これは入門した弟子が師匠の元に住みこみ、修行を積む制度である。

 内弟子制度の意義はよくこう語られる。芸や技は言葉で教えられるものではない。行住坐臥が修行である。教わるものではなく、盗むものだ。弟子が格物致知の質問を発し、師匠は片言隻語で当意即妙の応答をする。こうした日々の過程を通じて弟子は換骨奪胎の芸を弟子は育んでいく。

 しかし、これは暗黙知の学習が難しいと言っているだけである。そんなことくらいわかっているものだ。もっともらしい話をしながら、まったくの無内容である。暗黙知に関する当意即妙の解説になっていない。

 こうした師匠と弟子の関係は1987年5月26日放映の『ドリフ大爆笑』のコントでもお馴染みである。師匠役の志村けんに内弟子の加藤茶が入門以来雑巾がけばかりで剣の修行をさせて欲しいと懇願する。そこで志村が加藤に一本打ちこめるようなら修行をさせてやろうと言い、卑怯な戦いが繰り広げられる。

 近代の教育カリキュラムは心理的発達に即した段階論に基づいている。一年生の段階を終えたら、二年生へ進む。一年生は二年生よりも知識のレベルが低い。ただ、個人主義的で目標が見えないので、自分の位置づけが認識しにくい。

 一方、伝統的な修行は階段と言うよりも、同心円である。師匠が円の中心にいる。それぞれの弟子はそこから技能や知識に応じて位置づけられ、上達するにつれてその距離が縮まる。本質や全体を把握した上で、修行を日々繰り返して熟練していく。協同主義的学習である。ソ連の発達心理学者レフ・セミョノヴィチ・ヴィゴツキーも段階論によらない学習理論を展開する際に職人の修行を参照している。

 初の女性真打に襲名した古今亭菊千代は、弟子が師匠の身の回りの世話をする修行は間の習得に役立つと説いている。落語にとって最も重要なのは間である。同じことを言っても笑いを誘える人とそうでない人がいるのはそのためだ。

 師匠にお茶を出すことも間の訓練になる。どのタイミングでお茶を入れ、師匠の前に運べばよいかを考えなければならないからだ。間とはタイミングである。お茶くみがまさに間の学習という枠御修行の本質につながっている。

 また、菊千代師匠は観客の気分を読みとることにも役立つと言う。プロの落語家はお客の様子を伺い、それに合わせたネタを選ぶ必要がある。用意したネタがその場の雰囲気に合わなくて急遽変更することもある。お茶くみはこの訓練にもなっている。

 いつもは薄いお茶を好む師匠でも、疲れていたり、まんじゅうを茶うけにしたりなど体調や事情の違いによって濃いお茶の方がいい場合もある。お茶を出す際に、それを見定めて味を調整する観察眼と判断力が要る。観客の気分を読むことは実際に高座に上がらなければ実践できない。しかし、カネを払うお客を相手に練習などできない。だから、お茶くみという舞台裏の作業で訓練を積む。師匠にお茶を入れることも大切な修行の一つである。

 「弟子なんだから師匠にお茶くらい入れるのは当たり前だ」。このような認識が修行ではない芸の体得には繰り返しが不可欠である。しかし、それはその本質をわかった上で有機的になされて初めて上達につながる。菊千代師匠が真打になれた一因にこの洞察があるだろう。

 伝統芸能のみならず、身体知の会得に必ずしも段階論は適していない。ところが、伝統的な同心円型の方がふさわしいと思われていても、どのように用いるのか理解されていないことも少なくない。

 かつて中等教育機関において、新入部員に球拾いを課し、実技練習に参加させない因習を持つ野球部が見られている。指導者や上級生はその理由を素朴な段階論で説明するだけというのも少なくない。新入部員が球拾いをするのは部の伝統で、上級生になればそれから解放される。

 球拾いが野球の学習効果として認識されていない。その野球部は上達には何が必要なのかわかっていないのであり、そうした非合理性の支配は体罰やいじめなど暴力の原因になりかねない。

 引退したプロ選手が解説者に転身した際、野球がよく見えるようになったと感想をしばしば漏らす。グラウンドにいた時は自分の位置からしか野球が見えない。視野が狭く、近視眼的だ。けれども、放送席からは全体が見渡せていない。自分がどう見られていたのかもわかる。相対的に自分を見つめられれば、よりできるようになれる。現役時代よりも野球の理解が深まっている。

 実は、球拾いもグラウンド全体が見渡せる。グラウンドに入ると、野球が局所的にしか認識できない。一方、球拾いでその外にいれば、全体が見える。野球を客観的に捉え、考えることができる。わかることができることにつながる。自分がその中に入った後でも、メタ認知の経験が生きてくる。

 球拾いの合理的な意義を説くならば、新入部員も納得するだろう。のみならず、自分が見えなくなった時に、球拾いの視点に立ち戻ることで自己を再発見する可能性もある。野球には身体知が求められる。その上達には自分を相対化するメタ認知が必要だ。

 暗黙知の学習に反復練習は欠かせない。けれども、やみくもにやっても効果がない。本質や全体を把握するための言語化を踏まえてそれを有機的に行わなければならない。いかに暗黙知の領域であってもそうした言語化のできない指導者は不適格である。

 伝統的な教育には、本質や全体を把握させてから熟練へと向かう認識がある。暗黙知の体得にはどのような方法が有効なのか試行錯誤して形成されてきたのだろう。しかし、それは身体知の体得が難しいという言い訳ではない。
〈了〉
参照文献
柴田義松、『ヴィゴツキー入門』、寺子屋新書、2006年
高橋和夫他、『市民と社会を生きるために』、放送大学教育振興会、2009年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?