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文芸批評家石橋湛山(1)(2009)

文芸批評家石橋湛山
Saven Satow
Aug. 31, 2009

「文壇の士以て如何となすか」。
石橋湛山『自己観照の足らざる文芸』

1 一廉の評論家
 ヴィクトリア朝で三度首相を務めたベンジャミン・ディズレーリは小説家出身だったことで知られている。日本でも、物書きから首相になった人物がいる。石橋湛山がその人である。戦後は政治家、戦前はジャーナリストとして活躍した湛山であるが、その出発は文芸批評である。湛山は早稲田大学を卒業した後、二〇代を文芸批評家として活動している。しかも、たんなる一文芸批評家ではなく、将来を嘱望されている。一九〇七年(明治四〇年)、二五歳の生田長江は、『文学入門』の「批評と批評家」の章で、今の文学界には「批評家らしい批評家」がいないと嘆いている。しかし、湛山は、まぎれもなく「批評家らしい批評家」である。『東京毎日新聞』や『太陽』、『中央公論』、『日本及日本人』、『早稲田文学』などに文芸・思想・社会をめぐる批評を発表し、文学界からの湛山に対する文芸批評家としての評価は非常に高い。

 『新小説』一九〇九年(明治四二年)八月号の「寸鉄」は二四歳の湛山を片上天弦や相馬御風、中村星湖以上の批評家と次のように賞賛している。

 石橋湛山氏は青年評論家中にも若い方の側ださうだが、頭が余程利くと見える。説の是非は別として、議論をやる手腕が却々しつかり為してゐる。論を進めてゆく段取も整然として一糸乱れざるの風がある。天弦、御風、星湖等に比して確に論客たる資格に於いて、数段勝つていることは疑ひない。着実な方針で研鑽怠らずんば、他日見るべき一廉の評論家となられるであらう。

 湛山を含めたこの四人はいずれも早稲田大学に縁のある作家である。中村星湖(一八八四─一九七四)は、早稲田在学中の一九〇六年(明治三九年)に、「盲巡行」が泉鏡花に推されて『新小説』の懸賞一等、翌年には「少年行」が二葉亭四迷に選ばれて『早稲田文学』の懸賞長編小説に当選して刊行、期待の自然主義作家である。湛山が一九〇七年(明治四〇年)七月に早稲田大学文学科を首席で卒業した際、その次席になったのが中村星湖こと中村将為である。また、片上天弦(一八八四─一九二八)は自然主義文学を擁護する作品を『早稲田文学』を中心に展開した文芸批評家であり、一九一〇年から母校で英文学とロシア文学の教授に就任している。湛山は、早稲田卒業後、特別研究生として宗教研究科に一年間在籍していたが、その二年前に特別研究生に選ばれたのが片上天弦こと片上伸である。相馬御風(一八八三─一九五〇)は一九〇六年に早稲田を卒業し、口語自由詩運動を推進、『都の西北』の作詞者としても知られている。

 湛山も、同じ年の三月に発表した『評論界瞥見』において、同時代の哲学・文学の批評に関して、具体的道筋を欠いた飛躍した議論、つめの甘い曖昧な概念定義や用法、体系性に乏しく整合性のない知識などで覆われ、何となくわかった気にさせているだけにすぎないと批判している。「「寸鉄」の指摘する通り、湛山の具体性・厳密性への意志に貫かれた批評は天弦や御風、星湖とは比較にならない。実際、これら三人の文章は学術的な研究対象となりえても、今日では読むに耐えない。それどころか、スター作家の島村抱月や生田長江を含め多くの作品も、文学史考察のための史料でしかない。ところが、湛山の批評は当時の言論の雰囲気を伝えるだけでなく、時代を超えて思想を訴えかけてくる。今日、湛山の文芸批評が顧みられることは少ない。湛山に対する関心は依然として高く、湛山論も絶えず発表されているが、文芸批評については軽く言及されるだけである。けれども、彼の批評は後に首相になった人物がこんなことを書いていたというレベルではない。それは近代文学への鋭い洞察に満ち、重要な示唆を与えてくれる。もし批評家を続けていたら、日本の批評史は変わっていただろう。

 湛山が文筆生活に入ったのは明治四〇年代であるが、この頃、作家のペンネームをめぐって大きな変化が現われている。それまで、作家は、夏目漱石や森鴎外、石川啄木のように、号を用いていたが、武者小路実篤や有島武郎、志賀直哉など白樺派と呼ばれる作家たちは本名をそのまま使って作品を発表し始める。以降、号を筆名とすることは滅多に見られなくなっていく。片上天弦や相馬御風、中村星湖は号であるが、湛山は本名である。白樺派は大正期を代表する文学グループであると同時に、二〇世紀の日本文学の出発点である。湛山は、筆名の点でも、白樺派登場以降の時代に属している。

 しかし、そんな先見性は時代に対して超然的な態度をとっていたからではない。湛山も、他の同時代人たちと同じ空気を吸っている。彼が生まれ、成長した時期、日本は近代国家としての方向を右往左往して模索し、諸制度を形成している。そういった社会的・歴史的背景の中で多くの人々が共有している問題を徹底的にある認識に基づいて突きつめ、さらに踏み越えて独自の思想を形成しているところに、湛山の時代を超える独創性がある。

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