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綾小路きみまろに見る共感のユーモア(2008)

綾小路きみまろに見る共感のユーモア
Saven Satow
Nov. 22, 2008

「あれから40年…」
綾小路きみまろ

 2008年11月13日付『PROCO STYLE』によると、綾小路きみまろのライブ・アルバム『爆笑スーパーライブ第1集! 中高年に愛をこめて…』の売り上げが100万枚を超えています。同アルバムは2002年9月に発売され、約6年2カ月かけて達成しています。これは演芸のライブ・アルバムです。演芸部門でもライブ・アルバム部門でもミリオン・セラーの記録はなく、史上初の快挙です。ちなみに、ライブ・アルバムの通算ランキングの2位はアリスの『栄光への脱出』(1978)の82万6000枚、3位が井上陽水の『陽水ライブ もどり道』(1973)の82万3000枚です。

 しかも、綾小路きみまろの偉業は、これだけにとどまりません。

 きみまろのステージは非常にシンプルです。マイクを片手に、1時間ほどしゃべり続けます。音楽は登場と退場の時だけです。年間約200本以上をこなします。「中高年のアイドル」のニックネーム通り、客層の中心は60代以上の女性です。

 みのもんたや毒蝮三太夫など中高年の女性たちに受け入れられたタレントは今までにもいましたが、綾小路きみまろの人気はやはり群を抜いています。

 こうした漫談のスタイルは「スタンドアップ」と呼ばれるものです。アメリカでは、コメディアンと言えば、スタンドアップを指します。レニー・ブルースやエディ・マーフィー、ロビン・ウィリアムズ、ジム・キャリーなど日本でもよく知られているコメディアンの多くはスタンドアップ出身です。しかし、日本においては、落語や漫才の方が主流で、スタンドアップは非主流です。

 その日本のスタンドアップも、いくつかのタイプに分けられます。

 語りという点に着目すれば、楽器や歌を用いる「音楽型」としゃべりだけの「トーク型」に二分できます。清水ミチコや牧伸二が前者、片岡鶴太郎やイッセー尾形は後者に含まれます。

 また、ネタに注目すれば、「模写型」・「市井型」・「諷刺型」に分類できるでしょう。

 最初の「模写型」は声帯や形態模写を芸風とするタイプです。片岡鶴太郎やコロッケ、清水ミチコなどがこれに含まれます。

 次の「市井型」は、巷で見かけたおもしろい人物をデフォルメしながら、演じるタイプです。イッセー尾形やモロ師岡などが挙げられるでしょう。

 最後の「諷刺型」は世相などを諷刺するタイプです。牧伸二がその代表と言えます。また、諷刺は対象を解剖して批評しますから、医師を演じるケーシー高峰もこのタイプfです。

 最近のスタンドアップ・コメディアンは、日本では、「市井型」から出発するケースが多いように思われます。「模写型」は模倣する技能を習得しなければなりませんし、「諷刺型」ですと、時事的問題への関心やクレームへの対処など社会性が要求されます。いずれも経験が必要ですから、若いと難しいのです。

 もちろん、純正型だけでなく、複合型もあります。ザ・ニュースペーパーもスタンドアップをすることがあり、これなどは「模写型」と「諷刺型」が融合しています。

 司会出身の綾小路きみまろは「トーク型」の「諷刺型」に分類できます。かのレニー・ブルースと同じタイプです。しかし、日本では模写型が従来から主流で、このスタイルで大成功したスタンドアップ・コメディアンは、ケーシー高峰など少数です。

 さらに、綾小路きみまろに画期的な点があります。それは彼が目の前にいる観客を諷刺していることです。

 毒舌を売り物にするコメディアンは、上岡龍太郎や松本人志が示しているように、概して、攻撃的で、心に屈折が見られることも少なくありません。早口で畳みこまれるネタには悪意や敵意などが漂っていることも多いのです。しかも、それは欠席裁判であって、彼らに喝采する観客は笑われているのは自分ではないと感じています。毒舌の芸は、何のことはない陰口です。

 一方、綾小路きみまろの場合は、そうではありません。お客は自分たちがからかわれることを楽しみに、チケット代を支払っています。彼は、ハリのある高音で、抑揚は抑え目にして、若手などと比べて、ゆっくりと話し、非常に聞きとりやすい印象があります。深刻さもなく、かと言って、迫ってくる感じでもありません。おまけに、敬語を使っていますから、丁寧で、攻撃性が一切ありません。ネタは、かつてパクっていたこともあったように、川柳を思い起こさせ、リズミカルです。

 言って見れば、綾小路きみまろは、中高年の女性たちがお茶を飲みながらお互いに言い合っている冗談をうまく語りにしているのです。ですから、自分が笑いのネタになっているのに、腹ただしくなるどころか、手をたたいて笑ってしまうのでしょう。

 しかし、それには彼がテレビになるべく出ないようにしている方針が効果的に働いています。

 テレビは消化力が強いですから、一度使ったネタを再利用することが難しくなります。何度味わっても楽しめる洗練された名人芸を見せるメディアではないのです。また、テレビは、ある程度視聴者層が限られるとは言え、不特定多数を前提としています。芸人にとって、客層が読めないというのは非常なストレスとなります。手探りでネタを選んでいかなければならないからです。そのため、テレビに出演すると、どうしても新鮮さを追い求めるあまり、攻撃的な芸風にならざるをえなくなります。

 綾小路きみまろの漫談は、ターゲットである中高年の女性に限定した磨き抜かれた芸です。その上、この閉鎖性は別の効果を生み出します。彼のネタは、中高年の女性自身がよくしている井戸端会議のように、内輪の話になるのです。人から言われなくても、自分がすっかりくたびれていることくらい知っています。でも、身内なら少々きついことを言っても大丈夫なものです。

 中高年の兆しが見え隠れ、
 思考力は落ち、
 記憶力は落ち、
 髪の毛は落ち、
 ハナミズが落ち、
 歯が抜け落ち、
 オッパイが落ち、
 お尻の肉が落ち、
 歩くスピードが落ち、収入が落ち、
 中には階段から落ちた方のいます。
 上がったのは生理だけです。

 綾小路きみまろのライブは、「一緒にがんばろう」で締めくくられます。お客に謝辞を述べることはあっても、おそらく、こういうコメディアンのステージはありません。彼とお客が身内だからこれが可能となります。彼の語りを聞いて笑い、精神を健康にして、さらに、一緒にがんばっていこうと共感していきます。綾小路きみまろの漫談は共感のユーモアにほかなりません。この共感のユーモアが、綾小路きみまろをかつてないコメディアンとして成功させている理由だと言って過言ではないのです。

 いってみれば、ユーモアとは、ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、ずいぶん危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ、とでもいうものなのである。
 おびえて尻込みしている自我に、ユーモアによって優しい慰めの言葉をかけるものが超自我であることは事実であるとしても、われわれとしては、超自我の本質について学ぶべきことがまだまだたくさんあることを忘れないでおこう。ついでながらいうと、人間誰しもがユーモア的な精神態度を取りうるわけではない。それは、まれにしか見出されない貴重な天分であって、多くの人々は、よそから与えられたユーモア的快感を味わう能力すら欠いているのである。そして、最後にいっておくが、超自我がユーモアによって自我を慰め、それを苦悩から守ろうとするということと、超自我は両親が子供にたいして持っている検問所としての意味を受けついでいるということとは矛盾しないのである。
ジークムント・フロイト『ユーモア』
〈了〉
参照文献
S・フロイト、『フロイト著作集3』、高橋義孝他訳、人文書院、1969年

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