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平野謙(4)(2005)

7 中途半端性の裡
 こうした文学者像は平野謙の生活自体が描かせている。一九三〇年、彼は東京帝国大学文学部社会学科に入学したものの、三三年に中退した後、三八年、美学科に再入学し、四〇年、『ドストエフスキイ論』を提出して大学を卒業する。その間、文芸批評家として多少知られていたが、竹村書房の校正の手伝い(月給二〇円)など収入は安定せず、「大学は出たけれど」、三三歳まで親の脛をかじっている。

 三八年一一月、『学芸』に「明治文学評論史の一齣─『破壊』を続る問題」を発表するものの、戦後、中村光夫が『風俗小説論』でその意義を発見するまで、文壇から無視されている。平野謙によれば、自然主義文壇主流による従来の『破戒』論は個人の「自意識上の葛藤」から把握してきたが、この小説は近代化における新たな問題、すなわち社会対個人の矛盾・相克を描いている。「明治三十年代の市民社会の市民的自由への翹望」という「新しき個人の苦痛」に着目した社会的・歴史的作品である。この『破戒』論は、今日、藤村研究における最大の基本文献である。

 借金を抱えながら、父履道は息子朗に仕送りを続け、中山和子『平野謙─人と作品』が引用する平野謙の妹春子の書簡によれば、母きよは、満州から裸一貫で引き揚げ、独学で農業経済学者になった蕃を自慢の息子と褒め、「愚兄賢弟」だと日頃から漏らしている。ただ、平野謙の事務局での事務能力の高さを考慮すると、彼が就職できず、収入に恵まれなかった理由は恐ろしく運が悪かった以外にない。一九四一年一月に、熱心な求職活動をしたおかげで、情報局第五部第三課の嘱託(月給一〇〇円)となり、ようやく「生活不能者」から脱却している。

 「私小説文学精神の方法化」をしているのは『鳴海仙吉』ではなく、平野謙の批評自身である。磯田光一は、『平野健論』の中で、私小説など既存の文学に愛着しながら、そのスタイルを使って、逆説的に、批判していると指摘している。しかし、平野謙は私小説的方法によって私小説をアイロニカルに撃ったのではない。私小説の方法を意識的に用い、その潜在的な可能性を顕在化させている。

 平野謙は、「『昭和文学覚書き』のあとがき」において、「文学史など色目もつかわないで、小説を書くべきだったのだ」と告げ、次のように後悔している。

 私と同年輩の井上靖も大岡昇平も松本清張も本気で小説を書き出したのは、戦後のことである。私にも一つだけ書きのこしておきたい小説の題材があった。当時それを書きあげていれば、あるいはそこから現在とはちがった運命がひらけたかもしれない。それを安易なコースをえらんでしまった最初の躓きの石が、あの文学辞典の編纂だった、と後年思い当たったことがある。現在も以前として全集の解説などが主たる営業種目という私自身のコースが、このとききまった。

 平野謙の批評は、花田清輝や吉田健一同様、小説的な要素が強い。彼は近代文学における自然主義の克服を課題としている。平野謙はそれを実践する。彼の批評は、作家の生活に結びつけて作品を解釈し、その屈折の投影を見るという私小説的読解、すなわち私小説の手法のパスティシュである。それは、狭義では、小説でも、批評でもない。

 平野謙は、『私は中途半端がすきだ』において、「中途半端性の裡」に自分の「文学的宿命」があると次のように述べている。

 過去において私は中野重治と小林秀雄とをひそかに信奉し、そこから文学的影響を受けたいと希った。いまでも希っている。おそらく人には馬鹿げたことにうつるだろう。しかし、やっと覚悟をきめた、ほかならぬこの二重性、中途半端性の裡にこそ、もしあれば私自身の文学的宿命の存することを。

 この「中途半端」さ、すなわちB級意識が彼の批評の精神である。平野謙は文学的課題に基づきB級文学のスタイルで批評を書く。それはB級の、B級による、B級のための批評にほかならない。

 平野謙が『昭和文学史』を書くとき、彼は正統的な文学史が切り捨てたB級作品を見出そうとする。一九二八年に結成されたナップ(全日本無産者芸術団体協議会)以前をプロレタリア文学前史として抑圧された文学の中にあった可能性を発掘してみせる。このB級も当時の文学シーンを活発にしている。

 同様の史観に基づき、平野謙は、『社会主義リアリズム論争』において、昭和一〇年前後に次のような可能性があったと指摘する。

 混乱しながらもマルクス主義的と自由主義的、社会主義的と革命的、プロレタリア的と進歩的などの提携の可否を争点とする流れと、もうひとつは広津和郎の新聞小説論から横光利一の純粋小説論にいたる純文学的と通俗小説的との統一・分離をめぐる流れとがからみあいながら、混沌たる昭和十年前後の文学的リアリティを形成していたようである。みんなそれぞれ懸命になりながら、自分の立っている地点が全体のなかのどの位置かも定かでないままに、たがいに必死になって主張し、論争しあわねばならなかったあんばいである。

 平野謙は、こうした状況下、日本的な「人民戦線」の可能性があったと言っているが、こういう発想自体B級である。彼は文化を活性化するB級文学を調べあげ、そこにひそむ荒唐無稽なまでの可能性を正統史の代替案として描く。

 むしろ、平野謙は日本近代文学の主流自身がB級文学の系譜と考えていたと見るべきだろう。彼は、対談『戦後文学二十五年』の中で、「昭和文学の特徴はみな資質に反しているといえないこともない」と発言し、「横光利一など資質に反した一典型だと思う。資質に反してああいう新感覚派的な仕事をずっとしてきた。だからこそ彼はなんといっても昭和文学の代表的作家なんですよ」と言っている。B級文学の群像に平野謙は読む喜びを覚えている。

 伊藤整は、講談社版『現代日本文学全集』第九七巻解説において、『新生』はつまらないが、平野謙の『新生』論は面白いと次のように述べている。

「新生」は、この平野謙の「新生論」がそれとともに読まれぬ限り、一般読者にとっては意味のない小説以前の書きものだ、と私は言ひたい。そしてその作者の糾弾者兼牧師の手になつた「新生論」とともに読まれるとき、突然「新生」は、したたかに人間の味ひを嘗めつくしたという怖れと満足とを与えるところの傑作に変貌する。

 これこそが平野謙の最大の能力である。志村正順の野球の実況中継を髣髴させるように、まったくつまらないB級作品が、彼の手によって、その可能性を明らかにする。

8 『新生』論
 平野謙の『新生』論、すなわち「島崎藤村─『新生』覚え書」は『近代文学』一九四六年一月・二月号に掲載され、彼の戦後第一作である。これは彼の批評の中でも傑作の一つであるが、対象である『新生』は藤村の小説において駄作と見なされている。藤村は姪駒子との不適切な関係を告白しているけれども、その事実によりかかりすぎて、素朴な私小説にすぎず、作品としては、構成にしろ、描写にしろ、理論的考察に耐えられない。

 そんな小説を平野謙は中野重治の芸術の「自家用」という概念を援用して、考察している。彼は、前半で、『新生』における芸術的と言うよりも現実的な欲、すなわち性欲と金銭欲を満足させるために、ほとんど犯罪と呼んでいいような姪節子(駒子)を生きながらにして社会的に葬った岸本(藤村)のえげつない倫理的・経済的老獪さを糾弾する。藤村は『新生』を「自家用」に利用したわけだ。しかし、後半では、それが藤村の旧家の暗い血統に由来し、その宿命に苦悶しながら、作家による血の「浄化」に向かい、最後には『夜明け前』を完成させ、罪深き業のまま救済されたのだと閉める。

 「新生」が文壇的に成功して麹町区下五番地に新邸を構えた藤村は、訪ねてきた新聞記者に向かって次のように語っている。

 こま子とは二十年前、東と西に別れ、私は新生の途を歩いてきました。当時の二人の関係は「真性」に書いてあることでつきていますから、今更何も申し上げられません。それ以来、二人の関係はふっつりと切れ、途はまったく断たれていたのです。
 あの人もあれからあの人自身の途を歩いていたでしょうが、その後何の消息もありませんでしたが、三年ばかり前病気だからといってあの人の友人が飯倉の家に来たことがありました。その時はいくらかの金を贈りました。

 この記事はガラスの破片のように胸を刺す。
 これがかつて「罪なれば滅び砕けて」と唄い「嗚呼二人抱きこがれつ、恋の火にもゆるたましひ」と詩に書いた藤村とこま子の後日談譚なのである。
 私は、恋は不滅だなどとは思わぬし、別れた男と女とが、必要以上に感傷にふけるのを好むものでもないが、しかし、藤村の全文学と、このエゴチズムとは無縁ではない。
 「愛している」と口で言いながら、神への冒瀆を理由としてこま子を捨てて渡仏した藤村が、愛を売り払って一編の長編を手に入れる。その長編を発表することによって、藤村は、あらためてこま子を裏切ることになるのだということを、当然知るべきである。
 藤村は倫理を生成することを怠け、ただ古い道徳を方便として用いたにすぎなかった。
 それでは、こま子はどこへ行ったか?
 こま子は一度、台湾へ渡り、数年で帰国し、京都の三高の学生寮の寮母となった。そしれ、そこで京都の共産党委員長長谷川博を恋して結婚したが、こま子と生まれたばかりの子をおき去りにしたまま、夫の長谷川博は地下に潜って消息を絶ってしまった。
 こま子は、乳のみ児を抱えて、学用品や石鹸の行商をしたが、過労と栄養失調で倒れ、養育院で孤独のうちに死んだ。
 こま子は、生前に藤村の「新生」を本屋で買って読んだ。
 そして、自分に関する部分に、赤鉛筆で線を引きながら大切に持ち歩いていた。こまこの一生で、一ばんしあわせだったのは、叔父との恋に生きて、甘えながら「私の旦那さん」と呼んだ夜だったのであろうか。

  かなしいかなや人の身の
  なきなぐさめを尋ねわび
  道なき森にわけ入りて
  などなき道をもとむらむ
(寺山修司『姪・こま子』)

 平野謙にとって、『新生』がそうであるように、克服されるべき小説である私小説はB級文学である。私小説家はB級的存在である「逃亡奴隷」にすぎない。だが、彼にはB級文学だから面白いという倒錯性はない。B級文学の可能性を探っているだけだ。チープな私小説が主流になった結果、文学的な交流が行われ、豊かな文学土壌が育まれ、日本近代文学が発展している。

 夏目房之介は『マンガはなぜ面白いのか』の中で、「マンガがとても豊かな娯楽性を発揮して、大衆文化として根づいているとすれば、先鋭的な表現と定型的な表現とが互いに完全に分離しないで、交流しながら発展しているからだろうと考えられます。おうおうにして批評家やマニアがバカにしてしまうような作品、どこを読んでも同じような類型的な作品がたくさんあることによって、初めてマンガ文化全体が豊かなダイナミズムを持ちうるのです。『いいマンガ』、『優れたマンガ』、『先鋭的なマンガ』のみを評価して、『くだらないモノ』は排除するという発想でマンガをとらえると、自分で自分の首をしめるようなことになりかねません」と言っている。これはマンガに限らず、文化全般に見られる。

 森毅は、『B級文化のすすめ』において、「ホンモノというのは公認の価値を志向しているだけで、新しい文化価値を生みだすのは、A級よりもかえってB級のような気がするのだ」として、次のように述べている。

 考えてみれば、ぼくが子供のころに育った、戦前の宝塚文化なんてのは、レビューやショーは、フランスやアメリカのマガイモノだった。エノケンがジャズを歌った、戦前の浅草文科だってマガイモノだった。
 むしろ、マガイモノであるからこそ、そこに一つの世界を作って、文化となりえたのだろう。それが、カーネギー・ホールまで行ってしまったら、ホンモノ志向がすぎる。

 ぼくの好みをさしひいて、なるべく文化論的に見たいのだが、ホンモノというものは公認の価値を志向しているだけで、新しい文化価値を生み出すのは、A級よりもかえってB級文化のような気がするのだ。

 形をA級にしたところで、せいぜいが既成のA級に伍してとの自己満足程度で、そのA級文化だって最初はB級文化だったのだ。映画の『アマデウス』のおもしろいところは、モーツァルトのオペラをB級文化風にとらえていることだった。
 むしろ、B級文化の渦のなかから出てくるものが、時代を変える。帝劇よりも浅草オペラ、名のだ。
 光るものは、B級のなかでも光る。A級にまじったところで、光らないものは光らない。B級文化が繁栄している時代というのは、文化的に成熟した時代だ。ぼくの好みはB級でぼくの時代がやって来た。

 この「B級」という概念は「B級映画」に由来する。それは、一九三二年から四七年に製作された短期間撮影の低予算映画である。当時のアメリカでは、映画は二本立てで公開され、その一本目に前座として低予算映画が上映されるのが通例である。大恐慌とトーキーの台頭による大幅な映画館の改修に伴う費用のため、フリッツ・ラング監督の『メトロポリス』のような大作を製作できなくなったせいである。

 SFや西部劇、冒険活劇など倒産と失業が蔓延する苦しい現実を忘れさせてくれるような作品が好んでつくられている。その低予算映画は「B撮影所」で撮られたことから、「B映画(B-Pictures)」と呼ばれ、前座映画の習慣がなくなっても、低予算の早撮り映画としてそれが後に「B級映画(B Class Picture)」へ転じていく。多くの場合、質が悪いけれども、ほとんどが娯楽作品であるため、『死霊のはらわた』など一部の熱狂的なマニアからカルトな人気を得る「カルト映画(Cult Film)」と見なされることも少なくない。

 高校生のころ、当時つき合っていた男の子のうちに遊びにいったときのことだ。
「なんか、おもしろそうなビデオがあったら、借りてきてよ。一緒に見ようよ」
 といわれ、私が駅前のビデオ屋でレンタルしていったのは、”死霊のはらわた“だった、別にウケねらいとか意外性をつきたかったというのではなくて、心から見たかったから選んだのだが、そのコはそっち系の映画はダメだったらしく、
「え~っ!まじかよお。おれ、いやだよお。こんなの見るのお」と拒否されてしまった。
(ちぇっ、つまんないの)
 結局、うちに帰ってから電気を消してゆっくり見たのだが、いやあなかなかよかった。特に、あのものすごいスピードのラストシーンなんて、どうやって撮影したんだろうと目を見張った。真っ暗な部屋でひとり、思わず後ろを振り返ったほどだ。この感じ、見た人は”あ、そうそう!”と、わかってくれるはずなんだけれど……。
「死霊のはらわた、よかったよ」
 あとで興奮しながら彼に電話報告したところ、ひとこと。
「ああいうのを見て”よかった”ていう感覚がわからない。お前、悪趣味だ」
だと。(略)
 価値観の違い……からか、彼とは卒業後すぐ別れてしまった。
(水谷加奈『死霊のはらわた』)

 稀にではあるものの、『ターミネーター』を代表に、大ヒットしてシリーズ化したり、『カサブランカ』のように、映画史に残る傑作となったりすることもある。また、ロー・リスクであるので、新人の監督・俳優を採用しやすく、リドリー・スコットやロバート・デ・ニーロが育った通り、人材育成には、マイナー・リーグの如く、適している。


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