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リノベータ―正岡子規(3)(1993)

第3章 写生文
 子規は、『再び歌よみに与ふる書』(1898)の冒頭で、「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」と挑発的に言っている。古今集は前近代における和歌の規範である。それを否定することにより近代短歌のアイデンティティを示そうとしている。蒼乃一方で万葉集を高く評価している。自らの運動を歴史的に位置付ける際、直前の流れを否定し、その前に遡航することはしばしば取られる戦略である。もちろん、その系譜は恣意的であることも少なくない。近代歌人の万葉集讃美も同様である。

 万葉集は古今集以前であり、その規範にとらわれていないことは確かであるけれども、しかし、その詩歌の基づく前提は近代と大きく異なっている。近代短歌のアイデンティティを示す際に、古今集否定だけでは論拠が弱いので、万葉集を都合よく利用しているにすぎない。実際、古今集以降の歴史において抑圧された長歌を始めとする諸ジャンルに対して近代歌人は無視している。万葉集讃美は幕藩体制の中世・近世を否定し、古代と近代のがつながっているというまがまがしい神話を描き出す。その後、万葉集は軍国主義の「忠君愛国」に利用され、文学者もそれを正当化していく。

 もちろん、子規は狭量な日本主義者ではない。子規は、6月13日付『墨汁一滴』において、日本について次のように書いている。

 日本は島国だけに何もかも小さく出来ている代りにいわゆる小味などといううまみがある。詩文でも小品短篇が発達していて絵画でも疎画略筆が発達している。(略)何でもかんでも輸入して来て、小さいものを大きくし、不経済的なものを経済的にするのは大賛成であるが、それがために日本固有のうまみを全滅することのないようにしたいものだ。
 それについて思い出すのは前年やかましかった人種改良問題である。もし人種の改良が牛の改良のように出来るものとすれば幾年かの後に日本人は正用心に負けぬような大きな体格となり力も強く病もなく一人で今の人の三人前も働くような経済的な人種になるであろう。しかしその時日本人固有の禀性のうまみは存しているであろうか、何だか覚束ないようにも思われる。

 小さいことを改良して大きくした時、小さいことによって可能だったことは失われてしまう。小さければ小さいなりのことができる。自らの可能性と限界を見誤るべきではない。自分の置かれた状況から始めるほかない。ここから子規が現実主義者だということが読み取れる。時代の変化を無視して過去に固執したり、現状維持に躍起になったりすることを斥ける。同時に、西洋化を全面的に受け入れて既存のものを捨て去ることにも与しない。その良さを想定的に評価・判断し、変えるべきは変え、残すべきは残すとする。

 望むと望まざると変化は明治の文学者たちに襲いかかる。新奇な言葉が出現したり、新たな文体を生み出したりするなど文学は激変にさらされる。新体詩のような新たな形式を生じたと同時に、俳句や短歌は、新しい内容や語彙によって、活性化される。

 子規は俳句や短歌の形式について従来通りの見解を保持している。伝統的にはそれ自体では俳句的な意味を持っていない西洋から新たに輸入されてきたもの──ベースボールや汽車、ランプ──に関しても、形式を維持して散文的にならなければ、俳句にすることは可能だと考えている。子規の考えた通り、今日では「ナイター」が──山口誓子の「ナイターに見る夜の土不思議な土」、水原秋桜子の「ナイターの光芒大河へだてけり」、丸岡忍の「ナイターの群扇個々に動きだす」──季語になっている。

 子規は俳句や短歌が時代遅れになるのは形式ではなく、擁護に原因があると見ている。子規は和歌の腐敗について、「此腐敗と申すは趣向の変化せざるが原因にて、又趣向の変化せざるは用語の少なさが原因と被存候」(『七たび歌よみに与うる書』)、と言っている。「趣向」が「変化」したにもかかわらず、それをとらえられる「用語」がない。「和歌」の世界は歴史的・社会的変化を考慮せず、旧態歴然たる「用語」をただもてあそんでいるにすぎない。だから、子規は、「用語は雅語俗語洋語漢語必要次第用うる積もり」(『六たび歌よみに与ふる書』)と述べている。「用語」は限定すべきではなく、その時々の「必要」に応じて、さまざまなタイプの言葉も俳句や短歌に用いなければならない。

 だが、近代化したとしても、俳句や短歌が完全に過去と断絶することは現実的に難しい。俳句や短歌は短い。イメージを広げるために、典拠を利用することは必要である。過去の作品をよく知り、その蓄積されてきた知見を新たな世界にも活用する。子規は「自ら俳句をものする側に古今の俳句を読むことは最必要なり」(『俳諧大要』第五)と言い、さらには「古句を半分位窃み用うるとも半分だけ新しくば苦しからず」(同)とまで主張している。

 子規は俳句や短歌の近代化を語彙に見ている。形式を崩したのでは、それとは呼べない。しかし、語彙を増やしても、それらは従来の価値観にそぐわない。風流を良しとする詩歌に「ベースボール」を挿入しても、評価されない。そのため、新たな創作・鑑賞の基準が必要である。その認識のもとに子規が考案した理論が「写生文」である。

 従来の規範の代わりに子規は写実を基準として提起する。それを実践する方法が「写生文」である。子規は『叙事文』において「或る景色を見て面白しと思ひし時に、そを文章に直して読者をして己と同様に面白く感ぜしめんとするには、言葉を飾るべからず、誇張を加ふべからず、只ありのまゝ見たるまゝに」と述べている。「写生文」は西洋絵画のスケッチからの借用である。それは、細部にとらわれず、対象を大づかみに色と形で描写することである。従前の日本画は写生図を手控えるのが慣習であったのに対し、西洋画はスケッチを比較的重視する。子規はこれまでの公的制度にとらわれず、私的嗜好を優先して捉えることを「写生文」と呼んでいる。言うまでもなく、ただ自分の好みだけをだらだらと描いては、独りよがりになり、他者が共感できない。そこに「写実」、すなわちリアリズムという基準が必要になる。作者と読者の理解の共通基盤として古典教養は十分ではない。作者も読者も自由で平等、自立した近代人として同じ近代社会に生きている。その場にいない読者も作者と同じものを見ているような現実感が共感をもたらす。それが写実である。その際、あれこれ言葉を増やすと、気をとられて関心が肝心の対象に集中しない。だから、できる限り、シンプルに描写しなければならない。

 江藤淳は、『リアリズムの源流』において、新たな「もの」の出現が子規の「写生」を派生させたのだと次のように述べている。

それは認識の努力であり、崩壊のあとに出現した名づけようのない新しいものに、あえて名前をあたえようとする試みである。いいかえればそれは、人間の感受性、あるいは言葉と、ものとのあいだに、新しい生きた関係を成立させようとする「渇望」の表現でもある。リアリズムという新理論が西洋から輸入されたから、リアリズムでやろうというのではない。「知らずや、二人の新機軸を出したるは消えなんととする灯火に一滴の油を落としたるものなるを」。彼らはものに直面せざるを得ない場所にいるから、「新機軸」を立てたのだと、子規は主張するのである。
 したがって虚子も碧梧桐も、「古来在りふれた俳句」を去って、「写生」におもむくほかない。芭蕉が確立し蕪村が開花させた俳諧の世界が、江戸期の世界像とともに「将に尽きん」とするとき、それ以外に俳句を、いや文学を蘇生させるどんな手段があるかと、子規は必死に反問しているように思われる。

「リアリズム」はたんに西洋からの輸入品ではない。新たな「もの」に直面したときに、それを描写」しようとする方法である。「リアリズム」は現に生きている世界への「人間の感受性」が要求する表現形式を表わす。子規の「写生」は、江藤淳によれば、「もの」と「言葉」の新たな関係を定立することである。

 一方、渡部直己は、江藤淳の指摘を踏まえた上で、子規が俳句の分類から改革に着手したことを重要視する。

 渡部直己は、『リアリズムの構造』において、子規の「月並」への批判に関して次のように述べている。

 子規が「とらわれぬ眼で認識することの必要性」を痛感していたのは、彼が「ものに直面」していたからだと江藤淳は記す。だが、子規は何よりまず言葉そのものにとらわれすぎる自分自身の過剰さに「直面」していたのだ。
 ──これらをたんに「月並」への全否定とのみ受け取ってはなるまい。結果的にはたしかにそうみえるが、子規にとって重要だったのは、いわば古さのただなかから新しさを定立することであり、「月並」を別物として全否定するというより、事はむしろ、「月並」に精通することがそのまま俳句の新生に通ずるような敵対の仕方にかかっていたのだ。「月並」との比較において(換言すればその比較においてのみ)、自派の価値が成立する点を知尽くしていた子規にあって、革新の努力とは、ちょうど彼の「俳句開眼」が、芭蕉以前の駄句の堆積と「猿蓑」との落差に促されてあったように、「月並」との差異を際立たせる一連の操作にほかならなかった。

 子規の「月並」への否定は「古さのただなかから新しさを定立する」ことを目指している。「月並」を全否定してしまえば、何が「月並」で、何が「月並」ではないのか知ることはできないから、「月並」を知ることは、逆説的に、「月並」ではないものを見出すことになる。子規にとって重要なのは、この逆説だというわけだ。

 子規の短歌や俳句は、「用語」の新しさを除けば、わりにオーソドックスであり、過去に負うところが大きい。子規の「凩や禰宜帰り行く森の中」は芭蕉の「水とりや水の僧の沓の音」と離れたものではない。規範が内面化したものを常識と呼ぶ。「月並み」はその惰性である。しかし、形式を維持しつつ「用語」を新たにすることだけが子規の俳句改革ではない。「写生」に基づいた子規の俳句はやはり伝統的な俳句とは、認識において、はっきりとした差異がある。

 江藤淳にしろ、渡辺直美にしろ、子規の言葉への感受性がそのリアリズムに至る動因と見ていることは共通している。子規の言語に関する独自の感受性の原因を江藤淳は新たな「もの」の出現という外的要因に求めている。他方、渡部直己は「言葉そのものにとらわれすぎる自分自身の過剰さ」という子規の内的要因に結論づけている。

 近代の最も根本的な原則は政教分離である。これは公私分離につながり、価値観の選択が個人に委ねられ、その多様化を社会にもたらす。文学的表現においては公的規範に対する私的嗜好の優位である。この公私分離の条件下で共感をもたらすものとして子規は写生文を提起しているす。この点を理解していなければ、写実を追及したところで、近代の詩歌ではあり得ない。

 子規は、『六たび歌よみに与ふる書』において、「写生」に関する認識を次のように述べている。

生の写実と申すは合理非合理事実非事実の謂にては無之候。油画師は必ず写生に依り候えどもそれで神や妖怪やあられもなき事を面白く画き申候。併し神や妖怪を画くにも勿論写生に依るものにて、只ゝ有りの儘を写生すると一部一部の写生を集めるとの相異に有之、生の写実も同様の事に候。是等は大誤解に候。

 目の前の対象をありのままに描くことが写生とすれば、架空のものは扱うことができないだろう。スケッチは細部に固執せずに全体像を色や形で大づかみに捉えることであるので、架空の存在を描いてもかまわない。大切なのはその絵に立体感を含めたリアリティがあるかどうかである。

 子規は直観的な芭蕉よりも写実的な蕪村の方を評価している。それは解釈学的な意味よりも詩学的な効果を重視したことを意味する。直観と写生はそれぞれ想像力と知覚に対応する。直観は(それが何を意味しているのかという)解釈学的領域に、「写生」は(それがいかなる効果をもたらしているのかという)詩学的領域に属している。知覚は経験を再構成する。想像力は経験から可能性を探求する。知覚と想像力はまったく別のものとして切り離すことはできず、それぞれは相補的に機能している。知覚された経験を悟性が概念化し想像力がそれを構成するとしたイマヌエル・カントの『判断力批判』と子規の「写生」の立場は逆である。知覚が経験したものを組織化し、想像力はその可能性と限界を模索する。従来からの規範や常識にいかにとらわれないようにするには、近くを創造力より優先せざるを得ない。

 詩学で着目されるのは技術であり、分類化はその技術の観点から諸々の作品を分析することである。子規は俳句を周到に分類している。俳句を分類し、また俳句を文学ジャンルとして分類する。それが子規の理論では体系化される。体系に位置付けられているから、俳句の方法論も短歌や散文に拡張できる。子規のリアリズムはこの体系から派生したものである。

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