見出し画像

岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』(2015)

岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』
Saven Satow
Aug. 04, 2015

「私にとって終戦は何であったか?その二十三才と踏んでいた寿命が、劇的に、少なくとも日本人男子の平均寿命六七・二才位まで延びた日である。『日本のいちばん長い日』での私の仕事は、そのような生と死の丁度ど真ん中にいた二一・六才から出発した」。
岡本喜八

 『日本のいちばん長い日』は東宝創立35周年を記念したオールスター戦争映画超大作として1967年に公開されている。ポツダム宣言受諾をめぐる日本政府並びに軍部の動向を中心に、1945年8月14日正午から翌15日正午の玉音放送に至る近代日本における最も長い一日を描いている。

 半藤一利の原作のノンフィクションを黒澤明映画で知られる橋本忍が脚本化している。監督は、当初、『人間の条件』の小林正樹が起用されたが、企画方針の違いから降板、岡本喜八に交代する。彼は1965年に『血と砂』で1945年8月15日をすでに一度描いている。

 監督は演出ノートの冒頭に「『日本のいちばん長い日』は新しい日本の歴史の1ページだ。いささかの曖昧模糊も許さずに知りたい」と記している。この宣言を実現すべく、原作者の半藤一利に細部に亘るまで質問を繰り返す。美術の阿久根巌は、監督の要求に応えるように、調べ上げ、皇居内や陸軍省、首相官邸などをセットで厳密に再現、当時の雰囲気を蘇らせる。しかし、監督は演出ノートの末尾に「事実の重みを痛感する。事実は再現し得ても、事実を見つめる私(国民)を主張し得たかどうか」と自問している。

 現在、いくつかの箇所で事実と異なる点が指摘されている。畑中少佐が館野守男NHK放送局員に拳銃を突きつけて自分に放送させろと迫るシーンがある。畑中中佐は映画では喚き散らしている。しかし、実際には突きつけられたのはアナウンサーではなく、報道部副部長の柳澤恭雄である。少佐は静かに語り、その眼は血走り、座っていて生涯あんな目つきを見たことはないと振り返っている。とにかく落ち着かせるように接していたら、とうとう哀願口調になったと証言している。こうした相違は、言うまでもなく、作品の出来を損ねるものではない。

 岡本監督は、台本執筆に際し、2000枚の絵コンテを描いている。筆致は当時愛読していた白土三平の影響が見られる劇画調である。映画は1秒24コマである。この作品は158分なので、1分あたり10枚以上の絵コンテということになる。

 映画は映像であるため、すべてを具体的・具象的・個別的に表現する必要がある。言葉は抽象的・一般的であるから、台本の理解をスタッフ・キャストが映像として共有することが難しい。そのために絵コンテが必要になる。また、描く作業を通じて頭の中のイメージが具体化され、監督自らも認識が明確になる。監督の描く絵コンテを通じてカメラのサイズやアングル、構図の理解が関係者に共有される。絵コンテの質と量が映画の出来を左右するとさえ言える。

 映像のリテラシーの基礎はサイズとアングル、構図である。絵コンテがないと、スタッフ・キャストの共通理解が成立しにくいため、これらが甘くなる。それは意図や効果が不明確だったり、不適切だったりする映像になってしまう。絵コンテを描きこむ岡本監督や黒澤明監督と比べて、彼ら以後の日本映画にしばしば理解不能な映像があるのはそうした理由がある。

 岡本監督は大量の絵コンテを提示することで、関係者とサイズやアングル、構図の共通理解を形成している。モノクロはカラーと違い、抽象度が高いので、構図の確かさが要求される。撮影の村井博はフィルムを増感し、コントラストの強いシャープな写真を示している。

 2000枚もの絵コンテはカット数が多い映画だということを意味する。カット数が増すと緊迫感が高まる効果を持つ。ポツダム宣言受諾をめぐる政府や軍部の動向が描かれながら、同時並行で進むエピソードが必ずしも直接相互関係していない。この難しい構成ではカット数が多くならざるを得ない。

 同じ時間帯に別々の場所で違うエピソードが転回されている。中でも、児玉基地から出撃する最後の特攻のカットバックは胸が痛む。司令官は詔書煥発を待ちながらも、日本最後の特攻の出撃命令を出さざるを得ない。飛び立つ隊員も見送る児玉町町民もそれを知らない。その間に昭和天皇が玉音放送を録音しているショットが挿入される。それは8月15日午前0時の出来事である。

 この劇的な映画は観客に語りかけて幕を閉じる。「太平洋戦争に兵士として参加した日本人1,000万人(日本男子の4分の1)。戦死者200万人、一般国民の死者100万人、計300万人(5世帯に1人の割合で肉親を失う)。家を焼かれ、財産を失った者1,500万人」という字幕が本編の最後に添えられ、鐘の音が鳴り響き、終わりを迎える。

 戦後22年目の作品であり、スタッフやキャストの多くに実際の玉音放送の記憶がある。それは幼い子どもから従軍中の兵士までさまざまな状況で経験している。この映画を通じて彼らは当時と異なる立場でそれを追体験したことになる。劇場用パンフレットには何人かのキャストが玉音放送の時はいくつで、どこで聞き、どう思ったか、さらにこの映画の出演者の一人として感じたことを寄せている。

 矢部国内局長を演じた加東大介は、33歳で、ニューギニアのジャングルで将兵のための演芸分隊をつくっている。「死んだ大勢の戦友のことを考えさせられた」と回想する。その上で、「良識ある人々によって戦争が終わってよかったと思うこと。この戦争の秘話は日本中の人にみてもらいたいと思った」と言っている。

 また、阿南陸軍大臣を演じた三船敏郎は26歳で、陸軍航空上等兵として熊本に服務しており、放送を聞いた際、「快哉を叫んだ」と述懐する。「どのような理由があったにせよ驕れる軍部に踊らされ偉大な無駄と罪悪を犯したということだ」。

 天本英世や伊藤雄之助のコメントはないけれども、彼らが訓示を垂れるシーンは印象的である。その迫力は演じているのが彼らであることを疑わせるほどだ。実際の彼らはおよそ軍国主義体制と相性が悪い人物であるが、その時代を生きたからできるのだろうと思わせる。戦時下の空気は暗黙の裡に人に影響を与えるものだと改めて考えさせられる。

 なお、この映画には女優が登場しない。新珠三千代が鈴木貫太郎首相私邸の賢婦原百合子としてほんのわずか出ているだけである。男の世界が描かれ、登場人物はすべて公人として扱われている。ポツダム宣言受諾に関して権限と責任を有する公人としていかに振る舞ったかが描かれている。彼らが私人としてどうだったかはこの問題について関係ないし、それによってその時の発言・行動が情状酌量されるものではないからだ。

 戦時下は自由にものが言えない。しかし、人には内面がある。この映画でそれは言葉ではなく、ちょっとしたショットの挿入で表わされる。横浜の警備隊長に決起を呼び掛けられる学生の一人がポケットにゲーテを忍ばせている。こうした内面をうかがわせるショットがところどころに挟まれている。見る人が見ればわかる。管理と統制の軍国主義体制と違い、岡本監督は観客を信じている。

 岡本監督は劇場用パンフレットに「21.6才のいのちを…」という次のような文章を寄せている。

 私にとって戦争は何であったか?──
机を並べた友だちが声もなくドンドン死んでいった日々である。
やがて同窓生名簿からは、その半数が消えてしまい、
私自身も自分の寿命をせいぜい二十三才と踏んでいたものだ。
 私にとって終戦とは何であったか?──
その二十三才と踏んでいた寿命が一挙に延びた日である。
あの日がなければ私も日本もどうなっていたか判ったものではない。
「『日本のいちばん長い日』は新しい日本の歴史の一ページだ。
当時二一・六才の候補生であった私は、
いささかの曖昧模糊も許さずにこの歴史を変えた一ページを知りたい
私たちの寿命をちぢめていったあの強大な力が、
どのようにして萎えて行ったか、
血と汗と涙がどのように流されて新しい日本が生まれたかを…

 実は、この映画には対になる作品がある。それが「もう一つの日本のいちばん長い日」と呼ばれる1968年公開の『肉弾』である。終戦をめぐる一無名兵士の孤独で間抜けな戦いの物語だ。主人公はただ「あいつ」と呼ばれ、名前はわからない。年齢は22歳で、死亡した日本兵の平均年齢と同じだと語られる。

 主演は寺田農である。新人の大谷直子がその淡い恋の相手を演じている。ナレーターの仲代達也を始め、『日本のいちばん長い日』の出演者も出ているが、役柄は正反対である。笠智衆がB29の空襲で両腕を失った古書店の主人、天本英世が主人公の父、高橋悦史がやさぐれた下士官、伊藤雄之助が汚わい船の船長に扮している。なお、小沢昭一と菅井きんのキスシーンが盛りこまれている。

 「あいつ」は工兵特別甲種幹部候補生だったが、広島に原爆投下され、ソ連が参戦した後、特攻隊員にされる。元々は行きがかり上だったが、恋した少女が空襲で亡くなったため、怒号し、米軍への復讐を決意する。ドラム缶の船に魚雷を積み、肉弾攻撃をすべく、太平洋にあてどなく出撃する。ところが、潮に流され、海をさまよう羽目になる。敵の空母を発見し、魚雷を発射するものの、不良品でただ海中に沈んでいく。その後、あいつは空母と錯覚したし尿処理船の船長に戦争がすでに終わった時課される。汚わい戦に曳航されて港に戻ることになったが、古びたロープが切れ、ドラム缶の船は置き去りにされてしまう。それから20年後、水着の若い女性たちが海水浴でにぎわう浜辺にドラム缶が浮いている。その中で白骨化したあいつが怒号している。

 これは岡本監督が主人公に自らを重ね合せた映画である。監督は、45年4月、陸軍予備士官学校に赴任する。その直後、爆撃を受け、至近距離に着弾、戦友の99%が亡くなり、監督もその肉片や血糊を全身に浴びる。7月に特攻要員になり、日に日に死の恐怖に苛まれていく。そのうち、監督はこう思うようになったと著書『マジメとフマジメの間』に書いている。「もし発狂したらみっともない。はたと思いついたのが、状況をことごとく喜劇に見るクセをつけちまおうということだった」。

 監督・脚本共に岡本喜八である。ただ、制作・公開いずれでも苦労している。資金がまったく集まらず、音楽の録音スタジオの確保もままならない有様で、配給はATGである。特攻の絶望的状況を喜劇的に描いた『肉弾』は、今日、監督の代表作の一つと評価されている。

『日本のいちばん長い日』だけを見たのでは、認識に広がりを持てない。岡本監督は8月15日をめぐる映画を三度撮っている。『血と砂』と『肉弾』はいずれも終戦によって寿命が延びなかった兵士の物語である。また、『日本のいちばん長い日』でも最後の特攻隊の描写は作中で最も印象深い。監督にとって「長い」はその「一日」のことではない。それを境に日本人の寿命がそうなったことである。

 2005年2月19日、岡本喜八監督は永眠する。享年71歳である。終戦は監督の寿命を予想よりも60年近く長く延ばしたというわけだ。のみならず、日本人男性の平均寿命よりも長生きさせている。『日本のいちばん長い日』はこのような監督によって生み出された映画なのである。
〈了〉
参照文献
伊東千尋、「映画の旅人『日本のいちばん長い日』」、朝日新聞be、2014年8月9日
岡本喜八監督、DVD『日本のいちばん長い日』、東宝、2005年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?