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印刷物障害(2016)

印刷物障害
Saven Satow
Aug. 13, 2016

「書物の新しいページを1ページ、1ページ読むごとに、私はより豊かに、より強く、より高くなっていく」。
アントン・チェーホフ

 グーテンベルク革命が人類の歴史をいかに変えてきたかは今さら言うまでもありません。そうした印刷物の果たした役割に関する代表的な考察の一つとしてベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』を挙げることができます。彼は近代ナショナリズムの形成に新聞を始めとするプリント・メディアが大きな貢献をしたと指摘します。印刷物を媒介にしたニュースや言語の共有が想像上の共同体意識を促し、ナショナリズムの基盤になったというわけです。

 それだけ定着すれば、印刷物は社会生活する際の自明の前提となります。けれども、そのため、印刷物へのアクセスが難しいと、生活に支障をきたしてしまいます。印刷物であるがゆえに、情報を入手できないことがあり得るのです。

 印刷物はハードとソフトが一体化しています。一旦印刷されたものを変更することはできません。受け手にさまざまな事情があっても、送り手の設定に従うほかないのです。そのため、印刷物へのアクセスが困難な障害が生じてしまいます。これを印刷物障害と呼ぶことにします。

 ブック・デザインには長い歴史があります。どのようにしたら読みやすいかの知識は、現場の経験や学問研究によって蓄積されています。けれども、印刷物障害を考慮して発達してきたわけではありません。文字サイズやコントラスト、文字間、行間、縦書き・横書き、紙質など読みにくくなる事情はさまざまです。

 近年、急速に電子媒体が普及しているとはいえ、依然として印刷物の社会的役割は大きいのです。近所のスーパーの安売り情報にしても、新聞の折り込みチラシで住民に伝えられています。電子媒体が印刷物に完全にとって代わることなどあり得ません。

 印刷物障害として真っ先に思い浮かぶのは視覚障害でしょう。全盲は言うに及ばず、弱視や視野欠損、色覚障害などのために、通常の印刷物では目を通すことができない、もしくは難しいのです。

 点字本や大型活字本も出版されていますが、印刷物全体から見れば、部数が少ないので、コストの面からはかどらないこともあります。また、古典性や実用性が優先され、ポルノや暴露本など嗜好性のある本は後回しになりがちです。さらに、点字本の出版に応じない狭量な作家も日本にはいます。

 読書障害や眼球をうまく動かせない人にとっても、印刷物を読むことが困難です。前者は学習障害の一つとして近年社会的に認知されるようになっています。後者は脳神経の機能障がいの症状です。うつ病や自律神経失調症などでも見られることがあります。

 他に、肢体不自由による読書困難もあります。本を手に取り、開き、ページを固定したり、めくったりすることが読書の行為です。この一連の動作は、結構、細かな作業です。肢体不自由にはこれを行うことができない、もしくは困難な人がいます。彼らも印刷物であるがゆえに情報へのアクセスが難しいのです。

 こうした印刷物障害には支援ツールが必要になります。全盲の場合はハードからソフトを切り離すほかありません。スキャナにとりこんで点字プリンタで出力したり、読み上げソフトを用いたりする方法があります。ただ、マンガなどヴィジュアルが重要な作品は変換が困難です。他の視覚障害には文字のサイズやコントラストを変更できるデジタル拡大読書器があります。

 読書障害や眼球をうまく動かせない人にはリーディング・ルーラーがあります。これは光の波長をコントロールする定規です。読みたい字や行の下や横にあて、その後を隠します。こうすれば、今どこを読んでいるかがはっきりと認知されます。そこを読み終えたら、ずらして次に移ればよいのです。実は、この定規は必ずしも障がい者向けではなく、正確に文字を判読しなければならない軍隊や警察でも使われています。

 肢体不自由にはページめくりなどの機能が付いた機械式の読書スタンドがあります。残念ながら、本のセットは手動です。ただ、それ以外は機械が代行してくれます。

 もちろん、こうしたツールがあるからと言って、健常者と同様の読書ができるわけではありません。なんとなく目を通したり、流し読んだり、検索したりすることは難しいでしょう。どうしても遅読になります。

 文字を追うことに知的資源が大きく費やされますから、読みながら考えることが難しくなります。内容を理解し、吟味するためには読まない時の反芻の必要があります。これが熟読というものです。

 通常、読むことを考えるという問いは内容理解を指します。行為は暗黙の前提です。けれども、印刷物障害は読むことの暗黙知を明示知として顕在化しています。自らの身体なのに、自分ではわかっていないのです。自分を外から見て相対化する時、認識は進化する者です。

 読む行為はあまりに健常者には自明です。読む行為ができても、それをわかっていません。印刷物障害はメタ認知を与えてくれます。障害について取り組むことは健常者の認識の紳かにもつながるのです。
了〉

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