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東浩紀、あるいは幼いアニマル・スピリット(2017)

東浩紀、あるいは幼いアニマル・スピリット
Saven Satow
Oct. 24, 2017

「劇的な復興などあり得ない。1ミリずつ進んでいくしかない」。
渡辺利綱大熊町町長

 2017年10月22日に投開票が実施された第48回衆議院議員選挙は投票率が53.6%に終わる。これは戦後最低だった前回に次ぐワースト2位の記録である。その理由としては、カテゴリー3の台風21号や希望の党騒動による与野党対決の構図の不鮮明化などが挙げられている。なお、投票率は社会関係資本の指標の一つと社会学で扱われている。それを踏まえるなら、安倍晋三政権下で進んだ社会の分断化も一因に加えることができよう。

 東浩紀は、総選挙公示前の9月末、署名サイトで、総選挙のボイコットを呼びかけている。今回の総選挙には「大義がなく、解散権の乱用」で、「民意を反映できる選択肢がない」と批判し、投票の「積極的棄権」を主張する。最終的に投票に参加するか否かは個人の判断に任せるが、この運動に賛同するなら署名をして欲しいと訴える。

 署名の目標数は5,000としている。47都道府県の小選挙区選出議員は289人である。1県当たり約106名、1議員当たり約17名の署名数という割合だ。東は、選挙後、国会議員にこの署名を届けるとしている。

 棄権あるいは白票の呼びかけは過去の選挙でも起きている。東が初めてではない。ただ、過去のキャンペーンがすでに十分批判されており、今回あえて始める意味はない。現代の一般的な民主主義はコンセンサスを目指す。それに対して、少数派の尊重こそが民主主義という考えがある。これをラディカル・デモクラシーと呼ぶ。意思決定過程へのアクセス権から排除される人たちによる異議申し立てが民主主義というわけだ。アメリカの公民権運動が代表例である。しかし、東の積極的棄権は公的資源へのアクセス権の放棄であるから、ラディカル・デモクラシーに当たらない。

 東はこれまでも、何度かコンセンサスに対して批判的行動をとっている。2013年の福島第一原発観光地化計画や2012年の新日本国憲法ゲンロン草案などがそうした例だろう。

 新たに観光を始める場合、その地域から提案が内発的に起こり、住民のコンセンサスが必須である。旧来の観光は関連産業が中心となって行われ、それ以外の住民との間で溝も生まれている。自然・生活環境の悪化を招き、住民には観光への不満も募っている。こうした反省を踏まえ、新しい観光は関連産業のみならず、住民や行政とも協調して取り組む必要がある。観光が地域の共通理解をアスピレーションしなければ、成功しない。

 福島第一原発事故を風化させないために、同地を観光地化するかどうかは地元が考え、決めることである。そのコンセンサスに則り、それを後押しするための提案ならわかるが、東の計画は出しゃばりというものだ。福島県大隈町は渡辺利綱町長が中心となって廃炉の拠点を目指し関連施設を誘致しようとしている。2014年1月22日付『朝日新聞』のインタビュー記事によると、町長は今後30年は原発と共存せざるを得ない町が前に進むためだと話す。加えて、復興計画の遅れに際し、周辺自治体が合併して取り組むことを呼びかけている。町長の言葉からは苦悩が感じられる。

 また、東は改憲草案を書籍とネットで公開している。彼はリベラル派が護憲に固執する膠着的姿勢に苛立ち、積極的に対案を出すべきだと説く。従来の憲法は護ものであったから、自分たちのものではない。そのため、ウェブ2.0の発想に基づき、自分たちの憲法を作成する。しかし、憲法は最も根本的な国法である。それを変えるのであれば、国民が広く納得できる公的な理由がなければならない。東はなぜ今改憲なのかという問いに私的動機で答えている。改憲は公共的なコンセンサスが必要であるのに、私的動機を優先させている。これは今回の積極的棄権にも通じる。

 確かに、安倍自民は改憲を主張している。けれども、国民の要望と言うより、それは変えること自体が彼らにとっての目的である。実際、最も先進的であるため、新憲法制定の際のモデルとされるカナダ憲法を参考にした形跡もない。現代的観点からの改憲という認識が認められない。そもそも日本国憲法は権利保障に関して今日においても世界最先端である。この恣意に対して護憲の示すことを硬直的と評するのは的外れである。

 東はこのようにコンセンサスよりも自分の思いこみと思いつきを優先させる。独善的な姿勢である。彼には共通理解に立脚して主張・行動する姿勢が乏しい。それは彼がデビューして以来続く傾向で、成長していない。彼の言動は、一部の支持者を除けば、余計なことをするお騒がせ者と人々を苛立たせ、幼いと呆れさせる。

 東の作品には、気が利いていると見えながら、思いつきと思いこみに基づく無内容な比喩に溢れている。『動物化するポストモダン』からいくつか例を挙げてみよう。

 まず、『動物化するポストモダン』というタイトルが意味不明である。この「動物」はA・コジューヴからの借用だ。しかし、20世紀思想史において「動物」の比喩と言えば、J・M・ケインズが『一般理論』で言及した「アニマル・スピリット」を指す。実際、「動物」をアメリカ的生活様式として言及しているように、コジューヴもそれくらい承知しているだろう。

 ケインズはモダニズムの大衆文化の同時代における投資家を「アニマル・スピリット」の持ち主と評する。それは何かをしていないと落ち着かない人という意味である。「動物」は「モダン」の精神性を表わしている。「ポストモダン」が「動物化する」としたら、「モダン」に戻ることになり、理解できない。

 また、同書にはこのような主張がある。90年代に入り、世界はポストモダン状況が進行して、大きな物語など共通基盤が消失、表層的な記号であるシュミラークルが全面化、それ自体に意味をなさない「データベース」のような情報の集積となり、コミュニケーションが分断され、「誤配達」という「郵便的不安」に陥る。これらの比喩も意味がわからない。

 「データベース」はデータの無秩序な堆積場所ではない。特定の目的に沿ってデータを集積し、検索しやすいように、人為的に制作されるものだ。「データベース」の比喩を用いるのであれば、誰がどういう目的で構築したのかに言及していなければならない。

 「郵便的」はジャック・デリダからの援用である。だが、なぜその不安が「誤配達」なのかわからない。「郵便」は生理学においてホルモン系を説明する際の比喩として用いられる。神経系は電気信号を伝えるので、電話である。それに対し、ホルモン系は分泌物質が届かなければ作用しないので、郵便と譬えられる。郵便における不安は誤配達ではなく、中身が届かないことである。

 さらに、同書にはこうした主張もある。「データベース消費」により、人々の関心は個々の作品よりも「キャラクター中心」へと移行する。これは東がアニメを愛好し、そこから世界を認知していると告白しているだけにすぎない。アニメは、基本的には、カメラを用いない。そのため、焦点が複数とれる。登場する人物や事物は等価であり、映像世界はフラットである。

 しかし、焦点が二つ以上あると、今映っている映像の中の誰あるいは何が主なのかわからない。そこで、主のキャラクターにセリフをしゃべらせる。アニメは、そのため、キャラクター中心のセリフ劇になる。また、アニメ映像は現実の再現ではなく、記号によって構成されている。例えば、キャラクターの顎が大きければ意志の強さ、小さければ繊細さを表わす。観客はこの記号の意味を作成者と共有し、キャラクターが表象するものを認知する。アニメの特徴がポストモダン状況だとするのは我田引水だろう。

 これくらいにしておこう。東は恣意的な比喩を使ったり、自分の嗜好を現代社会の特徴と言い表したりする。こうした思いつきや思いこみが彼の作品には溢れている。十分に考えて書いているとは思えない。東の作品には、既存の言説と違う手あかのついていない比喩や見立てを示したい野心が垣間見られる。他者と理解を共有した上で、自らの主張を述べるというコンセンサス形成への意志を欠いている。

 ちょっと目新しく、キャッチ―な比喩や見立てに巷は驚く。その際に、東は巷の関心を引くことができる。しかし、思いつきと思いこみで、実際には意味不明である。それでも、なんとなくわかった気になった支持者もいる。蓄積された知見を知らない、もしくは疎ましく感じる若者にその傾向があり、東も執筆・発言・行動の際に自分より年下を想定している。かくして東はコンセンサス破りを繰り返す。彼は批評家でも作家でも思想家でもない。東浩紀は何かをしていなければ落ち着かない幼いアニマル・スピリットである。ドラッグのように、何かをしている気でも、実際には、プラスの影響をもたらしていない。
〈了〉
参照文献
東浩紀、『動物化するポストモダン』、講談社現代新書、2001年
東浩紀編、『福島第一原発観光地化計画』、ゲンロン、2013年
ゲンロン憲法委員会、 『憲法2.0─情報時代の新憲法草案』、ゲンロン、 2014年
仲村和代、「東浩紀氏『衆院選は積極的棄権を』 呼びかけの意図は?」、『朝日新聞デジタル』、2017年10月12日14時38分配信
http://www.asahi.com/articles/ASKBB44GKKBBUTIL025.html

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