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トロッコが好きだった少年(2012)

トロッコが好きだった少年
Saven Satow
Dec. 12, 2012
「塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………」
芥川龍之介『トロッコ』

 あれからもう30年近くが経ちます。彼は今もあと2週間足らずで17才を迎えるはずの16才です。高校2年生のまま、銀河鉄道に乗って、トロッコ調査の旅を続けているのです。宮沢賢治の詩碑が近い亡くなった場所に、彼の家族が建てたこんな碑があります。「馬場隆 ここより銀河鉄道にのる」

 1983年7月31日、岩手県警花巻署に、東北本線の各駅停車から人が転落したと通報が入ります。現場は東北本線と国道4号線が交差するあたりで、目撃したのは近所に住む小学生の男の子3人組です。警察や救急、鉄道関係者が東京から497㎞の距離標地点において2本のレールの間で頭を東京寄りにして倒れている高校生あるいは大学生の男性を発見します。残念ながら、すでに息を引きとっています。

 所持品からは身元がわかりませんでしたが、その中に盛岡駅構内のコインロッカーのカギがあり、そこに預けてあった荷物等から、犠牲者が馬場隆君と判明します。東京の成城に住む隆君のお母様は花巻署からの電話を受け、知人の運転する車に同乗し、徹夜で花巻を目指します。翌朝、霊安室にいるわが子と対面することになるのです。

 馬場隆君は、消えゆくトロッコを記録しようと日本各地に調査旅行へ出かけています。バイトをしてお金を貯め、長期休暇になると、旅に出るのです。ボーイスカウトに所属していたおかげで、計画を立てたり、地図を読んだりすることが得意です。フィールドワークを順調に進めていた矢先に、この事故に遭ってしまいます。

 隆君はトロッコを記録媒体に残すだけでなく、もっと大きなプランを用意しています。トロッコ保存会社の設立計画です。土地選定条件・製作物内容・車両政策内容など高校生とは思えないほど細かく検討しています。中には、台湾のトロッコの買収も見積もっています。トロッコの保存をマネジメントの観点から捉えているのですから、非常に今日的なヴィジョンを持っています。鉄道の専門家にも手紙を出したり、会いに行ったりしているのですが、彼らは一般のマニアと違う質問をする少年だったと回想しています。

 1966年8月12日に生まれた馬場隆君は、幼い頃から、鉄道が大好きだったそうです。3歳の時に、駅の待合室で、『線路はつづくよどこまでも』を披露しています。

 お父様はサラリーマン生活の後、鍼灸の世界に入っています。これには隆君の祖父馬場和光博士の影響でしょう。馬場博士は東洋医学の研究者で、1979年、『医学の哲学』によって駒澤大学から博士号を授与されています。隆君の姉妹には姉の真澄さんと妹の都さんがいます。なお、隆君の祖母は福島県相馬の出身で、ここは埋め墓と拝み墓(詣り墓)の両墓制の地域として知られています。これは珍しい習俗です。全国でも数えるほどしか認められていません。

 隆君はボーイスカウトに入ったり、ヴァイオリンンの音楽活動をしたりする活発な少年です。けれども、心を最も占めていたのは鉄道です。小学生の自由研究のテーマはいつも鉄等です。高校も普通科ではなく、機械科を選んだほどです。

 ちなみに、ボーイスカウト運動を日本で推進した一人が満鉄総裁も務めた政治家後藤新平です。彼は岩手県奥州市出身で、水沢公園にはボーイスカウト姿の銅像が建っています。不思議な縁です。

 77年から連載が始まった松本零士のマンガ『銀河鉄道999』の大ファンで、テレビ・アニメも劇場版も見ています。主題歌等もテープにダビングし、旅行にも持参しています。死亡現場でもそのテープが見つかっています。また、自宅の遺品の中に、メーテルのスケッチが多く含まれています。彼女に淡い恋心を抱いていたのでしょう。

 トロッコに特に魅了されたのは一冊の本との出会いからです。小学6年生の時、毎日新聞社より刊行された武田忠治編『軽便鉄道 郷愁の軌跡』(1978)をむさぼるように読み、すっかり虜になります。全国各地の軽便鉄道が貴重なカラー写真で紹介されています。さらに、丸善出版より刊行された『知られざるナローたち─残された小さなヒーローを訪ねて』(1981)を見た時、決意が生まれます。消えゆくトロッコの記録を残そうと用意を始めるのです。

 あの事故はそんな少年の身に起きたことなのです。正直、この事故は今ではありえないでしょう。隆君が乗車した客車は旧型です。当時、東北本線の普通列車の客車は新旧が併用されています。旧型はドア等が走行時でも開放できるのです。

 1966年2月12日生まれの佐藤清文という文芸批評家は、83年当時、岩手県北上市に居住しており、盛岡市に通院するため、月に1回この各駅停車を利用しています。彼はその頃の旧客車のことをよく覚えています。気持ちのいい日は、ドアを開けて身を乗り出し、北上川を眺めながら、スーパー・トランプの『ブレックファースト・イン・アメリカ』を口ずさんでいます。“Don't you look at my girlfriend, she's the only one I got. Not much of a girlfriend, never seem to get a lot”.

 隆君は最後尾の客車の貫通路付近でカメラを構え、走っている列車内から撮影しようとして、誤って転落したと推察されています。彼が撮ろうとしていたのは伊藤組の所有するトロッコだろうとされています。これは当時雑誌等で紹介されていない「知られざるナロー」で、使命感に燃えていたのでしょう。

 事故の真相を聞いた当時の伊藤久雄伊藤組社長は、廃棄処分寸前だったトロッコを展示可能なように整備させます。小学生に代わって実際に警察や救急を手配したのはこの社長です。おそらくショックだったのでしょう。諸般の事情によって実現していませんが、トロッコは今でもその時を待っています。

 隆君が亡くなった後、さまざまな人から哀悼がご両親のもとに寄せられます。幼い頃からの友人、学校の先生、ボーイスカウトや音楽の活動で知り合った人、旅先で出会った人、愛読していた本の編集者や作者などご両親はそのネットワークの広さに驚くと同時に、人々の気持ちに感謝しきれない思いでいっぱいになります。

 けれども、突然、16才のわが子を失ったことを親としてなかなか受け入れることはできません。そこで、ご両親は息子が愛してやまなかったトロッコに会いに行くことにします。隆君がその夏休み中に計画していた調査旅行を続けようと決めます。

 お母様の疎開先にも近い沼尻に家族で向かいます。見つけたトロッコや施設は廃墟で、お母様はこんなものに夢中になっていたのかと嫉妬を覚えると同時に、旅行日記に記された「かわいそうである」に自分の気持ちが重なっていく気がします。トロッコについて地元の人に話を聞くと、懐かしさをこめながら、喜んで話し始めます。わが子はこんな思いだったのだなと感じるのです。

 ご両親は、その後、トロッコ巡礼の旅を始めます。達筆ではありませんが、しっかりとした筆跡の旅行日記から隆君が見たトロッコをたどることにします。そこに行くと、確かに、隆君が感じられるのです。わが子が出会った人から話を聞けることもあります。それ以来、機会あるごとに成城に立ち寄り合掌してくれる人もいます。そうしている内に、トロッコを何台も譲り受けることになります。

 贈られたトロッコは、現在、埼玉県鳩山町にある銀河ステーションの中のトロッコ公園に展示されています。同公園は86年9月にオープンしています。また、隆君に捧げられた『走れみんなのトロッコ列車』(作曲橋本一郎・作詞くぼたばく)も公園の由来の説明と共に設置されています。

 この巡礼がNHKの耳に届きます。『関東甲信越小さな旅』が「トロッコが好きだった少年」と題して1984年11月8日に放映しています。反響は大きく、手を合わせさせて欲しいとお宅を訪ねてくる若者が現われたり、共感に溢れた手紙や電話を受けとったりしています。その中で、子どもを亡くした親の会の必要性も痛感します。今でもネット上で『小さな旅』の中で最も印象に残っている回と挙げる人もいるのです。

 「トロッコが好きだった少年」馬場隆君は、すでに言及した通り、今でも忘れられていません。彼は軽便鉄道の愛好家の間では伝説です。80年代と違い、産業遺産や廃墟ブームなど日本の近代化を担った技術や施設が見直されています。隆君はその先駆者です。一人で始めた活動ですが、彼の死後も広がり続けています。時代を超えるだけのヴィジョンの持ち主だったわけです。

 ただ、今はご両親も年齢等により巡礼が厳しくなっています。話を知った岡本憲之さんが隆君の遺志を継いで、調査旅行を続け、ご両親に随時報告しています。隆君のまいた種をご両親が育てたからこそ成長したことは確かです。

 実は、お母さま自身が息子さんの思い出と事故以後の出来事を『トロッコが好きだった少年』という本にしておられます。第一刷の発行日は1986年7月31日です。何の用意もなく突然わが子を失った母親の思いがこめられています。それは人の死一般ではありません。この本はそうした点から心に訴えるものがあります。

 母親としてこの現実にどう向き合い、受けとめたらいいのかと心の揺れが痛いほど伝わってきます。母親はなぜと問いたくなります。息子や自分を責めることもあるのです。逆に、あそこはわが子の死に場所にふさわしかったと自分に言い聞かせもします。ふっといるべき時にいるべき人がいないと気づきます。それによって息子の死を実感するのです。けれども、人にとって大切なのはかけがえのない共有した思い出です。その16年間は永遠に匹敵します。何かの拍子でわが子を感じ、心の中で話しかけている自分もいます。私はあの子の母親なのだと思い返すのです。母親としてわが子の死を受け入れるには、その子の母になることを反芻することも必要なのでしょう。それが「トロッコが好きだった少年」を今も語り継がせている大きな理由にほかならないのです。

 最後のお別れの時です。
 どこかに、まだ生きているような気がして、なかなか認めることが出来なかった遺体が、いつの間にか、隆になっていました。私は、花に埋もれて行く白装束の下の足を、そっとそっと撫でてあげました。冷たい感触の下にも、どこか、卵焼きのような柔らかさが、まだ残っています。
 私は、とてもとても、いとしくなり、微笑みかけていました。隆も少し笑い返してくれたように見えます。一瞬、隆と私と、二人だけの世界に引き込まれ、あたりが何も見えなくなっていきました。急に、十七年という歳月がなくなり、病院で出産後初めて、小さな隆の顔を見た時と同じ思いがよみがえってきました。今度こそは、私の生ある限り、隆とともに生き続けたい。隆の肉体に決して触れることの出来ない最後の時に、私は、今一度、母親になったような気がいたしました。
(馬場邦枝『トロッコが好きだった少年』)
〈了〉
参照文献
馬場邦枝、『トロッコが好きだった少年』、未来社、1986年
岡本憲之、『消散軌道風景第26回─伊藤組』、2012年
http://www.itougumi.co.jp/file/torokko_2012.pdf


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