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ジョン・ピーター・ゼンガーと言論の自由(2006)

ジョン・ピーター・ゼンガーと言論の自由
Saven Satow
Sep. 01, 2006

「人は短刀を手に持たずとも、とげのある言葉のうちに、それをひそませることができる」。
ウィリアム・シェークスピア『ハムレット』

 安倍晋三官房長官は月刊誌『選択』が彼を「無能」と書いた記事に対し名誉毀損と訴えています。また、どう見ても、故意とは思えないTBSの報道番組の一部の映像にケチをつけています。従軍慰安婦をめぐるNHKへの恫喝を始め以前より言論機関への圧力や干渉の噂がある人物ですから、こうしたことも不思議ではありません。

 その一方で、自らの立場を考慮すれば、語らなければならないことに口をつぐみがちです。

 安倍長官は、今年の4月に靖国神社を参拝していたことをめぐって、いつもの単調な口調で、「戦没者のために手を合わせ、冥福を祈り、尊崇の念を表する気持ちは持ち続けたい」としつつ、「この問題が外交、政治問題化している中で、参拝したか、しないか、申し上げるつもりはない。問題をさらに拡大すべきではない」と途中で迷子になったのかと思ってしまう答えをしています。さらに、 彼は、加藤紘一衆議院議員の事務所が放火された事件には鈍い反応しか示していません。彼の政治家としての力量はともかく、言論の自由への理解が公人としてはふさわしくないほど乏しいことは明白なようです。

 安倍長官が日本の内閣総理大臣になった際、米国のメディアにも応対しなければならないわけですが、そのアメリカは、合衆国憲法修正第一条(United States Constitution Amendment I)において、政教分離ならびに信教の自由、言論出版の自由、集会の自由、請願権に関して次のように謳っています。

 連邦議会は、宗教の護持にかかわる法律、宗教の自由な活動を禁じる法律、言論または出版の自由を制約する法律、国民が平穏に集会する権利を制約する法律、国民が苦痛の救済を政府に請願する権利を制約する法律の、いずれも作ってはならない。

 Congress shall make no law respecting an establishment of religion, or prohibiting the free exercise thereof; or abridging the freedom of speech, or of the press; or the right of the people peaceably to assemble, and to petition the government for a redress of grievances. 

 この表現の自由をアメリカ人が誇りにしていることはよく知られています。と言うのも、これが、ヨーロッパではなく、アメリカで生まれたからです。

 けれども、言論の自由が、合衆国憲法において、初めて認められたのではありません。それは、イギリスの植民地支配の時代に、ニューヨークで行われたある裁判を通じて、公認されたものなのです。その結果、逆に、イギリス本国の法律にこの権利が影響を与えています。

 それには、ドイツ系移民のジョン・ピーター・ゼンガー(John Peter Zenger)という新聞発行人の気骨ある闘争があります。

 植民地アメリカにおける最初の新聞発行は、1704年4月24日の『ボストン・ニューズ・レター(The Boston News-Letter.)』とされています(当時の新聞は題字だけでなく、見出しにもコンマがつていいます)。これは、その名が示す通り、ボストンの郵便局長ジョン・キャンベル(John Campbell)が印刷発行し、内容は本国のニュースや船舶の出入港情報などです。

 その後、各地で新聞発行が相次ぎます。ボストンから、『ボストン・ガゼット(The Boston Gazette.)』(1719)や『ニューイングランド・クーラント(The New-England Courant,)』(1721)、フィラデルフィアでは『アメリカン・ウィークリー・マーキュリー(The American Weekly Mercury.)』(1719)、ニューヨークにおいては『ニューヨーク・ガゼット(The New York Gazette.)』(1725)が創刊されます。ただ、いずれも、植民地総督の許可を受けて発行されており、当局に都合のいい内容だけです。言論は、本国同様、厳しい統制下にああります。

 1733年、ニューヨークで、『ガゼット』紙に対抗した新聞『ニューヨーク・ウィークリー・ジャーナル(The New-York Weekly Journal.)』が創刊されます。それを発行したのがジョン・ピーター・ゼンガーです。

 ゼンガーは、1697年、ドイツのラインラントに生まれ、1710年、家族と共にニューヨークに移住しています。彼は、当時ニューヨークで唯一の印刷業者ウィリアム・ブラッドフォード(William Bradford)に年季奉公した後、発行人として独立しています。

 彼は『ジャーナル』紙に、御用新聞とは一味違う記事を掲載します。その中には、ニューヨークの総督ウィリアム・コスビー(William Cosby)に対する批判も含まれているのです。1734年、怒り狂った総督に代わって当局は、早速、彼を逮捕し、訴追します。

 公判の中で、ニュース・ソースを明らかにするように求められましたが、ゼンガーはそれを拒否します。新聞人が掲載した記事に対して全責任を負っており、情報の通告者を保護すべきであると主張するのです。

 この法廷での彼の弁明は世間から広く同情が寄せられます。ベンジャミン・フランクリンの友人のアンドルー・ハミルトン(Andrew Hamilton)もその一人です。有能な弁護士と評判のあった彼はフィラデルフィアからニューヨークへ赴き、自らゼンガーの弁護をかって出ます。

 この裁判は、実は、記事の真偽が争われていただけではありません。もっと厄介で、現在の日本の裁判でもしばしば問題になる名誉毀損が問われています。当時のイギリスの法では、今の日本同様、報道がたとえ真実であったとしても、名誉毀損罪が成立することになっています。この点でゼンガーは不利です。

 しかし、ハミルトンは巧みに彼を弁護します。名誉革命の意義を踏まえ、専制的な権力に対抗して、真実を語ることは英国人としての当然の権利である以上、ゼンガーの記事が真実であるとしたら、彼は無罪となるべきだと訴えます。1735年8月、陪審員はこの弁論を支持し、ゼンガーは無罪となり、釈放されるのです。

 この公判の様子は他の植民地にも新聞を通じて伝わりましたが、それ以上に衝撃を受けたのがロンドンです。この判例により、政府や役人を批判することは、それが明白な虚偽ないし悪意であると証明されない限り、自由であり、名誉毀損は適用されないことになります。加えて、植民地の同意がなければ、本国が法で植民地を縛ろうとするのが難しくなります。植民地の報道の自由は本国以上に拡大され、それに支えられた出版産業が発達し、後に、独立のイデオロギーを喚起・形成していくのです。

 このように、表現の自由は言葉を通じて人々が公の場で勝ち取ったものです。それは極めて公的な色彩が強いものです。安倍長官は、「公」の精神の重要さを強調しながらも、表現の自由に敵対的ですから、「無能」はさておき、「無知」であるのは確かです。

 そもそも、「美しい」という著しく主観性の強い概念を政権ヴィジョンとして自著のタイトルに付けて、有権者や国民に訴えるという行為自体が公的とは言えません。自分にとっての美しさが他人に美を感じさせるとは限らないのです。

 安倍長官が首相に選ばれれば、ジョン・ピーター・ゼンガー以前の社会に逆行する可能性は大いにあります。政治家が「無能」と批判されて裁判に訴えるなど小心者以外の何ものでもありません。こうした器の小さな人物が次期首相の最有力と見られているのですから、世も末です。もっとも、フランソワ・ド・サルが「小心はこの上なく鋭敏な高慢の息子である」と言っているように、小心者にはメディアがおもねることなく、筋の通った反論をこと細かくしていけば、なめたことを言わなくなるものです。

 とは言え、安倍長官は次期首相と有力視されています。言論の自由への無理解を考えると、将来に備えて安倍首相のアネクドートを用意しておくのもいいかもしれません。いや、それよりも、今から誰かに彼のためのアネクドートを話すというのも賢明なことでしょう。

 ある記者が、総裁選への立候補を表明した9月1日、安倍長官に「長官、今日のご気分はいかがですか?」と尋ねた。すると、長官は即座にその人物を名誉毀損で訴えた。理由は「次期総理」と呼ばなかったからだった。
〈了〉
参照文献
中屋健一編、『世界の歴史』11、中公文庫、1979年


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