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猫の妙術に見る精神修養の意味(2014)

猫の妙術に見る精神修養の意味
Saven Satow
Mar. 19, 2014

「神武不殺」。
『易経』

 剣術の修行は何のためにするのかと問われても、さまざまな回答があることでしょう。ただ、精神修養と答える人が少なくないと推察できます。けれども、さらにその精神修養は何のためにするのかと問われたら、答えに窮するかもしれません。

 精神修養は敵を作らないためだと江戸時代の佚斎樗山(丹羽忠明)は言います。彼は、談義本の『田舎荘子』(1727)所収の「猫の妙術」の中で、そう説いています。これは若猫たちと古猫の問答形式の知恵文学です。剣術の所作・気・心の意味を解明した上で、精神修養ができてくれば、敵が生じない境地に達するとしています。

 この教訓話の内容は以下の通りです。説明と問答の文が混在していますので、読む際に注意してください。

 剣術家の勝軒(しょうけん)の家に大きな鼠が住みつき、我が物顔で振る舞うようになります。飼い猫に退治させようとしますが、鼠は強くて歯が立ちません。勝軒は近所から腕利きの猫を集めてその鼠にけしかけるのですけれども、すべて返り討ちにされてしまいます。とうとう勝軒が自ら木刀を手に大鼠と対決します。けれども、家の中が滅茶苦茶になっただけで終わります。

 そこで、勝軒は鼠獲りの名手と誉の高い猫を借りてくることにします。ところが、これが年老いてヨボヨボ、頼り甲斐もありません。それでも、その古猫を鼠のいる部屋に入れてみることにします。すると、猫は、抵抗もされないまま、鼠をあっさりと捕まえてしまうのです。

 その夜、失敗した猫が集まり、この古猫を上座に、反省会を開きます。猫たちは、iずれも熱心に修練を積み、捕獲に自信を持っていたけれども、このように強い鼠がいるとは想定していなかったと語ります。その上で、古猫に妙術を伝授して欲しいと願い出ます。名手は、真理がまだわかっていないから、予想外の事態に対処できずに不覚をとったのだと笑って答えます。とにかく修行のやり方を話して欲しいと尋ねるのです。

 最初に、若い黒猫が口火を切ります。幼少の頃より技の鍛錬を続け、早業軽業でできぬものがないまでに修得したのに、不覚をとってしまったと悔しがるのです。古猫は、それに対し、所作だけを鍛えたにすぎぬと評します。

 所作の背後には道理があります。師匠が弟子に所作を教えるのは、理の道筋を理解させるためです。道理を考えず、所作の追求を目的としてしまうと、それは競争になってしまいます。そうして習得された所作は一面的ですから、想定外の事態に対処できません。所作が通じない状況ではお手上げなのです。

 未熟者は道理をショートカットして技の会得を急くものです。所作、すなわち技術は確かに心の用として必要ですが、道理に背いていては弊害が多く、偽りでしかありません。古猫は黒猫にそう反省を促すのです。

 次に、壮年の虎猫が武術で重要なのは気であり、長い間、その鍛錬を続けてきたと話し始めます。そのおかげで、自分の気が天地にまで満ちるようになっています。相手の気を察知することで、所作と違い、予想外の事態にも対処できます。気は自ずと湧き起ってくるものだからです。鼠も睨むだけで退治できるようになっています。けれども、今回の鼠は気配を感じさせません。来るのに形がなく、退くにも跡がないのです。

 古猫は、虎猫に、それは気と言うよりも気勢だと述べます。自分の気の力を頼みに考えているというわけです。その修行が気の勢いに乗って作用することを主眼にしています。相手に勝とうとすれば、向こうもそう考えるでしょう。自分が目指していることを敵も同じようにしていることはあり得ます。そうなれば、破ることはできません。

 打ち破れない場合、どうすればいいのかがそこにはないのです。天地が自分の気に満ちていると言うけれど、己以外はすべて弱いという思いこみに囚われています。窮鼠猫を噛むといいうこともり、気勢だけで勝てるものではないのです。

 代わって、年配の灰猫が静かに前に進み出て、長い間、心を鍛えてきたと話し始めます。気力は盛んになれば、形象になって現われるので、敵に悟られてしまいます。気勢を見せないように自分は心を鍛錬し、争わず、和することをしています。相手が強ければ、和して流れに従うのです。壁に石つぶてをすれば、跳ね返ります。一方、幕に石を投げると、勢いがなくなります。自分はこの幕のようなものなので、どんな鼠も立ち向かうことはできません。けれども、今回の鼠は和にも応じません。こんなことは初めてです。

 古猫は、その和に自然ではなく、作為があるからだと答えます。敵の気勢を殺ごうとしても、その念があれば、気が表に現われ、見破られてしまいます。作為のある和の心を持つと、気が濁って情に近づくことになります。以前でなければ、妙用は生まれてきません。何も思わず、何も為さず、感にのみ従って動くと、形象がなくなるものです。そうなれば、敵もいなくなるでしょう。

 もちろん、それぞれの修行がすべて無用というわけではありません。気には必ず理がありますし、所作の中に理に至るものがあります。また、気がおおらかである時、余裕を持って応じることができます。和する場合、そんなことがあろうとも、折れることもありません。ただ、ほんの少しでも作為があれば、敵は心服しません。

 さらに、古猫は故郷にいたある猫の思い出話をします。寝てばかりいて、気勢もなく、まるで木彫りのような猫で、誰も鼠を捕まえる姿を見たことがありません。なのに、その猫のいくところには鼠が見当たらなくなるのです。 猫の元を訪れ、その理由を聞いても、答えてくれません。四度目に質問した時、実は答える理由がないのだと気づくのです。

 真に知るものは言わないし、言うものは真を知らないものです。その猫は己を含むすべてを忘れて、無物になっているのです。自分はまだまだこの域に達していません。 

 勝軒は猫たちの話を隠れて聴いていましたが、とうとう堪えきれず、姿を現わし、古猫に会釈します。自分は剣の修行をしている身で、今までの話はとても参考になったが、できれば、その先の奥儀を教えてくれないかと頼みます。

 古猫は、鼠は自分の食べ物であり、人間のすることを知らないので望みをかなえることはできないと断ります。ただ、「それ剣術は、専ら人に勝つためにあらず。変に臨みて、生死を明らかにする術なり」と聞いたことがあります。生死の理に徹し、平常心でいれば、変化に対応できるでしょう。

 けれども、そうした精神状態でない場合、形象が生じ、敵を作り出し、相対立して、変化に応じられなくなってしまいます。自分の心が先に死地に陥って冷静さを失いので、勝負にはなりません。無心無物であることが必要です。それは、易経の「思うことなく、なすことなく、ひっそりと動かず、天下のことに感じてついに通ず」です。そうすれば、敵も我もありません。

 我があるから、敵があるのです。我がなければ、敵もいません。陰があると、陽があるものです。形がある物には対立物があります。形がなければ、何も対立しません。争いもないのです。この境地に向かうには自らを省みるほかありません。自分の心から苦楽や損得が生じるのです。

 師匠が弟子に教えられるのは、己にあっても自ら発見できないことを知らしめるだけです。何かを授けることはできません。修行は己にあるものを見出し、身につけることです。もちろん、これは難しいことです。

 以上のような寓話です。人間が猫に教えを乞うなど『いなかかっぺ大将』を思い起こさせます。かなりカットし、言い回しも相当変えましたが、概要は理解できたことでしょう。ただ、できれば、自分でも本文を読んで欲しいものです。そうすれば、大切な箇所が削られていると思い、より深長な発想を見出すかもしれません。

 この問答には仏教や道教の影響が認められます。また、ソクラテスの産婆術との類似もあります。いずれにせよ、精神修養が敵を作らぬためという指摘は卓見です。無心無物の境地になれば、我と敵の区別がなくなりますから、対立もないのです。争いをなくすために精神修養するというわけです。これはまさに奥儀でしょう。

 結論に至るまでの問答にも多くの示唆を含んでいます。武術やスポーツ、芸術は言うに及ばず、人間の行動を考える際の参考にもなります。ガラパゴス化する日本の個人や組織がなぜマニュアル信仰に陥りやすく、想定外の状況にもろいのかなどはその一例です。

 さらに、国際政治を考察する際にも、この寓話は洞察に満ちています。脅威に備えるのではなく、敵が生じない環境を整備することが安全保障の基本です。気を軍事力と見立てれば、それに依存する抑止力は落とし穴があると認識できます。また、内戦を含む紛争の仲介者にはわずかの作為も許されません。このように猫の妙術は実践的なのです。

 争いを生じさせないために精神修養をするという猫の妙術は現代の人間には難問であるかもしれません。けれども、猫に教えを乞う姿勢を持てるならば、その境地に近づけることでしょう。なぜなら、自分はまだまだだと思い知ることが鍛錬を持続させる源だからなのです。
〈了〉
参照文献
佚斎樗山、『天狗芸術論・猫の妙術 全訳注』、石井邦夫訳、講談社学術文庫、2014年


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