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野次に見る独創性(2003)

野次に見る独創性
Saven Satow
Sep. 25, 2003

「ダルマは9年!」
三木武吉

 安倍晋三衆議院議員が新しく自民党幹事長に就任します。49歳での就任は、田中角栄元首相や小沢一郎前自由党党首に次ぐ、三木武夫元首相と並ぶ自民党史上三番目の若さです。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」(謡曲『敦盛』)という織田信長の言葉が過去のものと思わせてくれます。政治的力量よりも、かの三者と違い、拉致問題によって、メディアに露出することが多いために、次期総選挙の顔として活躍してもらう目的で選任されたと言われています。

 当選三回のこの議員は、議場内では、汚い野次を激しく飛ばすことで知られています。国会見学に行けば、目にする不快極まりない光景なのですが、政治記者や永田町通はテレビでそのことを口にしていません。

 意見には根拠と理由、例が必要です。ところが、罵詈雑言はそれを持ちません。汚い野次は、ですので、情報量がゼロです。何も出てきませんから、ノイズにすぎません。安倍議員を代表に、汚い野次を飛ばす者は自分がからっぽだと言っているに等しいのです。

 サラリーマン生活があるために、腰が低く、悪く言う人はいないとゴルフ焼けのルックスを評している程度です。渡辺恒雄読売新聞社社長もサラリーマン生活をしているということを世間のサラリーマンやOLも、もちろん、知っているということを承知の上で、あえてこう説明するという処世術は耳を傾けてしかるべきでしょう。安倍晋太郎元外務大臣の息子は政治に「若いセンス」を生かすと言っているようです。けれども、少なくとも、言葉をめぐるものではないことは確かです。

 なるほど、NPTと日米同盟、憲法の関連性を無視する日本の保守的政治家の伝統を踏襲して、核武装論議をし、自身には政治家の資質がないと山口県4区選出の議員は低姿勢を示しています。こういった率直さによって、自分はタカ派ではなく、誇大妄想で、独善的な狂信主義者、自己愛に溺れるバカ派だと率直に世間に訴えるという並大抵の決意ではできないことをしています。

 かつて「野次は議場の花」と呼ばれていたと懐かしむ声がしばしば聞かれます。なるほど三木武吉を始め野次将軍と称される名物議員がいたことは確かです。思わず笑ってしまう野次のエピソードもあります。けれども、議事録を調べると、野次や怒号がひどく、演説や答弁が聞き取れなくなることも少なくありません。過去をあまり美化すべきではないのです。

 岸信介元首相の孫に限らず、言論の府における政治家の野次のセンスは最低です。たんに汚いだけで、知性をまったく使っていないのです。そこに人種差別主義者の罵詈雑言以上の内容を期待できません。人種差別に寛大な体制であることに、小説家と言うよりも興行師の能力を発揮し続けている石原慎太郎東京都知事を含めて、感謝すべきでしょう。国会のみならず、田中康夫長野県知事に対する長野県議会も、テレビで見ると、ほぼ同様でしたから、議員バッジをつけようとする人は議会を声の大きさを競う場所と考えているようです。

 野次を飛ばすこと自体は否定すべきではありません。言われた人が思わずふき出してしまうようなユーモアのある野次なら、歓迎すべきです。けれども、今日の日本の政治家の口からそれを耳にすることはないのです。言葉を扱うセンスが悪い以上、与野党対決を強調する英国議会を真似て、いくら党首討論をやろうとも無駄でしょう。

 野次は掛け声の一種ですから、間、すなわちタイミングが最も大切です。同じ内容を言っても、笑いを誘える人とそうでない人がいるのはそのためです。間の良し悪しが野次のそれだと言って過言ではありません。

 ところで、野次と言えば、阪急ブレーブスがフランチャイズにしていた西宮球場が有名です。かつての野球場はどこでもユーモアのある野次を飛ばす名物がいたものですが、中でも、西宮球場の野次は抜群です。その理由は熱狂的なブレーブス・ファンの魚屋のおっさんです。絶妙の間で、ユーモア溢れる野次を飛ばしています。大阪の芸人さんが芸を盗みに、ガラガラの観客席にやってきたくらいです。

 南海ホークス時代の江本孟紀参議院議員は、マウンド上で、次のようなだみ声を聞いたと述懐しています。

「おい、江本!お前は安物の鉛筆みたいなやっちゃなあ。何、意味がわからんか?木(気)は強いけど、芯は弱いつうこっちゃ」。

 その瞬間、観客や敵のベンチだけでなく、チームメート、審判に至るまでどっと笑い出し、さらに、マウンド上の背番号16も「なるほど」と笑いがこみ上げてきたそうです。

 今回の小泉改造内閣を何と命名するかという質問に対して、著名人がさまざまな答えをしていますが、そのセンスは、政治家同様、人々に世を絶望させるのには十分です。「モー娘。内閣」(やくみつる)や「劇場型内閣」(金子勝慶応大学経済学部教授)ですから、目を覆いたくなるばかりです。政治家のことを笑えません。

 新聞の見出しにしても、彼らと同じ日本における社会的成功者の無能さを情報公開させてくれています。彼らがオヤジ・ギャグで社内の女性社員をどれだけ寒くしているか想像がつくことでしょう。各新聞社がこれをセクハラとして問題化しないのが不思議なくらいです。こういう無神経さが社内での地位を高めるには必須だと印象づけるだけで、良識ある人物に出世を諦めさせるという最高の保身術にほかなりません。

 森派のナンバー2が政権を握って以来、女性が政治をだめにしたと言っている既得権益を死守したい政治関係者が多数います。しかし、こういった政治をめぐる言葉に触れる限り、むしろ、政治に関する認識をもっと女性にさせる方がいいでしょう。男性よりも女性は人を見る目が厳しいからです。

 今の女性議員・閣僚のほとんどは、女性から見れば、「オバサン」にすぎません。オバサンは同性から好感を持たれない世代間ギャップを感じさせる女性です。女性にとって、女性はオバサンとそれ以外に分かれるということが永田町には理解できていません。閣僚に選らばれた小池百合子を賞賛する女性は少数です。オヤジから見た女性像と女性自身から見られたそれとはまったく異なっています。「一般的な傾向としては、男はとかく計画にこだわりたがるし、女はそのときの状況に流されやすい」。「どう考えてみても、単一の倫理だけで役割り分担してすまぬことは、はっきりしている」(森毅『「女の時代」の文化論』)。

 言葉の話に戻ると、ラテン語の知識も持った手塚治虫など一部の例外を除けば、坂村健東京大学教授も『ユビキタス・コンピュータ革命』で認めている通り、とにかく日本人の命名のセンスの悪さは救いがたいほどです。開発する技術は賞賛に値するものの、その製品名となると、女性向けを除けば、いささか唖然としてしまう出来です。

 また、独創性の欠落においては右に出るものがないミュージシャンも、この見解に対する見事な見本を後世のために提供してくれています。「ミスター・チルドレン」と名乗られても、英語としてどう理解すべきなのか悩みます。そのお礼に、爆笑を捧げるという礼儀正しさを日本人がしないのを見たら、ルース・ベネディクトは頭を抱えてしまうことでしょう。

 政治家やジャーナリスト、著名人がこの体たらくなのは引用が下手だからです。特に、固有名詞の引用がうまくありません。固有名詞を効果的に用いると、「広告業界的」ではなく「電通的」のように、コンパクトな文章でより多くイメージさせられます。言葉のセンスは引用のうまさにかかっています。

 日本語には冠詞がありません。ですから、プレーンの普通名詞で全体も部分も個物も概念も表わすことができます。一方、英語は冠詞がありますから、個物を指し示す際に、プレーンの普通名詞を使えません。それで固有名詞がしばしば用いられます。日本語人よりも、そのため、英語人は固有名詞の使用が概してうまいのです。

 固有名詞は文脈を持っていますから、その利用は引用になります。実は、引用が独創性です。独創性は無から何かを創造することではありません。独創性は練られた模倣の産物であって、中途半端な模倣は独創性を生み出しません。「イケイケドンドン」や「ガラガラポン」など考えられた表現とはとても言えないものを使うよりも、ユーモアあふれる引用の方が創造性を感じさせてくれます。間に加えて、「ダルマ」とあだ名された高橋是清蔵相に達磨大師のエピソードを引いた三木武吉がが示すように、的確な引用がファンタスティックな命名を可能にするのです。

 野次からも多くのことが見えます。それも考えることも独創だということを野次を口にする前に身につけておくべきでしょう。
〈了〉
参照文献
坂村健、『ユビキタス・コンピュータ革命』、角川oneテーマ21、2002年
森毅、『世紀末のながめ』、毎日新聞社、1994年

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