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表現の自由と近代(2016)

表現の自由と近代
Saven Satow
Jun. 08, 2016


第21条
1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
『日本国憲法』

 最近、国谷裕子や古館伊知郎といった報道番組を長年担ってきたアンカーがメディアで降板のいきさつを始め現場の事情について語っている。市民が最も興味のあるトピックは官邸からの圧力の有無だろう。安倍政権による言論の自由の抑圧には国内外から数々の証言がすでに公表されている。官邸が彼らを目障りとして放送局に圧力をかけたのではないかと市民が思っても無理はない。

 安倍政権が発足して以来、国境なき記者団が毎年公表する世界報道自由ランキングで日本は順位を下げ続けている。2016年、とうとう72位まで落ちている。言論の自由を含む表現の自由は近代の前提を成り立たせ、立憲主義もそれに基づいている。表現の自由の抑圧は近代並びに立憲主義への挑戦である。

 古代より政治の目的は徳の実践である。その認識を覆したのが宗教戦争である。自らの道徳の正しさを根拠に凄惨な殺し合いが欧州各地で繰り広げられる。トマス・ホッブズは、これを教訓に、政治の目的を平和の実現に変更する。平和でなければ、徳の実践もままならない。

 ホッブズは、その際、政治から宗教を切り離す。政治を公、信仰を私の領域として両者を分離する。いずれもお互いに干渉してはならない。

 ホッブズは神を否定したわけではない。宗教戦争の際、神の意思を言い立てて破壊や殺戮を正当化したが、ホッブズはそれを知ることなど不可能だと批判する。神は個々人に自己保存を認知する理性を与えている。それ以上の神の意思を主張する言説には警戒しなければならない。

 政教分離は近代の最も重要な原則である。信仰や道徳が私的領域に属し、公が干渉しないということは、価値観の選択を個人に委ねたことを意味する。それにより価値観は多様化する。近代は価値観の多様性を前提にしている。

 中世の民衆は情報をもっぱら教会から得ている。中世は人口が減少傾向で、農産物の生産性も低い。世俗権力は税収が上がらず、民衆への影響力が大きくない。民衆は移動や職業選択の自由が制限され、識字率も高くない。そんな民衆が情報を入手するとしたら、どんな村落にもある教会に依存するほかない。教会がどのようにしたら天国に行けるかを民衆に説く情報はこの価値観に基づいて伝えられる。一元的価値観は教会による情報の独占がもたらしている。

 価値観が多元的であることは社会に複数の人々がいることを指し示す。個々人がそれぞれの価値観に基づき効用を欲する。そのため、個人と社会の効用は必ずしも一致しない。個人が多様性だけを追求したのでは、社会がバラバラになってしまう。価値観の多様性に基づきながら、社会的共通基盤が必要になる。

 そこで複数が意見を交換する議論の場が生まれる。それは公と私の重なり合う公共的・公益的領域である。自分の意見を述べ、他の主張に耳を傾け、よりよい考えを模索する。こうした話し合いには情報が不可欠である。一元的価値観は教会による情報の独占が可能にしている。複数の情報源がなければ、価値観の多様性は確保できない。そのため、表現の自由が保障されていなければならない。その環境の下、市民は幅広い情報に接することが求められる。

 表現の自由が認められたのは植民地アメリカで行われたジョン・ピーター・ゼンガーの裁判からである。1734年のこの公判は植民地総督のスキャンダルをめぐる情報ソースの秘匿の是非が争われている。判決はニュース・ソースの秘匿を妥当と詩、これによる報道の自由が認められる。

 この表現の自由に支えられた議論がアメリカ独立戦争につながる。植民地は議会に代表を送れない。にもかかわらず、本国はその意向を無視して課税を決めている。本国は植民地の権利を保障していない。「代表なくして課税なし」をスローガンに植民地アメリカは英国からの独立に進んでいく。

 独立に際して、合衆国は成文憲法を公表する。これは権力が市民の権利を保障すると明記した立憲主義の具現である。1791年に確定した憲法修正第1条は表現の自由の保障である。表現の自由も憲法上の権利に位置づけられる。このように表現の自由は近代の前提のみならず、立憲主義を用意している。

 近代は、生命や財産の保護などの利益のために、社会が政府に統治を信任すると理論づけられている。しかし、情報の非対称性があるから、政府は社会ではなく、自分の利益を目的に権力を行使する危険性がある。立憲主義を謳いながら、政府が実際には市民の権利を抑圧していることもあり得る。それを監視する活動が必要だ。そのためにも表現の自由が欠かせない。

 多様性が前提だから、政府が一元的価値観を社会に強調することは近代や立憲主義に反している。また、報道機関が政府に屈したり、忖度したり、媚を売ったりすることも同様である。ある情報を一般に伝えるか否かは政府や報道機関の判断である。彼らは公表したり、しなかったりして世論に影響を与える。ただ、表現の自由は送り手のみならず、受け手の知る権利に応えたり、第三者を保護したりすることも含まれる。

 近代に挑戦したソ連は憲法に労働を義務と記し、表現の自由も制限している。メディアは国民の知る権利や第三者の保護を無視し、共産党の宣伝に尽くしている。伝えられなかったのは政府高官の汚職や市民の抗議デモなど政治的トピックだけではない。生活情報も報道しない。酒類からの税収のために過度の飲酒の弊害や国家の威信を傷つけるので自殺者数も伝えられない。その延長線上にチェルノブイリ原発事故の情報伝達の遅れがある。表現の自由の抑圧は国民生活にも支障をきたす。

 情報の非対称性は社会にとって政府のみならず、報道機関との間でも存在する。市民の知る権利や第三者の保護はメディアにも向けられる。第三者機関や法の執行者による抑止・裁定の他、複数のメディアがあることで、相互牽制が働き、その弊害が緩和される。メディア同士が相互に監視することも表現の自由の確保にも必要である。

 立憲主義は、通常、政府の姿勢・行動に対して用いられる。しかし、メディアが価値観の多様性への寄与を怠たると、政府自身の効用をアシストすることになる。メディアの活動も立憲主義に問われる。政府が反立憲主義的振る舞いを謳歌したら、それを増長させたメディアも共犯だ。

 現代の国際社会では、価値観の多様性によって進化した民主主義、すなわちリベラルデモクラシーが標準的プラットフォームである。主権者は国民である。それは主権者が複数ということを意味する。複数の意見が競争して政治が行われる。競争的選挙を通じて議員や行政庁を選出する。主権者が政治参加するためには、さらに多様な情報源が必要である。

 競争的民主主義は少数意見の寛容さを前提にしており、それには表現の自由が必須である。民主主義は多数決を意思決定の原理に置いている。しかし、これは多数派の暴政の危険性がある。多数派が正しいとは限らない。感情に流されていたり、見落としがあったり、同調圧力に屈したりすることもあろう。異なる意見への寛容さはこの横暴の危うさを抑制できる。

 また、偏っていたり、極端だったりする意見も放置や門前払いするべきではない。そうした主張への反証がより説得力があり、広く共有される意見を形成するからだ。言わば、暴論は姿見や反面教師としての機能がある。そのために、放置せず、早めに論駁しておくことが必要だ。

 価値観の選択が個人に委ねられているので、嗜好や関心、思想信条などが類似した人間関係を選ぶことができる。そうした集団では同質的意見が確認・増長されたり、異質な主張を排除・攻撃したりする。インターネットは現実の状況を増幅する。サイバー・カスケードも新しい現象ではなく、近代の前提の産物である。多種多様なコミュニケーションはこのような偏見や極論を修正する。

 価値観の多様性に基づく社会的共通性が自由民主主義体制を持続させる。過激な暴力主義への傾斜は議論への参加が閉ざされた場合にしばしば生じる。自分たちの意見が無視されれば、その体制と支持者への不信感が増幅する。意見の相違への不寛容は相互不信や暴力を招く。言論統制が厳しい独裁体制では反政府勢力が地下にもぐったり、直接行動に訴えたりする。

 価値観の多様性を共通理解とすることで社会には相互信頼の絆が共有される。逆に、一元的価値観によって一つにしようとすると、社会は不信と対立によって分裂してしまう。

 表現の自由は近代や立憲主義、多元的民主主義の体系に位置づけられている。近代は価値観の多様性を前提にする。それを可能にするのが表現の自由である。立憲主義やリベラルデモクラシーもこれに基づいている。政府が表現の自由を抑圧したり、メディアが幅広い情報流通に寄与しなかったりすることは、それらの意義の否定だ。安倍政権発足以来日本で続いている状況はこれである。
〈了〉
参照文献
中屋健一編、『世界の歴史』11、中公文庫、1979年

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