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キュロス・シリンダー、あるいは史上初の人権宣言(2014)

キュロス・シリンダー、あるいは史上初の人権宣言
Saven Satow
Mar. 08, 2014

「1948年に国連が採択した『世界人権宣言』は、すべての国々にとって人権の共通な基準となりました。この宣言によって、各国政府は、人種や宗教に関係なく、富める者も貧しい者も、強い者も弱い者も、男も女も、すべて平等に扱われるようにする義務を受け入れるよう期待されています」。
『国際連合へようこそ』

 国連本部に、ある古代遺物のレプリカが展示されている。それは「キュロス・ㇱリンダー(Cyrus Cylinder)」と呼ばれる円筒印章で、オリジナルは大英博物館に所蔵されている。

 国連は、『国際連合へようこそ』の「みんなの人権」において、この遺物について次のように解説している。

 キュロスの勅令。ペルシア帝国を建設したキュロス大王は、紀元前539年のバビロン陥落後、バビロニア人の権利と福祉を保証する勅令を公布しました。多くの人々はこれを、史上初の人権宣言だと考えています。1971 年にイランから寄贈されたこの銘板は、信託統治理事会と安全保障理事会の議場を結ぶ2 階部分に展示されています。

 なお、キュロスは英語では”Cyrus(サイラス)”と言うので、「サイラス・シリンダー」と呼ぶこともある。

 大王と称されるキュロス2世は、紀元前600年頃、メディア王国に従属する小国アンシャンの王子として、父カンビュセス1世と母マンダネの間に生まれている。前559年、第7代の王に就任する。前550年、メディアを滅ぼし、アケメネス朝ペルシアとして独立する。その後、キュロスは古代エジプトを除く全オリエントを統一して大帝国を建設する。

 キュロスが空前の大帝国を支配できた理由は、強力な軍隊を持っていたからだけではない。彼が寛容という統治方針の大転換を行ったからである。それを端的に表わすのがユダヤ人をバビロン捕囚から解放したことだろう。バビロニアのネブカドネザル2世は、前597年、ユダ王国を滅ぼす。この大国は、以降、随時ユダヤ人をバビロンに強制移住させる。当時、征服民が反乱防止や技術者の確保、労働力の補充を目的に被征服民を強制移住させることは少なくない。

 キュロスは、前539年、このバビロニアを滅亡させる。その際、ユダヤ人にシオンへの帰還を許す。かの選民は主が使わした救世主としてこの異教徒の王を聖書の中で讃えている。

 『旧約聖書』には神が異民族をユダヤの民に差し向ける記述がある。預言者イザヤは、『イザヤ書』10章5~6節において、次のようなヤハウェの言葉を伝えている。

災いだ、わたしの怒りの鞭となるアッシリアは。彼はわたしの手にある憤りの杖だ。
神を無視する国に向かって
  わたしはそれを遣わし
わたしの激怒をかった民に対して、それに命じる。
「戦利品を取り、略奪品を取れ
野の土のように彼を踏みにじれ」と。

 イザヤがイスラエルを滅ぼしたアッシリア軍を神の兵隊と人々に説いた時、ユダヤの民族神にすぎなかったヤハウェは、他の民族の軍隊をも動かす世界最高にして唯一の神になる。キュロスが救世主とすることにも同様の発想が認められる。かくしてユダヤ教は世界宗教への道を歩み出していく。

 もちろん、解放後もバビロンに残留したユダヤ人も少なくない。重要なのはキュロスが居住や移動の地涌の権利を認めたと言うことである。彼の決定は当時の支配の常識を覆すものだ。

 アケメネス朝ペルシアは「寛容の帝国」と呼ばれている。中央集権体制であったが、「強圧の帝国」アッシリアのような強権的な支配をしない。被征服民に寛容に接して統治している。戦争に勝ったからと言って、敗者の生命を奪ったり、財産を取り上げたりすることはしない。ペルシアは、徴税と軍役さえ果たせば、被征服民の伝統や宗教、言語を尊重する。「私は知っています。なにゆえ私が無力であるかということを」(『アヴェスタ』)。

 キュロス・シリンダーは大王がバビロニア人に統治の理念を布告した勅令である。この円筒印章には諸民族を解放、圧政や迫害をなくし、寛容な支配を展開したと記されている。キュロスはユダヤ人を解放しただけでなく、敗れたバビロニア人にも寛容の姿勢で臨んでいる。それは歴史的な大転換だ。キュロス・シリンダーが人類最初の人権宣言と呼ばれるゆえんである。

 キュロス大王は、前529年、トミュリス女王率いるマッサゲタイ人との戦いで戦死したと伝えられている。大王の墓は当時の首都パサルガダエに築かれ、現在でも残り、ユネスコの世界遺産に登録されている。

 当時と断りを入れた理由は、この王朝は宮廷を頻繁に移動させているからである。キュロスの死後、首都はスーサに移る。以降も、エクスバタナやペルセポリスへと遷都が繰り返されている。遊牧民が起源だからではないかとも言われているが、理由は定かではない。

 ペルセポリスのアパダナ(謁見殿)に貢納列の彫刻が施されている。そこにはさまざまな民族が特産品を携えて献上しにやってきた様子が描かれている。この寛容の帝国は最初のコモンウェルスだとも言える。帝国の傘下に入ることは異民族にとって決して悪い話ではない。

 アケメネス朝は、中央集権体制強化のため、通信網を整備し、「王の道」と呼ばれるサルディスからスーサまでの道路を敷設、駅伝制を設けている。徒歩で111日かかっていた行程がこれにより早馬で1週間に短縮される。交通は物資の輸送のみならず、情報の流通も兼ねている。

 また、各地に知事としてサトラップを配置したが、彼らの行政を監督するため、巡察官の「王の目」と隠密の「王の耳」を派遣している。アケメネス朝は地方政治での民衆弾圧や不正、腐敗を決して許さない。

 さらに、アケメネス朝は公用語をペルシア語に限定していない。帝国内では古くからアラム人商人が活動している。そのため、商業ではアラム語とアラム文字がデファクトスタンダードとされている。ペルシアの王はそれを容認する。アラム語を共通語として帝国内の諸民族が意思疎通を行っている。アケメネス朝の支配下に入れば、この巨大な市場に参加できる。

 この統治の姿勢は以後のオリエントの帝国支配にも引き継がれる。最後の二大帝国、すなわちムガール朝やオスマン朝は宗教を理由にした迫害を行っていない。オリエントにはイスラームを始めユダヤ教徒やキリスト教徒、ヒンドゥー教徒、ジャイナ教徒、シーク教徒、ゾロアスター教徒、仏教徒などが存在している。歴史的に、オリエントの帝国内では異なった宗教が共存するのが通常である。寛容という統治理念はオリエントの伝統である。

 キュロス・シリンダーは戦争と占領の過程で出されている。この期間が最も権利と福祉の侵害が起きやすい。これが信託統治理事会と安全保障理事会の議場を結ぶ場所に展示されている理由は明白だろう。残念ながら、これらの侵害が克服されたとは言い難く、依然として現代的課題である。

 この展示は国際社会が現代を歴史と関連させて捉えることを示す。人権に関して非連続ではなく、連続性を強調する。かつての認識を理由に権利や福祉の侵害が免責されることはない。キュロス大王がすでに実践していたからだ。紀元前539年の勅令を前に、たかだか19世紀や20世紀の侵害を時代の限界にすることなどできない。戦時に働く強制力・動員力が明示的であるか否かを問うのは詭弁でしかない。浅はかな自己弁護にすぎないだろう。

 キュロス・シリンダーによって国際社会の共通の意思は明確である。今日の国際社会はその精神を引き継ぎ、現代的課題として取り組む。言動や行動は世界史と国際社会への貢献でなければならない。従軍慰安婦問題をめぐって、日本の政治家や経営者、作家、メディアなどが他の国でもしていたとか戦争だから仕方がないなどと発言することは国際社会に通じない。

 キュロスはわれわれを見ている。そして聞いている。
〈了〉
参照文献
本村凌二他、『古代地中海世界の歴史』、ちくま学芸文庫、2012年
国際連合、『国際連合へようこそ』
http://www.unic.or.jp/files/come_un.pdf


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