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塚本邦雄の前衛短歌(2019)

塚本邦雄の前衛短歌
Saven Satow
Aug. 31, 2019

「人間の愚かさ。『人間の』は余計だ。愚かなのは、人間以外にない」。
塚本邦雄

 呉海軍工廠に徴用された塚本邦雄は、1945年8月6日、突如空に広がったキノコ雲を仰ぎ見る。彼はこの光景の記憶が消えることがなかったと告げている。そんな塚本の短歌には、ヒロシマ以後、短歌を詠むことの問いが見受けられる。

 斎藤茂吉を始め少なからずの歌人は戦争協力をしている。しかし、これは近代短歌の前提に反する。

 古代より政治の目的はよく生きること、すなわち徳の実践である。その認識を覆したのが16世紀の宗教戦争だ。自らの道徳の正しさを根拠に凄惨な殺し合いが欧州各地で繰り広げられる。17世紀英国のトマス・ホッブズは、これを教訓に、政治の目的を平和の実現に変更する。平和でなければ、徳の実践もままならない。

 ホッブズは、その際、政治から宗教を切り離す。政治を公、信仰を私の領域として両者を分離する。いずれもお互いに干渉してはならない。それは公私の区別へとつながる。この政教分離は近代の最も重要な原則である。

 信仰や道徳が私的領域に属し、公が干渉しないということは、価値観の選択を個人に委ねたことを意味する。それにより価値観は多様化する。

 近代短歌はこの公私分離に基づいている。定型詩の一種である短歌は抒情詩に属する。視点を世界の外部に置く叙事詩に対して、抒情詩はそれが内部にある。叙事詩の声が鳥瞰的・客観的とすれば、抒情詩は局所的・主観的である。しかし、前近代は共同体主義で、政治と道徳が一体だ。価値観が一元的であるので、その私は公の認める規範に従ったものでなければならない。和歌はこうした前提に則っている。だが、近代短歌は違う。近代は個人が集まって社会を形成する個人主義の時代である。だからこそ、価値観が多様化する。そこでは芸術表現において公的規範よりも私的嗜好が優先される。短歌も同様である。

 近代歌人の戦争協力はこの公私分離に反している。それは平和の実現のための原理だからである。

 社会は個人が集まって形成されるが、複数の人の間には利害対立などトラブルが生じざるを得ない。ジョン・ロックは、社会が効果的に働く目的により政府、すなわち国家を必要とすると説く。政府は社会のためにある。しかし、国家が戦争を望むなら、公私一体が望ましい。政治が提示する価値観に社会が一元的に従属するべくあれこれ扇動していく。戦争は近代政治の目的に反している以上、政府がそれに至ったとしたら、社会のために働いていなかったことを告げるものだ。けれども、国家は自分の非を認めない。それを正当化すべく、公私一致を画策、人々には従順な協力を強いる。

 戦争は内面の自由を制限する。それに対する協力は表現活動が自ら死に赴くものだ。公私分離を前提にする近代の表現者は戦争を認めてはならない。むろん、私的好みだからと言って、表現者がジンゴイズムを扇り、公的判断を戦争に向かわせることなど論外だ。表現者が政治批判を行うのは、公が私に一体化を迫っていることや私的領域に公的権力・構造が干渉していることがあるからだ。戦争はその最たる例であるのに、斎藤茂吉ら歌人は協力している。それは近代短歌が自らの存立基盤を放棄した姿だ。

 塚本邦雄はその問題意識により近代短歌を解体する。近代短歌は、正岡子規らの理論に立脚して視覚において和歌の伝統を切断する。風流に代わり写実を重視、近代的語彙を取り入れ、公的規範より私的嗜好を優先させる。それに対し、塚本はそうした写実や語彙を拒否する。この企ては近代短歌が和歌から聴覚の伝統をも切断することになる。

 塚本は短歌をもはや五・七・五・七・七の五句体ではなく、三一のモーラによる公正と捉える。五や七で区切る必要はないので、塚本は句またがりや語われを多用する。近代短歌の写実に縛られることなく、しかも扱えなかった語彙も詠みこめる。

 塚本の最初の歌集『水葬物語』(1951)よりその前衛短歌を引用しよう。

 革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化するピアノ

 聖母像ばかりならべてある美術館の出口につづく火薬庫

廢港は霧ひたひたと流れよるこよひ幾たり目かのオフェリア

みづうみに水ありし日の戀唄をまことしやかに弾くギタリスト

受胎せむ希ひとおそれ、新緑の夜夜妻の掌に針のひかりを

君と浴みし森の夕日がやはらかく捕蟲網につつまれて忘られ

卓上に舊約、妻のくちびるはとほい鹹湖の暁の睡りを

しかもなほ雨、ひとらみな十字架をうつしづかなる釘音きけり

虹見うしなふ道、泉涸るる道、みな海邊の墓地に終れる

赤い旗のひるがへる野に根をおろし下から上へ咲くジギタリス

海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ。航空母艦も火夫も

 これらの短歌を小倉百人一首の調子で詠み上げることは不可能である。モーラに解体された短歌はそうした伝統的な流れで詠むことを拒絶する。それは短歌における無調と言える。

 この短歌は戦争による世界への信頼の喪失の現われである。公的制度より私的好みを優先させて写実的に描くと、日常の些細な光景や出来事が題材となりやすい。しかも、習慣を意識せずに反復することが日常性である。近代短歌はそうした世界を詠んでいる。その五と七の繰り返しは百人一首の調子で意識せずとも朗誦できる。けれども、戦争はそうした日常性を奪う。モーラに解体されて再構成された短歌は耳障りで、暴力的である。それこそが戦争によって破壊された世界の姿だ。

 こうした現代短歌は近代短歌の解体・再構成である。それは情に訴えない。近代短歌は知情意の情による共感を創作・鑑賞の共通基盤としている。情は、知や意と違い、所有による選別がない。感情がないなら、「人でなし」である。しかし、その情緒主義が国家権力にからめとられ、歌人が戦争協力した一因であろう。共感として私的好みが公的価値観とと癒着する。

 この知性主義は高い認知欲求を読者に求める。塚本の現代短歌は門外漢にはわけがわからない。そうした直観的受容を拒絶するからこそ塚本は前衛と呼ばれる。この解体をもたらした歴史的文脈を理解していなければ、鑑賞などできない。それは読者にあの時代・社会の想起を求める。塚本の単価はコンテクストから切り離して解釈することを許さない。

 しかし、塚本の前衛短歌は鑑賞に集中力を強いる。三一のモーラに解体しているのだから、五や七の慣習的区切りに暗黙の裡に従って捉えることができない。一つ一つのモーラを確かめつつ鑑賞せざるを得ない。しかも、その歴史的文脈を認識しつつ、知性による批判的読解の要求に応えねばならない。これは読者にとってかなりの負担だ。

 けれども、次のような定型詩をめぐる新聞記事が掲載される今において、塚本邦雄の前衛短歌は依然として取り上げられるべき意義がある。

仲畑流万能川柳
27日の記事でご説明

2019-08-28

 27日の仲畑流万能川柳の記事は削除しました。

 毎日新聞社として、掲載に当たり「嫌韓」をあおる意図はありませんでしたが、「嫌韓をあおる」と受け止められた方がいらっしゃったという事実については、真摯に受け止めております。
〈了〉
参照文献
菱川善夫、『塚本邦雄の生誕―水葬物語全講義』、沖積舎、2006年
塚本邦雄、『塚本邦雄全集』1、 ゆまに書房、1998年
「仲畑流万能川柳 27日の記事でご説明」、『毎日新聞』、2019年8月28日
https://mainichi.jp/articles/20190828/hrc/00m/070/001000d?fbclid=IwAR0eMs3W_vTWQ6NEby3u2Qpn-PcWsW0fVf6uRJzDIxVe3sOc3UO0oJQmYtQ


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