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文芸批評家石橋湛山(3)(2009)

3 石橋湛山の修業時代
 湛山は、『湛山回想』の中で、「私を文筆界に導いた恩人」として島村抱月の名を挙げている。抱月は早大の講師であったが、湛山は王堂に師事していたこともあって、在学中面識はあまりない。けれども、抱月は面倒見がよく、卒業生が困っていると、よく手を差し伸べている。レフ・トルストイの『復活』を上演する際にも、無名の中山晋平に挿入歌の制作を依頼し、それに応えて完成したのが「カチューシャの唄」である。湛山も、卒業後、抱月に何かと目をかけてもらっている。

 島村抱月(一八七一─一九一八)は、一八九四年(明治二七年)、東京専門学校(現早稲田大学)卒業後、『早稲田文学』の記者を経て、一八九八年(明治三一年)、読売新聞社会部主任に就任する。その後、早稲田大学文学部講師となり、一九〇二 年(明治三五年)から〇五年まで早稲田の海外留学生として英独に留学する。四年後に帰国すると、早大文学部教授に就任し、『早稲田文学』を主宰して自然主義文学運動の後押しをしている。当時の抱月は、八〇年代の浅田彰のように、ヨーロッパの最新の文学・哲学を手に颯爽と現われ、既存の批評家たちを古びたものにしている。この旬の批評家による「囚はれたる文芸」や「文芸上の自然主義」、「自然主義の価値」などを所収した『近代文芸之研究』(一九〇九)は言論界で熱く議論されている。

 また、抱月は文学理論だけでなく、演劇の方面でも活躍している。彼は、一九〇六年(明治三九年)、坪内逍遥と共に、会頭に大隈重信を迎え、文芸協会を創立している。当初は役者の技量が伴わないこともあって苦戦するが、養成所を設立して人材が育ち始めると、評判を博するようになる。しかし、一九一三年(大正二年)、抱月と看板女優の松井須磨子とのいわゆる不倫スキャンダルが起こり、二人は文芸協会を脱退する。

 同年七月、抱月は須磨子と芸術座を結成するが、実は、湛山もそれに参画している。実際、湛山は、抱月との関係から演劇にも詳しく、『劇壇の変化』(一九一二)において明治期の演劇史をダイナミックに要約し、芸術座登場以前の劇壇を「発酵の時代」と呼んでいる。当時はテレビもラジオもなく、映画はまだ海のものとも山のものともわからない代物で、演劇こそ民衆にとって最大の芸術的娯楽である。歌舞伎と違って、女優も登場する新劇は近代社会における芸術性と商業性の止揚が図られ、非常な活気を呈している。

 翌年、レフ・トルストイの小説『復活』を抱月が翻訳・脚色し、須磨子がカチューシャを主演した舞台が評判となり、各地で上演され、爆発的な人気を獲得する。さらに、一九一五年(大正四年)、彼女が歌う劇中歌「カチューシャの唄」(作詞島村抱月=相馬御風・作曲中山晋平)が『復活唱歌』のタイトルでオリエント・レコードからレコード化され、事実上、近代日本初の流行歌となっている。なお、当時は電気録音ではなく、まだ機械録音である。

 また、これに便乗した業者が馬蹄形の髪留めを「カチューシャ」として売り出し、この名称は現在でも使われているだけでなく、それが似合う三つ編みのヘアー・スタイルも「カチューシャ」と呼ばれている。この時の須磨子は、その人気と実力の点で、八〇年代のマドンナといったところで、今日の日本の女優や歌手と比較にならない。湛山がいたのはこうしたセレブな雰囲気である。

 一般的に論じられる湛山をモードの関係で考察はほとんど見かけない。しかし、湛山は紺タビのエピソードが示しているように、流行には割りに敏感で、なおかつ時代の最先端にいることも少なくない。中学時代、身体を鍛えるために剣道を始めたが、早大入学後、テニスを知って、それにはまっている。「汗くさい面をかぶって、薄暗い屋内でする剣道がいやになり、それっきり、ついにはやめてしまった。遊戯はやはり戸外でするものの方が床である」(『湛山回想』)。また、一九三五年(昭和一〇年)、湛山は早大商学部に在籍していた次男の石橋和彦にスキーに誘われ、これにも魅了されている。湛山は若大将シリーズの先を行っていたわけだ。さらに、電化製品の購入も早い。もし今生きていれば、おそらくバラク・オバマばりにIT技術を駆使しているに違いない。

 もっと驚嘆させられるエピソードがある。一九二二年(大正一一年)、鎌倉に自宅を持った際、湛山はトイレを水洗の腰掛式にしている。しかし、その頃、鎌倉は水洗トイレに対応する下水道が完備していなかったため、『便所と洗面所』(一九五二)によると、湛山は浄化設備をつけ、しかもそれをメタン・ガスが発生する装置にし、台所燃料を補うようにしている。このシステムを三〇年間以上使い続け、一度の故障もなかったと言う。

 抱月は、芸術と経営の「二元の道」を提唱するなどその後も旺盛な活動を続けたが、一九一八年(大正七年)一一月五日、スペイン風邪により急死する。湛山は、その一ヶ月後、『早稲田文学』に「四恩人の一人」と題して「私は生まれて以来、島村先生の死に会ったほど力を落としたことはない」と追悼文を寄せている。一九一九年(大正八年)一月五日、松井須磨子は彼の後を追って芸術座の道具部屋で縊死し、芸術座も解散する。「もし須磨子が現れるなら、私といえどもいつ島村氏にならぬとは限らぬ」(『湛山回想』)。これは松井須磨子の伝説的な魅力の証言の一つである。

 湛山は、一九〇八年(明治四一年)、抱月の紹介で小杉天外が企画した『無名通信』の記者に採用される。ところが、諸般の事情により発刊が延期されたため、抱月は湛山を『東京毎日新聞』に推薦する。『東京毎日新聞』は日本初の新聞とされる『横浜毎日新聞』を前身とし、一九〇六年(明治三九年)七月に、『毎日新聞』から改称している。その際、衆議院議員で社長の島田三郎は大隈重信に経営を譲り、三年後、大隈の報知新聞社に買収される。大隈は、一般向けの『報知新聞』に比して、『東京毎日新聞』をオピニオン紙にする方針を立てる。そのため、大隈は早稲田で教授を務めていた田中穂積(一八七六─一九四四)を副社長兼朱筆に抜擢している。彼は、一九三一年(昭和六年)、第四代早稲田大学総長に選任される。湛山は入社当初は三面(社会面)に配属されたが、後に二面(政治文芸面)に異動となり、文芸批評を執筆している。記者生活を始めた頃、『湛山回想』によると、万年筆はまだなかったので、ペンとインクで机の上に置いた原稿用紙に記事を記すものだと思っていたら、ベテランは硯で墨を擦り、手に巻紙を持って毛筆で認めていたことに驚いたと述懐している。加えて、一九〇九年(明治四二年)四月、抱月から主催する『早稲田文学』の「教学評論」欄を隔月で任せられている。

 ところが、その年の八月、新聞社の内紛に巻き込まれ、湛山は朱筆の田中穂積と共に退職せざるを得なくなる。事の発端は、その春頃から、大隈率いる進歩党(後の政友会)の内部で犬養毅と他の幹部との間で対立が生じ、それが社内にも反映されて、記事が両派の綱引きになってしまう。犬養は「犬は養えるが、人は養えない」と揶揄された人物で、政策通であっても、人心掌握に難があり、その後の政治家生活でも何度もそれが露呈する。新聞は経営不振に陥り、朱筆が退職し、湛山も行動を共にする。その後、湛山は『無名通信』や『読売新聞』、『文章世界』、『早稲田文学』などに批評を寄稿して食いつないでいる。

 同年一二月、湛山は、関与三郎と大杉潤作の付き添いで、麻布の砲兵第三連隊に入営する。学生の間は徴兵が延期されていたが、フリーとなったためそうもいかない。そこで、湛山は当時あった一年志願制度を利用する。これは、中学以上の卒業生で、一年間の経費一〇八円を納付すると、特別教育を受けられて、伍長ないし軍曹で除隊できるという制度である。通常の徴兵兵より入営期間が短く、待遇もよいので、多くの若者が利用している。軍曹に昇進した者は、翌年見習い士官として三ヶ月の演習召集を受け、終末試験で合格すると、予備少尉に任ぜられる。

 とは言うものの、軍隊生活は厳しいと噂で聞かされていたので、びくびくしていたのだが、配属された第二中隊第三班で湛山は厚遇を受ける。班長の伍長から丁寧に挨拶され、新兵係の鈴木少尉に中隊将校室に呼ばれて餅菓子をご馳走になっている。早稲田出の元新聞記者という経歴から社会主義者と勘違いされたからである。社会主義はその頃の体制にとって脅威として感じられ、入隊した際にも、社会主義者たちは軍隊にとって頭の痛くなるトラブルをしばしば巻き起こしている。共産主義はまだ一般的な用語ではなく、急進派はほとんど社会主義者に括られている。入営中の一九一〇年(明治四三年)五月、明治天皇暗殺計画の疑いで社会主義者が大量に検挙・逮捕され、翌年の一月、幸徳秋水他一一名が処刑されるという大逆事件が起きている。湛山が社会主義者と疑われていたのはこの時期で、軍は好遇をしながら、彼を四六時中監視していたのが実態である。もっとも、この疑念は半年もしないうちに解け、一般の新兵と同じ待遇になる。一九一一年(明治四四年)一一月、湛山は軍曹で除隊、翌年九月に見習い士官として三ヶ月召集を受け、終末試験を合格、少尉の任官辞令を交付される。

 入営直後六〇kgあった湛山の体重は四八㎏に落ち、それは除隊するまで回復しない。おまけに、食事も口に合わず、高所恐怖症にも苦しめられている。しかし、この一年三ヶ月の生活を通して、湛山は軍隊を見直している。軍隊は時代離れした精神主義が蔓延してなどおらず、合理性に基づいた組織であり、そこでの思考・行動には論理的な意味・機能がある。中でも、衛生・健康に関する基準は一般社会よりもはるかに高い。軍隊は、『湛山回想』によると、「一種の社会の縮図」であり、「一種の教育機関」である。しかし、逆に言えば、軍隊の意義はその徹底した合理主義にあって、もしそれが失われれば、極めて危険な組織と化す。戦時中も含めて後に、湛山は合理主義から軍部を批判することになる。軍隊を賞讃しながらも、その組織の目的には、入営以前にも増して嫌悪感が増している。軍隊経験は彼に反戦への意思を強固なものにする。

 湛山は、除隊直後、田中穂積から東洋経済新報社の記者の職を紹介される。同社は経済を専門としていたが、明治四〇年代、自然主義文学の流行や個人主義・自由主義の勃興という時代風潮に応えるため、社会批評を中心とする月刊誌『東洋持論』を刊行したものの、編集記者が足りない状況である。主催者の三浦銕太郎(一八七四─一九七二)は田中穂積と早稲田の同窓生である。湛山はその面接を一二月に受けて採用になる。翌年一月から記者として活動し始め、文芸批評を『東洋持論』に次々と発表する。しかし、一九一二年(明治四五年)一〇月、『東洋持論』が休刊となり、湛山は『東洋経済新報』の記者へと異動する。この人事により、湛山は文芸批評に代わって、政治・経済・社会を対象とする記事を書くことが中心となる。

 湛山が異動してから『新報』の文体に大きな変化が起きている。文芸の世界では、すでに言文一致体が使われていたけれども、それ以外の領域では依然として「漢文くずしの文章体」が一般的である。文芸誌の『東洋持論』の文体は口語であったが、『新報』は文語である。と言うよりも、当時の新聞は、読者が離れるのではないかと危惧して、「漢文くずしの文章体」を使い続けている。しかし『新報』一九一三年(大正二年)七月五日号は巻頭に口語体への変更に関するに一ページ大の社告を掲載する。この筆者は湛山である。ただし、「金融市場」と「社説」は据え置かれ、紙面全体が改まったのは一九一五年(大正四年)一月からである。『新報』は政治・経済の雑誌媒体では口語体の変更したのは早い方で、急進的でさえある。日本近代文学における最初の問題は言文一致である。湛山が文芸から政治・経済の書き手に転身すると共に、それがその外にも広がっていったのは象徴的であると言わざるを得ない。

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