見出し画像

ご飯論法とポール・ド・マン(2018)

ご飯論法とポール・ド・マン
Saven Satow
Dec. 10, 2018

「ポールは無神論者でした。しかも代々の無神論者でした。私たちは死や死後のことについて話したことはありません。彼にとって、死はむごたらしい事実でした」。
柄谷行人『ポール・ド・マンの死』

 2018年12月3日、「2018ユーキャン新語・流行語大賞」が発表され、トップ10に「ご飯論法」が選ばれます。これは、裁量労働制や高度プロフェッショナル制度の危険性を国会で野党議員が追及した際に、加藤勝信厚生労働大臣が用いた修辞的と字義通りの意味のすり替えなど論点をずらす話法に由来します。

 その不誠実な答弁に憤った上西充子法政大学教授は、2018年5月5日17時58分、次のようなツイートを投稿します。

Q「朝ごはんは食べなかったんですか?」
A「ご飯は食べませんでした(パンは食べましたが、それは黙っておきます)」
Q「何も食べなかったんですね?」
A「何も、と聞かれましても、どこまでを食事の範囲に入れるかは、必ずしも明確ではありませんので・・」

そんなやりとり。加藤大臣は。

 この比喩を目にしたブロガーの紙屋高雪氏がそれを「ご飯論法」と命名します。その後、ネットを中心にこの名称が拡散、今回の受賞へと至ります。

 国会の質疑応答は民主主義に立脚しています。民主主義は、公開された公共空間において、先入観を持たずに、誰もが納得できる論理に基づいて主張・議論をする意思決定過程をたどります。ですから、ご飯論法は民主主義に反しています。

 「ご飯論法」は決して難解ではありません。従来の官僚答弁と違い、論法の仕組みは単純で、レトリックとリテラルの意味のすり替えです。

 下位概念によって上位概念を表わす比喩を換喩と言います。「ご飯を食べましたか?」は下位概念の「ご飯」が上位概念の食事を示していますから、この表現に当たります。しかし、ご飯論法はそれをレトリックではなく、リテラルと扱います。

 コミュニケーションにおいてレトリックが機能するためには、話し手と聞き手がコードやコンテクストを共有している必要があります。ご飯が食事や食べ物を表わす換喩であることは慣用的ですから、その理解は日本語人の間で共有されています。「ご飯論法」のレトリックをリテラルと扱うことは意図的で、コメディでないなら、それはコミュニケーションを拒絶するための手段です。

 言うまでもなく、「ご飯論法」自体も比喩です。ご飯に言及していない会話であっても、レトリックをリテラルとして扱ってコミュニケーションを拒絶するなら、それが当てはまります。「ご飯論法」をリテラルに捉えて反論すること自体が「ご飯論法」です。コミュニケーションを拒むために、当然の前提になっているコンテクストやコードを一方的に変更・無視するのがこの論法です。ご飯の例とは逆に、ですから、リテラルをレトリックにすり替えることも含まれます。

 昨日、ちょうど M1グランプリがありましたけれども、その言葉のすり替えでコントやってるみたいなもんなんですね、これ。政権全体がコントやってるみたいな。だから、もともと昔から官僚っていうのは、あいまいな答弁とか、ちょっと小難しい答弁をするっていうのはやってたんですけれども、そういう「わかりにくい答弁」じゃなくて、言葉をすり替えて「嘘を言う」、「フェイクを言う」、そういうやり方だと思うんです。
 だから国会の答弁というのは、民主政治の基礎になっているので、それが、フェイクが積み重ねられていっちゃうとですね、政治全体がフェイクになっちゃう、そういうふうに思います。なので、そういうところの危機感が、「ご飯論法」と聞いたとき、最初笑われる方もいらっしゃると思うんですけども、「実はそれは笑い事じゃないんだな。恐ろしいことなんだな」という、そういう危機感が今回、こういう形で選ばれたり、受賞につながったのかなというふうに思っています。
(紙屋高雪『2018ユーキャン新語・流行語大賞スピーチ』)

 ところで、レトリックとリテラルの意味の違いに着目して文学読解を試みた批評家がポール・ド・マン(Paul de Man)です。1919年にベルギーで生まれた彼は、戦後に渡米、ジョンズ・ホプキンズやイエールなどで研究生活を送り、1983年に亡くなっています。ジャック・デリダの提唱した脱構築を文学批評に援用、それに賛同するイエール大学の研究者たちとイエール学派を形成します。イエール学派での圧倒的な影響力のために、「ゴッドファーザー」とも呼ばれています。また、柄谷行人や水村美苗が薫陶を受けています。

 ちなみに、ポールの叔父へンドリック・ド・マン(Hendrik de Man)は戦間期を代表する非マルクス主義系社会主義者の一人です。このベルギー労働党(POB)の党首は「計画主義(Planism)を提唱した理論家でもあり、主著は『社会主義の心理学(Zur Psychologie des Sozialismu)』(1927)です。ここで彼は社会主義への信仰を告白、経済決定論を否定して、階級の違いを超えた連帯を実現するために、指導者に必要な資質を説いています。

 現代の理論指向的な文学批評はロラン・バルトが提案した「作者の死(Death of the Author)」を前提にしています。これは近代の文学批評が作者の意図を明らかにすることとされていたのに対する批判です。そのため、現代の批評家は作者が作り出したというニュアンスのある「作品(Work)」ではなく、扱う対象を「テクスト(Text)」と呼びます。作者の意図にとらわれず、広く認められた理論を一般的規範として個別的に適用する解釈的アプローチによってテクストを読み取るのが現代の文学批評です。

 「脱構築(Deconstruction)」は、思想家のテクストには、従来広く認められてきた体系に反するような別の説が潜んでいることを顕在化する読解です。脱構築はずいぶんと思わせぶりに難解に語られましたが、市井の言い方をすれば、古い建築物を刷新した上で用途変更をして再利用するリノベーションです。

 この「作者の死」は20世紀後半以降の主眼移動の潮流に位置づけられます。教育学の「教師中心から児童中心へ」や医療の「医師中心から患者中心へ」などと同様、文学批評も作者中心から読者中心へ批判的に転換したと言えます。

 こうした批評の主眼の変換は、「ジョハリの窓(Johari Window)」を用いるなら、「閉ざされた窓(Hidden Self)」から「盲点の窓(Blind Self)」への移動です。「ジョハリの窓」は1955年にアメリカの心理学者のジョセフ・ルフト (Joseph Luft) とハリー・インガム (Harry Ingham)が提案したグラフモデルです。この「ジョハリ」はジョセフとハリーを合わせてもじった造語です。

 彼らは、自分が知っているか否かと他者が知っているか否かの二つの軸により、自己についての認知を四つに分類します。「閉ざされた窓」は、自分は知っているけれども、他者が知らない自己です。一方、「盲点の窓」は、自分は知らないが、他者が知っている自己です。なお、自分も他者も知っている自己は「開放の窓(Open Self)」、どちらも知らないのを「未知の窓(Unknown Self)」です。

 ド・マンは、「作者の死」を踏まえて、批評を展開しています。『盲目と洞察(Blindness & Insight)』(1971)に収録した論文において、作者にとって「盲目」のところに「洞察」が潜んでいることを示しています。

 ただ、ド・マンは「作者の死」を無批判的に受け取りません。それは『読むことのアレゴリー(Allegories of Reading)』(1979)所収の論文「記号論とレトリック(Semiotics and Rhetoric)」が物語っています。ド・マンはこの中で『オール・イン・ザ・ファミリー(All in the Family)』のギャグをめぐる分析を提示しています。

 『オール・イン・ザ・ファミリー』は1971~79年にCBSで放映されたコメディ番組です。非常に人気があり、アーチ・バンカー(Arche Bunker) 役のキャロル・オコナー(Carroll O'Connor)がエミー賞4回・ゴールデングローブ賞1回、エディス・バンカー(Edith Bunker) 役のジーン・ステイプルトン(Jean Stapleton)はエミー賞3回にそれぞれ輝いています。

 ド・マンは、アーチとエディㇲのボーリング・シューズの紐の結び方をめぐる会話に触れつつ、レトリックとリテラルの関係について次のように述べています。

 アーチ・バンカーは、ボーリング・シューズの紐をオーバーラップにしたいのかアンダーラップにしたいのかと妻に尋ねられ、”What’s the difference?”と疑問文で答える。彼の妻は崇高なまでに単純な読者なので、辛抱強くオーバーラップとアンダーラップの違いを説明するが、それが何であったとしても、怒りをそそるばかりである。「どう違うんだい?」は違いを尋ねているのではなく、「どう違おうとかまうものか」を意味している。同じ文法的パターンが相互に排他的な二つの意味を生む。字義通りの意味は概念(違い)を求めているが、その存在は比喩的意味によって否定されてしまう。ボーリング・シューズについて語っている限り、結果はたいしたことはない……。だが、ここで”What’s the difference?”と問うのが、漫画の人物Bunkerではなく、de-bunker(虚偽を暴く人)でありarche(始源)のde-bunker、例えばニーチェやジャック・デリダのようなarchie Debunkerだとしてみよう。その文法からは、彼が「本当に」差異が「何」だと知りたがっているのか、あるいはただそれを見出そうとすべきですらないと言っているのかわからない。文法とレトリックの差異という問題に直面する時、文法はわれわれに疑問を許すが、質問する手段である文は、その可能性そのものを否定するかもしれない。と言うのも、質問が尋ねているのか、それともそうでないのかを権威を持って決定すらできないなら、問うことにどんな意味があるのか?と私は問うからだ。

 アーチは違いを知りたいのではなく、そんなことはどうでもいいと言いたいのです。ところが、エディㇲはアーチの意図を理解せず、修辞疑問文を字義通り認知します。この文は、レトリックとリテラルにおいて、意味が相互に排他的です。共存する余地がありません。

 修辞疑問文はコンテクストに依存します。意味がレトリックであるかリテラルであるかは、その分だけからだけでは判断できません。コンテクストに基づいて聞き手は話し手の意図を推測し、それがいずれなのかを区別します。会話は、読書と違い、場を共有していますから、話し手と聞き手がそれを相互に認識しているはずです。けれども、コンテクストの共通理解が成り立っていないため、二人の話が食い違い、笑いを誘うのです。

なお、「オーバーラップ(Overlap)」と「アンダーラップ(Underlap)」は代表的な靴紐の結び方です。前者は紐をシューホールの上から下へ通してシューレースを編む結び方です。他方、後者は紐をシューホールの下から上へ通してシューレースを編む結び方です。オーバーラップがオーソドックスで、アンダーラップは足への圧迫感を減らしたいなどの目的のために使われます。

 ただ、”What’s the difference?”という文には再帰性があります。違い自体に言及しているからです。判断しかねるのはその文の意味が修辞的であるか、字義どおりであるかという違いだけではありません。レトリックとリテラルの違いを知りたがっているのか、それともどうでもいいと思っているのか決定できません。

 発話者がアーチ・バンカーなら、コメディですので、レトリックとリテラルの意味の違いにとどまるでしょう。しかし、それがニーチェやジャック・デリダのような始源の虚偽性を暴く思想家であるなら、その意図はわかりにくくなります。しかも、話し言葉と違い、書き言葉は場に依存できません。レトリックとリテラルの違いに関して文が自己言及しています。筆者は差異のパラドックスを提示することが目的かもしれないのです。

 パラドックスの文は意味がとれません。その可能性があるなら、作者が死んだのか否かも決定不能です。意図に沿って、あるいはそれにとらわれずに文の意味を理解しようとしても、判断しかねます。

 このようにド・マンは作者の死の決定不能性を提起します。作者は死んでいるとも、死んでいないとも言えない宙吊りの状態にあるのです。ド・マンの脱構築読解はテクストにおけるこうした決定不能性を明らかにします。彼によれば、テクストにはすでに認められた体系と別のものがあることを提案するわけではありません。意図に沿って、もしくはそれにとらわれずに読解したとしても、絶対的に正しいとは言えません。

 ド・マンはレトリックとリテラルの意味の違いに着目して現代の文学批評を相対化しているのです。ただ、新たな理論を積極的に示すことなどありません。宙吊りの状態にとどまっています。それは彼の自分に対する反省的態度です。

 他方、「ご飯論法」には自己再帰的な姿勢がありません。それは自身の相対化ではなく、絶対化です。そうしたコミュニケーションの拒絶は、「脱構築」と違い、「破壊(Destruction)」にすぎないのです。
〈了〉
参照文献
紙屋高雪、「新語・流行語大賞トップテン『ご飯論法』受賞でのスピーチ」、『BLOGOS』、2018年12月05日6時21分
https://blogos.com/article/343149/
柄谷行人、『批評とポスト・モダン』、福武文庫、1989年
林泰成、『道徳教育論』、放送大学教育振興会、2009年
Paul de Man, “Blindness & Insight: Essays in the Rhetoric of Contemporary Criticism”, Oxford University Press, 1971
Ibid, “Allegories of Reading: Figural Language in Rousseau, Nietzsche, Rilke, and Proust”, Yale University Press, 1979


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?