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銀輪エクソダス(1)(2022)

銀輪エクソダス
Saven Satow
Aug. 31, 2022

「現在、私は当時の俳優さんや監督の話をする語り部」。
香川京子

1 チコちゃん
 チコちゃんは、本当は、「千津子」と言います。けれども、そう呼ぶのは父ちゃんと母ちゃん、兄ちゃんだけです。双子の妹を含めてみんな「チコちゃん」と声をかけます。それはチコちゃんが小さいからです。ただ、姉ちゃんは、どういうわけだか、「ちーちゃん」を使います。そのチコちゃんは自分のことを「ちづこ」と呼んでいます。ですから、おかしくありません。
 チコちゃんは痩せっぽちで、卵型の顔に、まっすぐの黒髪をしています。小学生の頃はずっとおかっぱで、中学に入ってからはおさげです。二重瞼ですが、おでこが広く、ファニーフェイスです。けれども、自分では映画『ひめゆりの塔』の香川京子に似ていると思っています。
 兄ちゃんは街でも評判の美男子です。背も高くて、映画『鐘の鳴る丘』や『カルメン故郷に帰る』の佐田啓二に似ていると言われています。ただ、近所のおトメさんだけは「さたけいじ」みたいだと褒めています。きっと耳学問だからでしょう。昔は、「女に学問は要らない」として無筆の女性も結構いたものです。
 ですから、チコちゃんも容姿が香川京子になれるかのうせいがまったくないわけではありません。そうは言っても、前の年にミスユニバースで第3位に輝いた伊東絹子さんのような「八頭身美人」になれるかは微妙なところです。ちょっと背が足りません。身長はクラスで前から2、3番目です。もっとも、164cmの伊東絹子さんほどではないにしても、香川京子さんも162cmはあるのです。
 チコちゃんの家は岩手県稗貫郡新堀村にあります。ここは、平成の大合併により、2005年から宮沢賢治でおなじみの花巻市の一部です。JR東北本線で花巻駅から盛岡方面へ二つ目に石鳥谷駅があります。石鳥谷町は「南部杜氏の里」と呼ばれるほど日本酒で有名です。石鳥谷と言うと、劇画家のさいとう・たかをが移り住んだことで知られています。
 駅前の道路から徒歩3分で岩手県道265号に出ます。盛岡方面へ徒歩で20分進むと、大正橋交差点があります。そこを東に徒歩3分で大正橋に着き、それを通って北上川を渡ります。そこが花巻市石鳥谷町新堀、すなわち旧新堀村です。
 もちろん、これは、不動産情報と同様、あくまで目安です。現在はグーグルアースやストリートビュー-があります。それで「岩手県花巻市石鳥谷町石鳥谷駅」や「岩手県花巻市石鳥谷町大正橋」」などを検索すると、この辺りの地理情報を詳しく見ることができます。
 新堀村は面積が17.92平方km、1955年の人口は3,200人程度です。ちなみに、東京都新宿区が面積18.22平方km.で、2018年時点で人口は35万人弱です。田畑が広がり、牛や馬などの家畜を飼育している風景ののどかな村です。村は1955年4月に石鳥谷町と合併しています。
 新堀村に住んでいますが、チコちゃんは大正橋の向こう側にある石鳥谷小学校に通っています。1954年の今年、6年生です。以前は大正橋商店街の近くに家があり、チコちゃんは石鳥谷小学校に入学しています。小4の時に新堀に引っ越したのですが、チコちゃんは新堀小学校に転校せず、そのまま通っています。新堀小学校は家から遠いからです。とは言うものの、住民税を払わずに、学校に在籍はできません。そのため、チコちゃんの住所を知り合いの産婆さんの家に移して学校に届けています。もちろん、先生たちも事情を承知しています。ただ、発覚するといけないので、適正かどうかを調査が入る日が近づくと、先生がチコちゃんに休むようにとあらかじめ伝えています。残念ながら、双子の妹たちの時はこの手が使えず、二人はえっちらおっちらと新堀小学校に通っています。
 この年は吉田茂首相の最後の年に当たります。翌年から55年体制が始まります。左右の社会党が統一、それに刺激されて保守合同が成立します。けれども、当時はそんな政界再編が起こるとは一般には想像されていません。例えば、自由党幹事長大野伴睦は政友会、民主党総務会長三木武吉は民政党のそれぞれ出身です。保革の対決が戦後に始まったのに対し、この二つの政党は戦前からのライバルです。特に大野と三木は犬猿の仲で、まさか両者が手を組むなど思いもよらない出来事です。ワンマンの時代の終わりを世間も予想・期待していますが、どこか先行きに不透明さがあります。1954年は、来年の春から中学生だけれど、今は小学生というチコちゃんと重なるような時期です。
 今日、チコちゃんは母ちゃんに言われて石鳥谷に炭を買うおつかいに来ています。炭を売っている店は、大正橋と大正橋交差点の間の商店街にあります。その工藤商店は商店街の西端にあり、炭の他、薪や七輪なども扱っています。
 その通りには、炭だけでなく、肉やうどんなど食料品・生活必需品を取り扱う店があります。チコちゃんはお使いでよくここに来ます。たいていは歩きですが、炭を買う時だけは別です。炭は重いので、自転車でないと運べません。
 この通りは、今では、懐石・割烹料理の「新亀屋」があるところとして知られています。ここの加藤綱男さんは2000年に「現代の名工」に選ばれた国内有数の日本料理人です。その綱男さんはチコちゃんの姉ちゃんと同い年です。
 新亀屋が創業したのは1933年で、チコちゃんの生まれる10年前です。当初は通りの反対側、つまり南側に店を構えています。後に大正橋が南に移動したので、北に移転しています。チコちゃんがおつかいをしていた頃は、先代が包丁を握り、主に川魚を出す料理屋です。兄ちゃんたちが捕まえたウナギを店に持って行くと、1円で買ってくれます。また、夏には店の前で芸子さんが内輪を仰いで涼をとっている姿を見かけます。
 この通りには新亀屋の他に商店がいくつも営業していて、新堀と比べると結構にぎやかです。
 チコちゃんは、小学校高学年になった頃から、炭のおつかいをしています。炭を途中で落としたり、自転車で転んだりするような失敗をしたことはありません。おつかいのチコちゃんは慎重かつ大胆です。今日もいつもの通り、滞りなく任務を成功するつもりです。
 子どものおつかいと言えば、失敗がつきもので、それがかわいらしさでもあります。けれども、チコちゃんのおつかいは、つまらないくらいに、失敗がありません。
 もっとも、子どもの失敗がかわいらしく思えるのは、余裕がある時代の話です。終戦直後は多くの大人も自分のことだけで精一杯で、子どもに優しく接する心のゆとりがありません。大人は上野にたむろする戦災孤児を餓鬼として扱っています。チコちゃんも時代の子です。余裕のない時代の気分を感じ、失敗をしないようにおつかいミッションに取り組んでいるのです。
 文学や映画、ドラマ、マンガなど表現は概して変わった設定を求める刺激のインフレに陥りがちです。驚きや為害性は作者が読者に自身の認識を共有させようとする手口です。
批評家の中にそんな見え透いた手に引っ掛かる者もいますが、表現をぬるくしてしまいますので、筆を折ることをお勧めします。
 付け加えると、子どもにシニカルさを見ようとするのも、ロマン主義に対する反発です。それはいずれの場合でも、オリエンタリズムのように、屈折した自分の姿でしかありません。
 今日のおつかいもチコちゃんは失敗しないつもりです。きっといつものように始まり、いつものように終わることでしょう。この自転車で20分くらいの家までの帰り道は面白味はありませんが、仕方がありません。失敗するようなら、神様がモーセを選んだように、母ちゃんが頼むはずもないのです。
 チコちゃんの母ちゃんは白百合女学校出で、合理的思考の持ち主です。近所では薪を使う家庭がほとんどです。薪の方が炭より値段が安いからです。けれども、母ちゃんは時間もお金だからと言って炭を使います。炭の方が薪よりも発熱量が大きいので、同じ目的で利用した場合、短時間で済むからです。その短縮した時間をお金に換算すると、炭と薪の差額より大きいと母ちゃんは計算しているのです。
 事実、炭は同じ質量の薪よりも発熱量が高いのです。炭は木材を蒸し焼きにして炭化させたもので、水分がほとんど含まれていません。十分に炭化した炭は水分が抜けていますので、炎が上がりません。不十分な場合、炎が上がったり、爆跳びしたりします。他方、乾燥させても薪には水分が残っています。理想的な過程を経ても、20%前後の水分が含有しています。水1gの温度を1度上げるのに必要な熱量が1calです。水分が含まれていれば、熱エネルギーは燃焼ではなく、その温度上昇に費やされてしまいます。しかも、水分は蒸発の時に気化熱を奪います。その分はエネルギー・ロスにつながるのです。
 熱効率は薪よりも炭の方が上です。いずれも材質・状態等によって幅がありますが、おおよそ薪1kg当たりの発熱量は3,000~4,100Calに対して、炭は7,000~8,000Calになります。なお、1Calは1,000calに当たります。
 現在の物理学では、熱量の単位としてcalではなく、J(ジュール)を用います。分量単位は特定の物質に依存せず、理論的裏づけによって定義される必要があるからです。1ジュールは1ニュートンの力がその方向に物体を1m動かす時の仕事とされます。1calはおよそ4.2Jです。1ニュートンは1kg*m/s^2、つまり1kgの物質を1m/^2の加速度で動かす力です。ちなみに、物理学の単位は、人名に由来する場合には大文字、そうでない場合には小文字で表記されます。ジュールの語源はジェームズ・プレスコット・ジュールですので、大文字で記されます。
 母ちゃんは電気洗濯機も近所に比べて早く購入しています。洗濯板を使うと、その間はこの作業に専念しなければなりません。けれども、洗濯機を回せば、その合間に他の作業をすることができます。洗濯板の労力と時間を費用に換算すれば、洗濯機の値段は決して高くありません。高度経済成長期に入ると、隣がかったからうちも持とうという競争的消費社会になりますが、母ちゃんはホモ・エコノミクスとして認知行動するのです。
 母ちゃんの合理性はこれだけではありません。洗濯機は買ったその時から劣化が始まると考えます。いずれ故障したり、買い替えたりする時期が来ます。それに備えて、リスク計算をして購入日からそのための予算を貯め始めます。母ちゃんは洗濯機に限らず耐久消費財に関して同様の認知行動をしています。リスクを計算してそれに対処する用意を怠らないのです。
 その母ちゃんは人間の心理についてもよく理解しています。法事など儀式の際には食事を豪華にするようにしています。招待客は食事のことしか覚えていないからです。そのことが後々まで事あるごとに口に上ります。人間は自分も含めてそういうものだから、長くつき合わなければならない人たちとそんなことでしこりが残して嫌な思いをするのは合理的ではないと考えています。
 チコちゃんも母ちゃんに似て合理的です。高校生の頃、山下敬二郎や平尾昌晃、ミッキー・カーチスに同級生がお熱を上げる中、チコちゃんは守屋浩のファンです。理由は競争相手がいないからです。チコちゃんの知っている範囲で、守屋浩のファンは一人もいません。ですから、守屋浩を選べば、同級生と競争せずに、チコちゃんが独占できるというわけです。そういう合理的計算をしていましたから、本間千代子の登場は誤算です。チコちゃんにとって、それは計算できない不確実性にほかなりません・

僕の恋人
東京へ 行っちっち
僕の気持を 知りながら
なんで なんで なんで
どうして どうして どうして
東京がそんなに いいんだろう
僕は泣いちっち
横向いて 泣いちっち
淋しい夜は いやだよ
僕も行こう
あの娘の住んでる 東京へ

祭の太鼓が
テンテケテンと 鳴っちっち
みんな浮き浮き 踊るのに
なんで なんで なんで
どうして どうして どうして
僕だけションボリ みそっかす
涙がホロリ
ひとりで 出っちっち
お祭なんか いやだよ
僕は思う
遠い東京の ことばかり

上りの急行が
シュッシュラシュッと 行っちっち
いやな噂を ふりまいて
せめて せめて せめて
遠い遠い東京の
空に飛んでけ ちぎれ雲
汽笛がなっちっち
遠くで なっちっち
夜汽車の笛は いやだよ
早く行こう
あの娘の住んでる
(守屋浩『僕は泣いちっち』)

https://note.com/savensatow/n/nf3c181e6dbe0
https://note.com/savensatow/n/n818934681914
https://note.com/savensatow/n/nf0f9f660645e
https://note.com/savensatow/n/n5288bea727cd
https://note.com/savensatow/n/nbc29f017eb15
https://note.com/savensatow/n/nb6799267cbe1
https://note.com/savensatow/n/nf3563dce0146
https://note.com/savensatow/n/n14dd80dbfc47
https://note.com/savensatow/n/n938f43d7120c
https://note.com/savensatow/n/n3f0af6ad0fb0


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