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リノベーター正岡子規(5)(1993)

第5章 デカダンスとしての命数論
 子規は、『死後』(1901)において、死をめぐる「主観的の感じ」と「客観的の感じ」について次のように述べている。

 併し死を感ずるには二様の感じ様がある。一は主観的の感じで、一は客観的の感じである。そんな言葉ではよくわかるまいが、死を主観的に感ずるというのは、自分が今死ぬる様に感じるので、甚だ恐ろしい感じである。動気が躍って精神が不安を感じて非常に煩悶するのである。これは病人が病気に故障がある毎によく起こすやつでこれ位不愉快なものは無い。客観的に自己の死を感じるというのは変な言葉であるが、自己の形体が死んでも自己の考は生き残っていて、其考が自己の形体の死を客観的に見ているのである。主観的の方は普通の人によく起こる感情であるが、客観的の方は其趣すら解せぬ人が多いのであろう。

 「自己の形体が死んでも自己の考は生き残っていて、其考が自己の形体の死を客観的に見ている」という子規の主張は死んだら終りという認識ですらない。子規はそのニヒリズムをさらに極限化している。死んだら終りならば、せめて生きている間の自由が許されることになるが、それもない。「客観的の感じ」は自己の相対化であり、「主観的の感じ」は自己の絶対化である。

 批評家にはこの「客観的の感じ」が欠かせない。創作の間は「主観的の感じ」である。もちろん、それを相対化する「客観的の感じ」がなければ、推敲ができない。創作にも必要である。ただ、「客観的の感じ」が強ければ、その遂行の理由を言語によって説明できる。そうした「客観的の感じ」はメタ認知である。子規はこのメタ認知によって暗黙知を明示知に言語化している。批評家として子規は写生文を始め文学革新の提言を展開する。それは「主観的の感じ」の方が強い俳人や歌人ではなしえなかったことだろう。

 子規がリノベーションに着手する前から、俳句は事実上現状維持が困難になっている。俳句は、暦の変更に伴い、季語に混乱が生じる。従来の俳句の季語は旧暦に則っている。旧暦は明治5年12月2日(1872年12月31日)まで使われ、その翌日の12月3日をもって明治6年(1873年)1月1日に改められている。そのため、従前の季語は新暦と齟齬が生じる。春は旧暦では立春から立夏まで、新暦においては3月から5月までを指す。およそ1ヶ月ずれている。

 若き子規は、『獺祭書屋俳話』(1892)において、俳句や短歌は明治年間に尽きてしまうだろうと次のように大胆な予想をしている。

 数学を修めたる今時の学者は云ふ。日本の和歌俳句の如きは一首の字音僅に二三十に過ぎされば、之を錯列法に由て算するも其数に限りあるを知るべきなり。語を換へて之をいはゞ和歌(重に短歌をいふ)俳句は早晩其限りに達して、最早此上に一首の新しきものだに作り得べからざるに至るべしと。
 而して世の下るに従ひ平凡宗匠、平凡歌人のみ多く現はるゝは罪其人に在りとはいへ一は和歌又は俳句其物の区域の狭隘なるによろずんばあらざるなり。人間ふて云ふ。さらば和歌俳句の運命は何れの時にか窮まると。対へて云ふ。其窮り尽すの時は固より之を知るべからずと云へども、概言すれば俳句は巳に尽きたりと思ふなり。よし未だ尽きずとするも明治年間に尽きんこと期して待つべきなり。短歌は其字俳句よりも更に多きを以て数理上より算出したる定数も亦遥かに俳句の上にありといえども、実際和歌に用ふる所の言語は雅言のみにして其数甚だ少なき故に其区域も俳句に比して更に狭隘なり。故に和歌は明治巳前に於て略々尽きたらんかと思惟するなり。

 これは俳句・短歌命数論と呼ばれている。子規は、俳句や短歌はその字数の順列組み合わせから見て有限であり、命数は明治年間において尽きるだろうと予言する。俳句や短歌の改革に熱心にとりくみながら、子規が命数論によってその没落を主張したことは決して矛盾しない。ただ座して死を待つのは受動的ニヒリズムであり、従前の価値観に殉教するものでしかない。もし命尽きるのなら、よりよくそうなるように全力を尽くす能動的ニヒリズムが望ましい。没落するとしたら、それに立ち向かう意欲が新たな価値観を生み出す。だから、子規にとって、俳句・短歌はデカダンスである。子規が俳句や短歌に見出したのは一つの極限だ。俳句や短歌を通して文学を見る時、そこにあるのは過去の作品の繰り返しである。しかし、それもいずれ尽きる。

 実際には、俳句や短歌は明治の後も生き延びている。けれども、それは子規が提唱した写生文を始めとする理論の方法を繰り返すことによって可能になっている。虚子や碧梧桐は子規のある側面をそれぞれに受け継ぐ。虚子は教育的傾向、碧梧桐は理論的傾向を受けとり、それを反復している。

 近代化にもかかわらず、明治期の俳壇の問題は芭蕉以前に起こった貞門と談林の対立や西鶴の大矢数、さらに芭蕉以後の蕉門の分派・対立のヴァリエーションでもある。俳句の問題はその時期から新しいものはなく、似たことが繰り返されていただけだ。子規はそのことに気づいている。子規が説いたのは俳句のよい没落──反動的になることなく、没落するものを没落するものとして扱うことによって救うこと──である。

 子規の改革は、虚子や碧梧桐のような直接の後継者のみならず、広範囲かつ長期に影響を及ぼしている。司馬遼太郎は、『文章日本語の成立と子規』(1976)において、子規が万人向けで、汎用性が高く、共通性のある文章モデルを創作したと言っている。「山会」を通じて「一つの言語社会に、その社会の他の諸要因も参加してついには共通文章語を成立させ」た子規に漱石以上の「密度の高い評価」を与えるべきとする。それは子規が文学の近代化における日本固有の事情をよく心得ていたからだろう。

 欧州は、近代化の際、主にグレコ・ローマンの古典を共通理解とした上で、文化的ナショナリズムに押されて国民文学を形成している。一方、中国は漢籍の伝統をテーゼ、西洋近代をアンチテーゼとして弁証法的にジンテーゼの国民文学を創出する。ところが、日本の国民文学建設はいずれとも違う。

 前近代において、日本は朝鮮半島や中国大陸の文化を共通理解として固有の文学を発展させている。これには仏教も含まれる。それに反発した国学は近世の半ばに登場してきた新参者にすぎない。近代に入ると、その中華文化圏からの伝統に代えて、西洋近代の影響下で国民文学を創設しようとする。しかし、日本人にグレコ・ローマンの知識は乏しい。また、長い歴史と広い地理の中で蓄積されてきた漢籍に比べて、日本固有の文学は共通理解の基盤として脆弱である・

 子規はこの現状を前に形式を共通理解と見立てるほかない。子規の文学改革は、無教養であっても創作・鑑賞ができるにはどうしたらよいかを念頭に置いている。そこで考案された方法が写生文である。無教養でかまわない、あるいは無教養の方がよいとする考えではないが、後世を見ると、そういった作品も少なくない。

 子規は和歌が没落した原因を探り、それを俳句や短歌の近代化の参考にしている。和歌が腐敗した原因は「小さき事を大きくいう嘘」(『五たび歌よみに与ふる書』)にあるが、「和歌の精神こそ衰えたれ形骸を猶保つべし、今にして精神を入れ替えなば再び健全なる和歌となりて文壇に馳駆するを得べき事を保証致候」であり、「いかなる詞にても美の意を運ぶに足るべきものは皆歌の詞と申すべく、これをほかにして歌の詞というものはこれなく候」(『七たび歌よみに与ふる書』)。そのため、子規は形式を残すものの、俳人仲間や歌人仲間の間でのみ通じるレトリックを「理屈」として否定する。それは子規が連歌を否定したことからも明らかであろう。子規は、「ただ自己が美と感じたる趣味を成るべく善く分るように現すが本来の主意に御座候」(『十たび歌よみに与ふる書』)と主張する。その「理屈」のために、子規は「和歌俳句の如き短き者には主観的佳句よりも客観的佳句多し」(『六たび歌よみに与ふる書』)と言う。

 俳句や短歌とは、子規にとって今や、耐え難いようなデカダンスを秘めた一つの試練である。デカダンス自体は、言うまでもなく、文学の契機であっても、目的にはならない。デカダンスは自らの存在を正当化するための隠語を用いるゲットーの自己破壊、誠実なる没落である。

 和歌の腐敗を参考に子規はリノベーションを行ったが、寺山修司が俳句に興味を覚えた頃、俳句は結社の中でデカダンスを忘れてしまう。寺山の目の前にあった俳句は、もはや、文芸様式ではない。寺山は、『誰か故郷を想はざる』において、俳句は「亡びゆく詩形式」であり、俳句の世界では「自分の作品の実力ばかりではなく、選者への贈り物、挨拶まわりにも意を払う」ような文学以外のものが盛んであったと言っている。「この膨大な産業の世界での地位争奪戦参加の興味は、私に文学以外のたのしみを覚えさせた。私は、この結社制度のなかにひそむ『権力の構造』のなかに、なぜか『帝王』という死滅したことばをタブルイメージで見出した」。寺山は俳句の腐敗の中でデカダンスを意識し、それを推し進め、前衛的定型詩を提示していく。

 子規は感情を表現することを嫌う。感情は「主観的の感じ」にすぎないからである。子規は自分の病気や死を人ごとのように語っていて、どこかユーモラスですらある。「写生文」はこうした認識から生じている。そのため、子規の「写生文」は虚子や碧梧桐においてではなく、むしろ、「叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉」や「寒山か拾得か蜂に螫されしは」といったユーモラスな句をつくった夏目漱石において最も生きている。

 このユーモアの系譜は漱石の後に見出すことが難しい。ユーモアには「主観的の感じ」に対する「客観的の感じ」が欠かせない。それはメタ認知による私への笑いである。だから、ユーモアに基づく俳句は俳句批判の俳句、すなわち俳句のデカダンスの体現だ。これこそ子規のリノベーションの核心である。

 子規の随筆にはユーモアが漂うものが少なくない。それは自分自身の「主観的の感じ」に対する「客観的の感じ」である。子規は、3月15日付『墨汁一滴』において、病に苦しんでいたことからキリスト教への入信を勧められたことについて次のように述べている。

 耶蘇信者某一日余の枕辺に来たり説いて曰くこの世は短いです、次の世は永いです、あなたはキリストのおよみ返りを信ずることによって幸福でありますと。余は某の好意に対して深く感謝の意を表する者なれども、いかんせん余が現在の苦痛あまり劇しくしていまだ永遠の幸福を図るに暇あらず。願わくは神まず余に一日の間を与えて二十四時間の間自由に身を動かしたらふく食を貪らしめよ。しかして後におもむろに永遠の幸福を考え見んか。

 ユーモアは、ニーチェ流に言えば、現実を「われ欲す」という態度で迎える笑いと言ってもよい。と同時に、笑いがあってこそ、「われ欲す」と現実を肯定することができる。ディオニュソス的肯定による笑いがユーモアだ。「深く傷心するものがオリュンポスの笑いをもっている。私たちは、おのれが必要とするもののみを所有するものである」(ニーチェ『力への意志』1040)。

 飾らずにありのままに書く写生文を自身に向けられるなら、それはユーモアになる。「あるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニソス的に然りと断言することにまで--、それは永遠の円環運動を欲する、--すなわち、まったく同一の事物を、結合のまったく同一の論理と非論理を。哲学者の達しうる最高の状態、すなわち、生存へとディオニソス的に立ち向かうということ--、このことにあたえた私の対式が運命愛である」(ニーチェ『力への意志』1041)。子規はデカダンスから文学をリノベーションしただけでなく、自身の生にも向ける。正岡子規は生きられた写生文にほかならない。

 そんな子規には、愛してやまなかった野球におけるスーパースター「青バット」の大下弘の作品がふさわしい。

浮世をば 球一筋の 男かな
のらくらと 浮世を球の 果報者
何事も 球に任せた 吾が浮世
満ち足りし 事なかりしか 野球也
(大下弘『大下弘日記』)
〈了〉
参照文献
江藤淳、『リアリズムの源流』、河出書房新社、1989年
大下弘、『大下弘日記―球道徒然草』、ベースボール・マガジン社、1980年
柄谷行人、『思考のパラドックス』、第三文明社、1984年
同編、『近代日本の批評3 明治・大正篇』、講談社文芸文庫、1998年
同、『定本 日本近代文学の起源』、岩波現代文庫、2008年
同、『新版 漱石論集成』、岩波現代文庫、2017年
ドナルド・キーン、『日本の作家』、中公文庫、1978年
佐藤康宏、『改訂版 日本美術史』、放送大学教育振興会、2014年
寺山修司、『誰か故郷を想はざる』、角川文庫、2005年
フリードリッヒ・ニーチェ、『ニーチェ全集』13、原佑訳、ちくま学芸文庫、1993年
前田登正、『正岡子規』、清水書院、2017年
正岡子規、『子規全集』12、講談社、1975年
渡部直己、『リアリズムの構造―批評の風景』、論創社、1988年
青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/

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