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植民地支配における日本語教育と日本近代文学の成立(3)(2004)

3 言文一致
 1886年(明治19年)、物集(もずめ)高見(たかみ)が『言文一致』を出版し、次第に漢字廃止論から言文一致論へと議論の主眼が移っていく。欧米の近代文明を輸入して、普及させるには、書き言葉を話し言葉に近づけて平易にしなければならない。言文一致運動を通じて、文末を「だ」、「です」あるいは「である」のいずれに決めるという議論が続いたが、二葉亭四迷の主張した「だ」が最終的に小説、尾崎紅葉が『二人女房』(1891~92)や『多情多恨』(1886)で使った「である」は批評で主流になっている。

 また、山田美妙が『胡蝶』(1889)などで示した「です」は、「ます」と並んで、話しかける相手が目上もしくは見知らぬ人である場合に用いられる丁寧語に区分され、主に、手紙の文体として定着する。『胡蝶』が平家の滅亡を描いているように、「です」は現実の人間関係では丁寧に話す必要があるとしても、平等な個人の関係を表象するには必ずしも十分ではない。常体が小説、敬体が手紙といおうわけだ。なお、言文一致は日本特有の運動ではなく、資本主義もしくは国民国家体制に突入した際、起こり得る。

 1900年(明治33年)、帝国教育会内に前島密を座長とする言文一致会が結成され、貴族院・衆議院の両院に「請願」を提出している。その中で、言文一致の必要性を「国家ノ統一ヲ固クシテ国勢ノ伸張ヲ助ケ国運ノ進歩」と関連付け、「音韻文字」の採用が望ましいと提言している。中央集権的支配を円滑にすすめるために、標準的な表記法を確立する必要がある。1902年、国会に国語調査会が設置される。ここでも、「音韻文字」の採用を基本方針とし、脱亜主義の色彩が強い。国語調査委員会は基本方針の第二項に「文章ハ言文一致体ヲ採用スルコトヽシ是ニ関スル調査ヲ為スコト」、基本方針に付随して「普通教育ニ於ケル目下ノ急ニ応センカタメ」として六項が掲げている。「現行普通文体ノ整理ニ就キテ」とあるように、文章については言文一致体を目標とし、普通文体の整理が現実の問題としている。

 国語調査会以来、文字・仮名遣い・文章・標準語の改革や創作が目標とされながらも、国の機関で具体的に論じられ、施策が講じられてきたのは文字と仮名遣いが中心である。学校教育の現場で、国語調査会以前には、試行錯誤が続けられている。小学校では、最初に、ひらがな・カタカナを学び、次に、それを使った文章を書き、徐々に漢字を交えた文章へと進むコースが次第に定着する。その過程で漢字制限や仮名遣い改定が問題となり、文部省は何度となく改革案を提案・撤回を繰り返している。対して、文体においては、言文一致体に対する表立った異議はなく、教育令・小学校令やそれに伴う教科書などの中で微妙な変化を重ねたにすぎない。教材には談話や会話文も取り上げられ、一般に普及し始めた言文一致体も、学校教材を通して、標準的な書き言葉の地位を獲得する。普通文は言文一致体に吸収されていき、口語文が新聞雑誌などでも主流となるにつれ、言文一致体という用語も取り上げられなくなっている。

 明治維新は帝国主義的列強に対する経済的・軍事的な遅れに危機感を抱いた下級武士と宮中貴族によるクーデターである。市民革命ではない。彼らは幕藩体制を終わらせることが目的であり、それ以上のヴィジョンを必ずしも持っていない。外圧に対抗するために、国内改革の必要性を感じていたのであって、国内の政治的・経済的・文化的状況から生じている諸問題の改革は二次的な要件と見なしている。

 日本が植民地化ないし半植民地化されなかった理由は大きく二つある。一つには、インド亜大陸や東南アジア、中国大陸で欧米の植民地支配に対してすでに激しい抵抗運動が起きていたことにより、列強が日本に到達できなかった点である。もう一つには、1850年代以降、欧米諸国間ならびに内部で紛争・内戦が絶えないため、抑止力が働いただけでなく、支配する余力がなくなっていた点があげられる。支配者階級の序列が入れ替わっただけで、民衆は完全に取り残されている。明治維新はブルジョアジーやプロレタリアートとも無縁であり、体制の変換が民衆の間での必然性が希薄だったため、戦前を通じて、多くの場合、近代化=西洋化は権力主導で行われている。しかも、彼らは変革という行為自体に目的を求め、何を、いかにして、どのような方向に変えていくのかを問わない主観主義的傾向があったが、それは戦後も続いていく。

 幕藩体制という封建的軍政に代わって、新しい軍政の下、民衆の間から自由民権運動という民主化要求が起き始める。自由民権運動が隆盛を極める明治10年代、民主化運動を鼓舞する戯作・翻訳・政治小説が流行している。言文一致運動はこの政治の動きと密接な関係にある。自由民権運動が沸き起こると、演説という政治行動が街頭で見られるようになる。江戸時代には演説という行為がなかったため、それにふさわしい話し方や言葉が必要になる。同時に、演説を伝えるプリント・メディアの方でも、演説を話された言葉のまま字にしたのでは、臨場感を欠くので、新たな文体を模索するようになる。国民国家はプリント・メディアの体制である。

 ただ、国民国家形成は為政者側が一方的に民衆へ政策を押し付けて実現したわけではない。民衆側からも積極的な働きかけがあったのも事実である。両者の折衷が国民国家を結果的に達成している。

 1884年(明治17年)、日本に入って間もない速記を使って、三遊亭円朝が『怪談牡丹灯籠』という速記本を発表している。円朝の与えた衝撃は大きく、文学者もこの新たな動きに呼応する。二葉亭四迷は、『余が言文一致の由来』によると、小説を書くための新たな文体について坪内逍遥に相談すると、「君は円朝の落語を知つてゐよう、あの円朝の落語通りに書いて見たら何うか」とアドヴァイスを受けている。

 二葉亭は1887年(明治20年)に刊行された『浮雲』第一編を円朝の強い影響が見える次のような文体で綴っている。

 寧ろ難面くされたならば食すべき「たのみ」の餌がないから蛇奴も餓死に死んで仕舞ひもしやうが憖に卯の花くだし五月雨のふるでもなくふらぬでもなく生殺しにされるだけに蛇奴も苦しさに堪へ難ねてかのたうち廻ッて腸を嚼み断る……

 ここは、第一編第二回で、文三のお勢への思いを描写している部分である。「ふるでもなく」の「ふる」は雨が「降る」と主人公内海文三をお勢いが「振る」の掛詞であり、「卯の花くだし五月雨」はその序詞である。

 二葉亭だけでなく、山田美妙も言文一致体で作品を書く際、円朝の落語を参考にしているように、最初期の言文一致体は円朝の文体のヴァリエーションであるが、これは近代文学の修辞法ではない。夏目漱石は、1906年(明治39年)になっても、『自然を写す文章』において、「今日では一番言文一致が行われて居るけれども、『である』『のだ』とかいふ言葉があるので言文一致で通つて居るけれども、『である』『のだ』を引き抜いたら立派な雅文になるのが沢山ある」と記している。『浮雲』第一編の文体は活用語尾を変えれば、「立派な雅文になる」。その理由は、特に、語り手が登場人物に対して突出している点に求められる。文明開化にあった登場人物=語り手=読者の関係を再検討する必要がある。近代文学を書くには、修辞法も神の死にふさわしくなければならない。

 二葉亭は翌年に『浮雲』第二編、その次の年には第三編を刊行していくが、第二編以降では次のような文体で書いている。

 お政の浮薄、今更いふまでも無い。が、過まッた文三は、──実に今迄はお勢を見謬ッてゐ今となッて考へて見れば、お勢はさほど高潔でも無(ない)。移気(うつりぎ)、開豁(はで)、軽躁(かるはずみ)、それを高潔と取違へて、意味も無い外部の美、それを内部のと混同して、愧(はず)かしいかな、文三はお勢に心を奪はれてゐた。

 これは第三編第十六回における文三の内省をめぐる記述で、円朝の影はもはや見られない。言文一致体は余情に乏しいという反対意見が出たように、語り手が登場人物のスポークスマンになり、修辞法が近代文学の範疇に属している。しかも、二葉亭は『浮雲』第一編を主に現在形で書いているのに対して、ロシア語で書いた後、日本語に翻訳した第二編では過去形を中心に使っている。こうした試みは、二葉亭において、近代文学の用語として形成された近代ロシア語の翻訳によって初めて可能になっている。

 二葉亭には近代文学の修辞法や文法がまだ内面化されていなかったため、ロシア語で書かなければ、それを描くことができない。『浮雲』の段階では、その修辞法も文法も手探りの状態であって、未完成である。『浮雲』第二編と同じ1888年(明治21年)、二葉亭は、イヴァン・セルゲイヴィチ・ツルゲーネフの『猟人日記』を翻訳し、『あひゞき』として発表している。国木田独歩が言っているように、『あひゞき』は『浮雲』第一編以上に当時の文学者に影響を与えている。国木田独歩の『武蔵野』(1898)には、実際、この作品の自然描写に負っている記述が少なくない。『あひゞき』の翻訳を通じて、二葉亭は日本近代文学の修辞法や文法の基礎を確立していく。

 しかも、『あひゞき』は、1888年に雑誌『國民の友』に発表された後、96年(明治29年)、改訳した上で、単行本として刊行されているため、二つの翻訳には次のような違いがあり、この改訳が以降の日本文学に対して決定的な規範となっている。

 氣の無さゝうな眼を走らしてヂロリと少女の顔を見流して、そして下に居た。
 「待ッたか?」ト初めて口をきいた、なお何處をか眺めた儘で、缺伸をしながら、足を揺かしながら「ウー?」
 少女は急に返答しえなかッた。
 「どんなに待ッたかせう」と邃にかすかにいッた。
(初訳)

 氣の無さゝうな眼を走らしてジロリと少女の面を見て、其處へ座つた。
 「待つたか?」と矢張何處を他處(よそ)を眺めながら、足を揺(うご)かして缺び雜(まきり)に云ふ。「ウー?」
 少女は急に返答を爲得(しえ)なかつた。
 「どんなに待つたでせう」と漸(やうや)う聞こえるか聞こえぬ程の小聲で云ふ。
(改訳)

 前者が逐語的な訳であり、時制が過去形に統一されているのに対して、後者はこなれていて、過去形と現在形が混在している。西洋の近代文学作品は時制について非常に厳密であり、ロシア語の原文は過去形で統一されている。けれども、二葉亭が過去形に訳した部分は完了体、現在形の部分は不完了体に相当する。ただし、これはすべてにあてはまるわけではなく、あくまで原則的な傾向である。

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