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銀輪エクソダス(2)(2022)

2 銀輪は唄う
 炭は1俵単位で買います。その炭俵は1俵当たり30kg.あります。米俵の重さの半分ですが、自転車の後の荷台に乗せて走るのは一苦労です。なお、上等な炭の場合、1俵の重さがそれより軽く15kgです。
 チコちゃんの乗っている自転車は子供車でもママチャリでもありません。実用車です。交番の警察官がパトロールに使っているタイプです。もちろん、その黒い自転車は自分専用ではなく、家族みんなで乗っています。
 チコちゃんは自転車に小学校低学年の頃から乗れます。しばらくは三角乗りをしていましたが、高学年になってからはしていません。そもそも三角乗りではおつかいができません。
 チコちゃんの家には、父ちゃんの仕事の都合で、電話があります。もちろん、「デルビル電話機」や「磁石式電話機」と呼ばれた「デルビル磁石式壁掛電話機」です。この壁掛電話の左横につながっている受話器には、現在の固定電話と違い、送話口がありません。電話機本体にそれがついています。通話の際には、高感度を優先したことにより余計な音まで拾ってしまうため、送話口から口を数cm離す必要があります。また、本体の右横にハンドルがついています。これは磁石発電機です。発生する電流は交流ですから、遠方に贈りやすい利点があります。電話をかける時に、このハンドルを回します。すると、電気信号が電話局へ送られます。それを受け取った電話局は自動変換器もしくは信号発電機を通じて交流の電気信号を目的の番号の電話機に送ると、そのベルが鳴ります。
 チコちゃんは小さいですから、ベルが鳴ったら、電話機の下に椅子を運び、それに乗って受話器を取ります。「はい、藤原です」。電話の内容は父ちゃんや母ちゃんの用円だけではありません。近所への伝言もあります。この辺りで電話があるのはチコちゃんの家だけです。そのため、近所への情報伝達にチコちゃんの家の電話が利用されているのです。そういった電話があると、「お駄賃ももらえねのに、なしてこったなごど」と不満を抱きながらも、チコちゃんは自転車に三角乗してメッセンジャーのサービスを請け負っています。

 「もしもし、こちら局ですが、何番でしょうか?」

 三角乗りは、昭和30年代前半を舞台にした宮崎駿監督のアニメ『となりのトトロ』でかんたが披露しているように、かつては子どもの自転車の乗り方として一般的なものです。
 自転車文化センターの「昭和35〜36年頃 三角乗り」によると、この乗り方には次のような事情があります。

昭和35〜36年頃 三角乗り
自転車全体の年間生産台数は伸びているにも関わらず、昭和34年頃までは子ども車の生産台数の占める割合は12%前後で変化がなかった。また大手製造会社製の大人向けで14,000円〜28,000円という価格は公務員の初任給の1〜2ヶ月分に相当した。したがって一般家庭では子ども用自転車を気軽に買い与えることは難しかった。そこでサドルに腰掛けて運転することが出来なかった大人用自転車を子どもたちが乗るために考えたのが三角乗りであった。当時はフレームの大半が三角形をしていたので、この三角形の中に右足を入れて、ペダルを半回転させながらなんとか前に進んだのである。不安定な乗り方なので転ぶことも多かった。

 これは昭和30年代における三角乗りについての説明です。チコちゃんが三角乗をしていたのはそれより前の昭和20年代です。その頃、自転車はさらに高価です。
 昭和20年代に自転車がいかに高価だったかをよく物語るエピソードがあります。1953年の日本シリーズは読売ジャイアンツが南海ホークスと対戦、4勝1敗2分けで日本一に輝きます。巨人の大友工(たくみ)投手が最優秀投手賞に選ばれ、その賞品が自転車です。グラウンドで自転車にまたがり、にこやかな表情で、右手を高く挙げるユニフォーム姿の大友選手の写真が残されています。
 このシーズンの大友選手の成績は27勝6敗・勝率0.818・防御率1.86です。最多勝・最優秀防御率・最高勝率の投手部門のタイトル三冠のみならず、MVPや沢村賞、ベストナインにも輝いています。1953年のセントラル・リーグ最強の選手が自転車を贈られて喜んでいるのです。なお、MVPの副賞は腕時計です。このサイドスローは1950年にジャイアンツに入団したものの、なかなか芽が出ず、「故郷に帰って炭焼きになるしかない」と何度も思ったと後に回想しています。
 ちなみに、その5年後の1958年、日本シリーズMVPの商品はトヨペット・クラウンです。3連敗した西鉄ライオンズが4連勝して読売ジャイアンツを下し日本一に輝き、今日でもなお史上最高の日本シリーズと呼ばれています。MVPは「神様仏様稲尾様」とたたえられた稲尾和久投手です。背番号24がボンネットに腰かけ、右手で帽子を持ち、細い目をさらに細くして、カメラマンに囲まれている写真が残されています。もう自転車をプロ野球のスター選手に贈る時代ではなくなっています。

 「腕時計をはめるのは、これがはじめてです」。
(大友工)

 大正橋を東にすると、店は通りの南側にあります。道路は舗装されておらず、自動車もあまり通りません。チコちゃんは自転車を店の間口付近に停めています・
 工藤商店の主人が炭俵を運んでくれます。チコちゃんは小さいですから、それを持つと、俵が歩いているように見えてしまいます。主人は自転車の荷台に炭を乗せ、荒縄でぎゅっと縛り、動かないようにしてくれます。
 「よす、これでい」。
 チコちゃんは自転車の左隣に立って、主人の作業を見つめています。
 「あの…炭のお代は…」
 「ああ、いづもの通り、帳面さツケどぐから」。
 「帳面につけておく」とは「ツケ」のこと、つまりその場ではなく後でまとめて支払うことです。貨幣や複式簿記もこのツケ、すなわち借金から生まれたとされています。
 「もさケねす」。
 「重でカら、気ぃつけでな」。
 「うん。でも大丈夫だ。いづものこっだカら」。
 チコちゃんの地域の方言は概して音が濁りません。けれども、清音というわけでもありません。「いつも」を例にしましょう。共通語の「つ」では強すぎます。しかし、「づ」と濁りません。子音だけで、母音を発音しない感じです。また、「もさげね」の「げ」は口をあまり開けずに高音にして弱く発音します。宮沢賢治の作品の方言はほぼ同じですから、読む時にはこういうところを気をつけると、その世界の雰囲気を味わうことができるでしょう。
 ついでに、文法の違いも少しだけ紹介しましょう。「あの人はうぢさいだ」と「あの人はうぢさいだった」は意味が違います。前者は「あの人はうちに(ある程度継続して)いた」で、後者は「あの人はうちに(短期間)いたことがある」となります。こういう共通語との文法の違いがあるのも方言の面白さです。
 自転車の後の荷台に30kgの炭を乗せています。正しい乗車姿勢でペダルをこぎ始めたら、前輪が浮くような感じです。しかも、走り出した時の速度は遅いですから、車体が左右に揺れて倒れてしまいそうです。チコちゃんは、そのため、走り始める時、前傾姿勢をとって重心を前に移動させ、大急ぎでペダルをこぎます。
 自転車の走行を解析すると、左右に傾きながら、進んでいることがわかります。ペダルをこぐと、左右いずれかの力を入れた足の方に体が傾きます。倒れた方向にわずかにハンドルを切ると、自転車は円運動をし、円の外側に向かって遠心力が働きます。この力により傾きが停止して、正しい乗車姿勢へと立て直してくれるのです。
 これは関係式にまとめることができます。どれだけハンドルを切らなければならないかは、走行速度とその傾きの関数で表わされます。非常に簡略化した条件を想定し、走行速度をv、回転半径rと重力加速度gの積をPとします。急ハンドルを切らなければならない割合はPをvの2乗で割った値Kとして求められます。低速なほど、ハンドルを大きく切らなければなりません。さらに、走行速度が大きくなると、角運動量保存則と慣性の法則により、走りが安定します。ですから、高速だと手放し運転もできるのです。
 この関係式には、実は、三角関数を用います。ここで、それを使わず、記号のみで表わしたのは、公理系の発想です。この式は汎用性を持っています。低速のスタート時のみならず、コーナーリングにも応用可能です。
 舗装されず、砂利のある道路を自転車で走るのは、空荷の時でも不安定です。砂利ですと、舗装道に比べて、タイヤからの力が小石の動くことによって逃げてしまいますので、速度が出ません。また、感じる横揺れも多く、大きくなります。荷台に荷物があると、低速時の車体の揺れ幅がさらに大きくなります。ハンドル操作がとても難しくなるのです。もちろん、チコちゃんは砂利を避けてコースをとりますが、穂騒動と違って、路面の状態は必ずしも予想通りではありません。
 チコちゃんは困難を承知しています。一旦走り出したら、止まることは許されません。再始動できないからです。
 両手でハンドルを握り、左足をペダルに乗せます。右足で地面を蹴りながら、自転車を両手で押して加速させます。十分に速度が上がったら、右足を高く上げて三角形のフレームをまたぎ、サドルに腰かけ、前傾姿勢をとり、両足でペダルをこぎます。この乗り方はボブスレーのスタートを思い起こせばよいでしょう。
 チコちゃんはキック・スタートで自転車に乗ります。停車したら、自転車から降りてこの動作を再度しなければなりません。ところが、自転車を横に倒さないと、チコちゃんは降りられません。けれども、横になった自転車は炭が重くて、自分では起こせません。おまけに、この帰り道に誰かと出会うことはあまり期待できません。新堀村の人口密度を考えれば、この通りに複数の人が同時にいることなど低い確率の事象です。チコちゃんは知っています。立ち止まった瞬間に、リタイヤになります。途中で転んだけれど、がんばって何とか荷物を届けたというほほえましいお使いの光景などあり得ません。おつかいの感動ストーリーは、一般的に言って、起承転結の波の構造をしています。こうした物語の脚本は出来事の因果性によって構成されます。諸々の出来事を用意し、伏線なども考慮してそれがどのよう配置されると効果的であるかを検討するのです。しかし、チコちゃんの場合はそのピークがないのです。
 はたから見ればつまらなくても、チコちゃんにとって自転車のおつかいは冒険です。成功するためには、慎重かつ大胆さが求められます。ただ、残念ながら、チコちゃんは決して運動神経がいい方ではありません。運動会の徒競争もビリではありませんが、1位でもありません。チコちゃんは知っています。集中しなければ、ミッションは成功できません。出発の時には、ですから、気合が入ります。
 チコちゃんは呼吸を整えてその時を待ちます。スタートピストルの鳴る瞬間に神経を集中させます。店は商店街の西端にあります。大正橋まで距離にして200mくらいでしょう。平らな直線がしばらく続きますが、途中から大正橋まで軽い上り坂になります。現在と違い、当時は堤防がありませんので、上りと言っても、なだらかなものです。ただ、速度が上がっていない段階ではたやすいことではありません。片手運転なんてとてもとてもですから、モーセのように水に向かって手をかざすこともできません。ですから、この直線をできる限り速度を上げる必要があります。
 “Ready. Set. Go!”
 「そーれ!」

二人並んで自転車に乗れば
こもれびを浴びてスポオク光る
ハンドルさばきも巧みなものさ
木立を縫って山道行けば
ネツカチイフをそよ風揺らす
歌を唄えば朗らかに
君はあの歌 僕はこの歌

ラララ 快速 快速
スピイドあげて
ベルを鳴らして
行こうじゃないか

二人並んで自転車に乗れば
緑の息吹きに小鳥も唄う
ペダルかろやかグングン走る
丘に登れば遠くに見える
あんなに小さな僕らの村さ
夢を語ろう 二人の未来
君はあの夢 僕はこの夢

ラララ 快速 快速
スピイドあげて
ベルを鳴らして
行こうじゃないか
(ゲルニカ『銀輪は唄う』)

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