デイヴィッド・ベネター教授 生きる意味とアンチナタリズム


今回はベネター教授が自国南アフリカ共和国のポッドキャスト「Brain in the Vat」に出たときの音声を紹介します。長髪のマークさんは元教え子だそうでリラックスした雰囲気での生きる意味についてのディスカッションが楽しめます。(もう一人のホストはジェイソンさん)


今回は 37:20〜50:28 の部分を訳してみました。

その前の内容を雑に要約すると、

シーシュポスの神話、さらに神がシーシュポスに「石を転がしたい」と言う欲求を植え付けるという捻りを入れたシナリオによって主観的な生きる意味と客観的な生きる意味について討論を始め、、、

人生の意味には大きく2つのカテゴリがある。

1.  宇宙的、究極的な意味 → これはない
2.  地上的な意味 → これはあり得る

地上的な意味には

1. 個人レベルの意味
2. コミュニティーレベルの意味
3.  人類レベルの意味
があり、

1. は、家族など誰かにとって大切な存在になることであり、多くの人がこのような意味を持っている(悲しいことにすべての人が持っているわけではない)

2. は、地域や何らかの共同体にとって重要な存在になること(医者など)で、1 よりハードルが高い

3. は、ほんの一握りの人が獲得できる。例えば、ペニシリンを発見したフレミング博士など。COVID19のワクチンを開発することになる人もこのカテゴリに入る。

マークとジェイソンによる宇宙的な意味がなぜ必要なのか、個人レベルより宇宙レベルの方が究極の意味だとなぜ言えるのか、芸術や数学的アイデアなどに意味はないのか、といった挑戦とともに討論が続き、やはり宇宙的な生きる意味はないっぽいということになる。

そして、37:20〜50:28 で、それでは我々はどうすればいいのかという話になります。

[ご注意]
最善は尽くしましたがあくまで素人の私訳です。

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マーク:  私たちは非常に高く、おそらく克服することはできない崖の下に立っているように思えます。この事実に直面したとき、私たちは「よし、登れるところまで登って、人生から得られる快楽を最大化しよう」と言うこともできるし、または過酷な苦難に直面して「無駄な努力だ。生まれる前に戻ることはできないしもう行き詰まりだ。しかし、生を続けるかどうかを選択することはできる」と言うこともできます。
 つまり、問題となるのは、人生でできる良いことを最大化しようと努力するか、出来るだけ早く終わらせるかということだと思います。
なぜ自殺をするべきではないのでしょうか?


デイヴィッド:  理由は沢山あると思いますよ。すべてが生きる意味に関係したものではありませんが、まずは生きる意味と関係あるものに焦点を当てましょう。
人生に意味を持たすことはできます。そしてその意味が良いものであるなら、それは多い方が少ないよりいいですね。自ら命を断つと、一般的に言って生きる意味を生み出す機会を減らすことになります。必ずそうだとは言いません。なぜなら時として人は生きることより死ぬことによってより多くの意味を獲得する場合があるからです。しかし、典型的な自殺の場合はあまりそういうことは起こりません。これが起こるのはより多くの他者のより多くの善のために自分の命を犠牲する場合などです。
このように自分の死を通してより多くの意味を生み出せる場合もありますが、それは一般的なことではなく、一般には長く生きるほどより多くの意味を創出できるのです。 
先ほどマークは人生を「崖を登ること」に例えましたが、私はその比喩の効果はその人がどれだけ「崖のぼり」に興味があるかによって異なるので使いません。私は崖に登りたくはないので、崖の下でさまざまな建設的なことを行いたいと思うかも知れません。
また自殺をすべきでない他の理由は、私たちには存在し続けることに関心(interest)があるからです。さらに私たちのことを大切に思っている他の誰かが、私たちが存在し続けることに関心があります。
生きる意味以外にも理由はあります。例えば、快楽です。
生きる意味はないけれど、快楽やその他の「良いこと」を得ることができるとしましょう。もし、生きる意味が得られないか今より多くの意味が得られないとしても、他の「良いこと」を追求する価値があるかも知れません。

ジェイソン:  それらの「良いこと」で十分ではないのですか?

デイヴィッド:  何に十分なのでしょうか? 生き続けるために十分か、ということならその通りです。自殺はすべきではありません。
人生に宇宙的な意味がないからと言って自殺をすることは懸命なことではありません。

ジェイソン:  しかしそれではジレンマに陥ってしまうのではないですか? 「生きる意味」が生き続けるか、少なくとも自殺すべきでない理由として十分であると評価できるなら「それが生きる意味である。以上。」ということで十分のように思えます。
しかし一方で、「いや、実際のところその意味はほんの僅かで、人生から得られる意味は極めて限られている」というのならその意味はほとんど意味がなく、前のマークの「それなら人生を終わらせよう」という問いに戻ってしまうのではないですか?

デイヴィッド:  いいえ、私にはそれはジレンマとはまったく思えません。
「意味」が良いものであるとして、もし少しでも追求する価値のある良い「意味」があるのなら「より少ない意味」より「より多くの意味」があった方がいいからです。
そしてほんの少ししか意味を得られないという事実があったとしても、その「少しの意味」を得るべきでないとか、最大化しようとするべきではない、ということにはなりません。

マーク:  では、ある人が客観的に不幸な状況にあったとします。例えば、強制収容所に収容されて毎日殴られ、人生におけるほとんど全ての快楽が奪われていて、客観的にひどい状態です。しかし、毎日ほんの少しの快楽が与えられます。一滴の蜂蜜を舌の上に垂らしてもらえるとか、優しい言葉を一言かけてもらえるといったものです。
そしてその人はこれらの小さな快楽でもないよりはあった方がいいから生き続けようと思うかも知れません。

しかし、さらに状況を悪くしていけば、いつかは「こんな存在は終わらせた方がいい」というポイントに行き着きませんか? あまりに辛くて、ほんの僅かの意味や快楽では生きている価値がないとか、その他の合理的な理由です。
ズームアウトして人生を見れば、恐らくそれが人生の本当の姿であり、先ほど挙げられた少しの快楽や意味は、人生を続ける価値にも足らないと。

ジェイソン:  今のマークの論点はとても興味深いですね。これまで我々は「良いこと」の限界について話してきて、生きる意味は「良いこと」または「価値のあること」の一つであると確認しましたが、今マークは私たちの人生にいかに多くの「悪いこと」があるのかという問題を提起しました。
あなたはまだこの点についてまだ話されていませんが、あなたも人生には多くの「悪いこと」があると考えていると想定すると、このマークの論点は正しいということになりませんか?

デイヴィッド:  マークのシナリオの特徴は「生きる意味」に関する問題と「QOL(生活の質)」に関する問題が混ざっていることです。この2つの問題の関係については議論がされていて、確かに生きる意味が QOL の向上に寄与することはあります。そのため人によっては客観的な意味を高めるような広範なQOL が欲しいと思うかも知れません。たとえ主観的な評価で「客観的な意味」がなくても、QOL によって客観的な意味にまで拡大することができるという意味でです。
一方で、QOL と生きる意味をはっきりと分けたいと思う人もいるでしょう。
ですから私はまず、このシナリオには互いにオーバーラップしているとは言え少なくとも2つの概念が含まれていることを指摘し、さらに自殺は決して理性的なことではないということを申し上げます。

QOL のみに焦点を当てて見ましょう。QOL があまりにも悪く、生き続けることがあなたのためにならないとします。そのような、QOLがゼロを下回ってしまう場合でも、あなたが生き続けるのに十分な理由を与える「生きる意味」があるということはあり得ると思います。 つまり、生きる意味によってQOLをゼロよりも上に押し上げるということが可能かも知れません。

しかし、意味とQOLという2つの概念を一括して考えた場合に、確かにあまりにも酷い状態に達してしまい人生を終わらせることがより理にかなう場合もあるでしょう。 私が否定しているのは、「一般的に自殺が理にかなっている」という考えです。それは違います。この討論を聞いている人が、その結論として自分の生を終わらせるべきであると考えるのは間違いです。

もしあなたが病気の末期状態にあり、耐えがたい苦しみの中にあり、それを緩和する方法が死んで意識をなくすことしかなく、今の状況では生きる意味を生み出すこともできないというのなら、それであれば安楽死が理にかなっているかどうか考えましょう。 もしかしたら理にかなっているかも知れません。 しかし、ジェイソン、マーク、または私にとって今この瞬間においては、自殺は理にかなったことではありません。
それは私たちの将来の良いことが剥奪されるためであり、自らを消滅(annihilate)させるからであり、人生において生み出すことが可能な意味を制限することになるからであり、自殺をすることで周りの人に害を与えてしまうからです。自殺しない理由は沢山あります。

ジェイソン:  消滅という話が出ましたが、私はそれ自体が悪いことなのかどうかに興味があります。消滅、別の言い方とすると「存在することをやめる」ということが、今後良いことを得られないという事実を超える悪いことだと思いますか?

デイヴィッド:  私はそう思います。これには賛否両論があり、異なる考えを持つ人がいることは知っています。ただ、少なくとも私の感覚では、ほとんどの人々が暗黙的に私と同じ考えを受け入れていると思います。ほとんどの人は存在し続けることを切望します。良いことを経験するためというのが理由の一部ですが、実際には良いことを経験する展望が薄い末期状態にある人でも、生きていたいと思うことが多いのです。このことは、人間の本質あるいは感覚がある存在というものの本質について何かを語っていると思います。
しかし、「それは単に生に対する非合理な欲求で、実際には生きることによる利益はない」と言う人がいるかも知れません。
この問いを解決する方法を私は知りません。この問いを最終的に治める方法はないと思いますし、私自身それを見つけていません。
それがまさに一度存在するとジレンマに陥ってしまう理由なのです。
このジレンマは、ジレンマという苦境に直面し苦しむことになる新しい存在を作らないことで回避できます。こうした考えによってもアンチナタリズムの結論が導かれることになります。


マーク: 消滅することは不可能であるとする考え方もありますよね。
時間の理論で、過去が存在しているという考えがあります。つまり、ブロック宇宙のように時空がブロック化されているとする考えです。それによると、ある時点で存在し、その後に存在しなくなっても、その人は常に「確かな存在」としてブロック宇宙に刻まれることになります。そして、その存在は永遠に、あるいは少なくとも宇宙が存在しなくなるまでは続きます。
このような「私たちは確かに存在し、完全に消滅することはない」という考えは、私たちの生の評価に何らかの役割を果たすと思いますか?

デイヴィッド:  あなたが今にも処刑されるという時に、そう言ってあげますね。そのことがどれだけの慰めになるか見てみましょう(笑)。

ジェイソン、マーク: (笑)


デイヴィッド: 今のコメントは不謹慎でしたね。しかし、私はそのような奇妙な形而上学的な見解が人々の慰めになるとは思いません。
ただ、この観点をずっと掘り下げていくとマークが言った「消滅しない」という概念は私の考え方にも適用できるかも知れません。つまり「より多くの意味を生み出す機会が失われる」という「剥奪」の議論に踏み込んでしまいますが、ブロック宇宙の観点は、消滅に限定されず、(意味を生み出す機会の)剥奪にも適用できますね。

マーク:  あなたの議論は、死には2つの悪いことがあるということですね。
一つは将来の良いことが得られないこと、もう一つは消滅することで、消滅それ自体が悪いということでした。
人々は、自分の死後に作品が存在し続けること、または自分の子供たちによって記憶されていることなどで、「私は現実から消し去られることはない」ということに慰めを見出しているように思えます。
もちろん自分の子供もいずれ死に、自分も忘れ去られ、作品は破壊されることは分かっていても、何か根本的な意味において自分は確かに宇宙に足跡を残したのだ、と思うのです。

デイヴィッド: まさにそれが、「生きる意味の切望」という問題につながるのです。この切望の根元は人間の限界にあると考える哲学者もいます。そして、生きる意味とは限界を超越することです。限界にもさまざまありますが、自分の内に存在する限界の場合は、自分と同時期に生きる他の人々に影響を及ぼすことで超越しようとします。他には自分の寿命に関する限界もあり、この場合はあの世にあっても死に抗うことで超越しようとします。もちろん完全には抗えません。マークが言ったとおり、いつかはすべてが終わるのですから。しかし、少なくとも何らかの意味で死を乗り越えようという考えが、多くの人の動機付けとなります。大多数の人がそうだと言っても良いでしょう。

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※この後、不死の話題や神がいる場合の生きる意味などについて討論が続きます。不死に関しては、不老、健康、快楽、自分にとって大切な人も同じ条件で不死...etc. と際限なく条件を付け加えてさらに死にたいときは死ねるオプション付きならもしかしたら人生はいいものかも知れない。しかし、生まれないよりも望ましいとは言えない。あえていうならどっちでもいい。
神のいる人生という概念は非常に魅力的で理想の人生の一つのバージョンと言えるかも知れないが、神を信じられるかどうかが問題。

そして最後の質問になる 59:27〜からのやりとりを以下に訳出して終わります。


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マーク:  しかし、錯覚状態にあることは、ある意味「美徳」であると言えませんか?
つまり、神がいるかどうかは分からないけど、神がいると思った方がハッピーだから私はそのように振る舞うという人は沢山いるでしょう。
あなたはポリアンナ効果について書かれていますが、ポリアンナ効果とは人々は人生の明るい面を見ようとする傾向があり、その間違った認識のおかげでその人の人生が実際に多少良くなるというものです。ある意味、私たちはこの錯覚を積極的に取り入れるべきではありませんか? それとも、現実を可能な限り正確に認識しようとするべきでしょうか?

デイヴィッド:  この問いについては私の「The Human Predicament」という著書で取り上げています。確かにあなたが言ったようなフィードバックループはあり得ます。
つまり、自分の人生を現実より良いものだと思っていれば、そう思っていない場合より実際に少し良くなるということです。自分が思っている程には良くならないとしてもです。
現実から逃避することで気が楽になるということは確かにありますが、あまりに逸脱することはその人にとってあまりいいことではないかも知れません。
適度な加減を見つけることは難しいと思います。
また、これは自分だけの問題ではありません。
自分の人生を良くする方法があるのなら、原則的に賛成ですが、その過程において他の人々の人生がはるかに悪いものにならないように慎重になる必要があります。
例えば、何らかの世界観にコミットしているイデオローグがいて、自分が理想とする世界はそれに反対する人たちに不幸をもたらすことはないと考えているとします。これには宗教的なものから世俗的なものまで、さまざまな種類があります。
このようなイデオローグは自らの独善性、自分は正しいのだという感覚によって計り知れない満足感を得られるのかも知れません。しかし、度を超えるとそれによって他の人々がさまざまな不幸を被ることになります。
ここでまた、アンチナタリズムのテーマに戻ります。
新たな存在を生み出してしまうほどの錯覚に陥ってしまうと、その過程で多大な害悪を及ぼすことになります。ですから、選ぶことができるなら私は錯覚を採用することはお勧めしません。他の種類の対処方法を採用することをお勧めします。
他の対処法とは、例えば人生の無意味さのことばかり考えないことです。椅子に座って「よし、今から集中して人生の無意味さについて考えよう」と言うのは、人生でより少ない意味を得るための良い方法です。これは生産的ではありません。
一方、「よし、人生とは何なのか分かった。人生は良いものではないけれど人生において自分にできることはある。これからも時折、人生を対局的に省みることはするけれども、同時に少しでも生きる意味を生み出すために自分にできることをしていこう。」このように思うことが、より賢く人生のかじ取りをすることだと私は思います。

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