自分らしく生きたある若い女性の話、としてのリンドグレーン。【その1】

公共図書館で働いていた時、保護者から一番よく尋ねられたのは、『アストリッドリンドグレーンの作品がどこにあるか』だった。もっともよく尋ねられた作品は「はるかな国の兄弟」と「山賊の娘ローニャ」。ピッピやエーミルも大人気なことは間違いないが、特にこの二つの作品は、子どもとぜひ一緒に読みたいと思う親が多い。デンマークの作家ではない彼女の作品は、児童図書館でアンデルセン以上に圧倒的なポジションを確立している。

正直に告白すると、あまりにもよく知られている作品であるにもかかわらず、わたしはリンドグレーンの作品にあまり興味がなかった。こんなにも世代を超えて、人々の心に残っていることをあまりよくわかっていなかった。そんなわたしが、彼女の生い立ちについて知る機会が訪れたのが2016年夏。彼女の生まれ育った家Näsを訪れた時だ。「やかまし村の子どもたち」にも描かれている、ほのぼのとした子ども時代のあと、彼女が10代で、30歳年の離れた職場の上司と関係を持ち、未婚の母となったこと、子どもを異国の養母に3年間も預け、ストックホルムで一人貧しく暮らしていたことを知った。

コペンハーゲンに戻ったわたしは、その後、彼女と読者の一人であった少女サラとの文通を紹介した本「リンドグレーンと少女サラ--秘密の往復書簡」と、彼女の生涯について書かれた伝記、 "Denne dag, et liv" (デンマークの伝記作家 Jens Andersen 著、日本未訳)を読んだ。そしてさらに彼女についての様々なエピソードを知り、彼女が生きていた時代の様々な縛りから自由になろうともがき、自分の人生を生きようとしていたことを知った。

これから書く長い話は、1920年代のスウェーデンで女の子だったある女性の人生の、たった10年ほどの、さらにそのほんの一部を紹介しています。伝記が未訳なこともあり、まだ日本語では明らかにされていない出来事も多く含みます。愛と孤独と、そして子どもの気持ちを何より大切にし続けた若い彼女が、どのような人生を経て、今でも北欧で絶大な人気を誇り続ける作品を生み出したのか。児童文学、女性作家に興味がなくても、むしろ興味がない方にこそ読んでもらえたら。また、もし今の時代に窮屈さを感じている方にも、何かを感じ取ってもらえるはず。そう思って書き起こしました。

アストリッド・リンドグレーン Astrid Lindgren
1907年11月14日、スウェーデン南部にあるスモーランド地方の小さな町、ヴィンメルビー生まれ。仲良しの兄と2人の妹の四人兄妹。教会の敷地内にある農場で暮らした。家族は農業を営み、父はその土地では信頼の厚い人、母は家業、家事、育児に勤勉で、貧しい人々を助けたり、大変信仰深い人だった。子どもの頃はアストリッドにとって、自然の中で「遊んで遊んで遊び倒した」時代。その様子は「やかまし村の子どもたち」にも描かれている。

10代のアストリッド

子ども時代、すでに文才があったアストリッドは、15歳で学校を卒業後、地元の新聞社で働き始める。彼女の文才に目を付けたのは、当時アストリッドと同じ学校に子どもが通っていた新聞社の社長。研修生として雇われた彼女は、電話番から広告文、校正など様々な仕事を覚え、少しずつ長い記事も書かせてもらうようになる。

そんなアストリッドは、16歳でジャズに目覚め、地元のダンスホールにも通うようになる。そして17歳で髪をとても短く切る。1920年代前半のスウェーデンでは、まだ女性は長い髪が一般的だった。彼女の暮らす町、ヴィンメルビューでも、まだ誰一人として髪を短くしていなかった。

アストリッドが髪を切ったのは、当時、ヨーロッパを席巻していた文学作品、ヴィクトール・マルグリットの「ギャルソンヌ」の主人公、モニークの影響。少年のような髪型でジャケットとネクタイを身にまとい、その当時は男性だけがしていたように堂々とたばこの煙をくゆらせ、酒を飲む。そんなモニークに憧れた女性たちは、伝統的な家族というものよりも、自由と自己決定できる人生を選ぶ女性、結婚しても、夫と対等な関係を望んだ女性、つまり、女性に求められていた古い女性像からの解放を夢見ていた。好奇心が強く読書好きで、新聞や映画などを世界の窓としていたアストリッドも、次第に影響されていった。

髪を短くして帰宅したときの家族の反応を、アストリッドは忘れられないという。彼女がキッチンに足を踏み入れた時、家族の誰一人として言葉を発することなく、ただ、彼女の髪を見ていたのだそう。

妊娠と出産までの日々

新聞社での仕事はとても順調だったものの、アストリッドの上司である新聞社の社長、レインホルト・ブロムベルイ (Reinhold Blomberg)は、次第に彼女自身にも好意を抱き始める。1993年に当時を振り返り、テレビのインタビューに応えたアストリッドは「女の子っていうのは本当にばかよね。だれも、それまでわたしのことをそこまで好きになってくれた人はいなかったの。でも、彼はそうだった。それはもう、ワクワクしましたよね」と答えている。

新聞社で働き始めて1年半後、19歳でアストリッドは妊娠する。1920年代のスウェーデンは、性に関する政策が他の北欧よりも遅れていた。当時の法律では、避妊具を売ることは許可されていたが、コンドームやペッサリーなどの宣伝は法律で禁じられていた。ほとんどの女性が避妊の方法を知るすべもなかった。メイドとして雇われた10代の女の子たちが、男性の性欲を満たすために利用されることも少なくなかった時代。まだ人工中絶が合法化(1975年)される何十年も前のことだ。
1910年に社会民主党のHinke Bergegren が働く女性に向けた講演で避妊具について語ったところ、保守系からの大ブーイングを受け、投獄されたというエピソードもある。その後、法律が大急ぎで改定され、1930年代始めまで、宣伝だけでなく公の場で避妊具について言及することも禁止された。

1926年春、アストリッドと、当時既婚者だったアストリッドの上司レインホルトは秘密裏に婚約する。これは、アストリッドのお腹の子どもが非嫡出子とならないようにするためだった。しかしその一方で、レインホルトはまだ当時の妻と婚姻関係であり、更に離婚調停中であったため、この婚約は絶対に公にしてはならないものだった。

1926年9月、アストリッドは妊娠を周囲に隠し切れなくなり、大きくなりつつあるお腹を抱えて一人ストックホルムへと引越す。そして秘書教育を受けられる学校へ入学する。そこで、タイプライティングや経理、貿易事務、そして将来子どものためのお話を記録するために大活躍することになる速記法などを学んだ。

レインホルトは1922年頃から当時の妻との離婚を望んでいながら、一方でメイドの外国人女性とも不倫を重ねていた。妻のオリビアとの離婚調停は、別居後2年が経過した1926年9月に決着が付くと思われていたが、妻が新しい証拠をより詳しく調べる必要があると申し出たことで延期。さらにその2か月後にも、夫の不倫の事実について更に詳しく調べたいと申し出てさらに10月末まで延期された。

その間、レインホルトはアストリッドが秘密裏に出産できる産院を見つけ、そこへ匿名で問い合わせをする。その後アストリッドも産院へ手紙を書き、出産へ向けての手続きを行った。当初は出産後、子どもをスウェーデン国内の養母に無期限で預けるつもりでいたアストリッドだったが、たまたまストックホルムで当時唯一の女性弁護士が、望まぬ妊娠をした女性たちを助ける活動をしていることを知る。その数か月後に、アストリッドはこの女性弁護士の助けを借りることになる。

妊娠が発覚したことをアストリッドの両親はどう思ったか。教会の敷地内で暮らす信仰深い両親について、アストリッドはこう語っている。

「わたしの父と母がとても悲しんだことは不思議なことではありません。未婚で、妊娠することが不幸だという考えでもって育ってきた農家の人間に、悲しまないでということはできないのです。父も母も、さほど何も言いませんでした。あまり言うべきこともなかったのです。とにかく、二人とも正直な気持ちを示して、それでもできる限りわたしを助けてくれました。」

レインホルトが見つけてきた産院で秘密裏に出産をする予定だったアストリッドは、10月31日に到着するという手紙をだしたものの、レインホルトの妻オリビアが、10月28日に三度目の調停延期を裁判所に申し出たため、産院行きを取りやめることになる。12月9日へと延期された離婚調停の際、もし子どもが生まれていた場合、その子の苗字がブロムベルイであることは役所の登録を調べ上げればわかってしまう。離婚調停が不利に終わらないために、子どもの存在をひた隠しにしなければならなかったレインホルトにとって、これは致命的な延期であった。

10月30日、スウェーデンでの出産が難しくなったアストリッドは、以前、ふとしたことがきっかけでその存在を知った女性弁護士を訪ねる。Eva Andénという名のこの弁護士に、アストリッドはまずガムラスタンにあるクリニックを紹介される。そこは未婚で妊娠した女性が、助言や急な手当てを受けられる小さなクリニックだった。チェックを受けた後戻ってきたアストリッドの話に、弁護士は丁寧に耳をかたむけ、そしてコペンハーゲン王立病院にある産院での出産を勧める。さらにその産院を通じて、弁護士はコペンハーゲンの優秀な養母にもコンタクトを取る。それが、アストリッドが生涯忘れることのできないほど感謝しつづけた女性、マリア・ステウンス(Maria Stevens) である。

弁護士からの助言について、アストリッドはレインホルトに連絡する手紙(もちろん直接彼宛には送れないため、父の名前宛に手紙は出された)の中でこう書いている。「弁護士のエヴァは、終始丁寧にわたしの話を聞いてくれました。そして、自分の子どもはできる限り責任を持つべきですといいました。だから、子どもを手放すために彼女がわたしたちを助けてくれるのではないの。ただ、一人で外国へ行くなんて、本当に恐ろしく辛いことになりますよと言われました。わたしは、きっと何とかなるとは思うけれど。」

1926年11月21日、アストリッドはコペンハーゲン中央駅に降り立った。それからの3年間、アストリッドは、この街に暮らす息子に会うために、幾度も通うことになる。

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さわぐり

デンマークで暮らして16年、公共図書館と学校図書館で働いて7年が過ぎました。北欧の絵本のこと、子ども図書館のことから、子育て、教育、社会のことなど、読んだり聞いたり感じたことをあれこれ書いています。 アイコンはおおえさきさんhttps://note.mu/oh_yeah_saki

デンマークで読んだこと、聞いたことと、考えたこと

読んだ本のレビューや、新聞、ラジオなどで読んだり聞いたりしたこと、実際体験したことから、デンマークの社会に関することを伝えたり、考えをまとめたりするノートです。
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