[性的表現あり]プシュケの聲[小説]

 帰ったのは終電。
 下半身がむずむずと熱を帯び、高ぶる夜だった。普段なら、十八禁の動画を販売しているサイトのサンプルを見る。もしくはこっそりと電子書籍で買っているエロ漫画を読んで気をなだめるのだが、その日は仕事の疲れで体は悲鳴を上げるように重い。自分の性処理をしている場合でなかった。しかも翌日は恋人の和輝と会う約束をしている。
 それなりに早い時刻で待ち合わせしていたので。志乃はくすぶりがおさまらない体をむりやり押さえ込んで、眠りについた。

 和輝とは付き合い始めて、二年近くが経つ。隣にいて心臓が落ち着かないくらいどきどきするということはなくなっていた。ただ隣にいるとしっくりとくるというか、落ち着くのは感じていた。
 二人は猫カフェに来ていた。
 ちょんちょんと猫の気を引くおもちゃを和輝は触っていたが、ぼそりと呟いた。
「猫、来ないな……」
 猫の気をおもちゃで引こうとしているのは、別に和輝だけではない。周りの人もおもちゃや、餌で猫を釣ろうとしている。その中でたまたま和輝の周りに猫が近づかない。
「運がなかったのよ」
 志乃は紅茶を飲みながら言った。何もしていないのに、志乃の周りには猫が匂いをかぎに来ている。何もしない猫カフェの客が珍しくて、逆に興味を湧いたのかもしれないと志乃は思った。
「猫は難しいなぁ……なんで志乃のところに来るんだよ」
「あー、猫って圧に弱いのかもしれないね」
「圧?」
「ほら、本来は一匹で過ごすのが当たり前だから、猫にすれば。不必要に干渉されるのは圧なのよ」
「ふぅん。つまり何もしない志乃の方が圧を感じないと」
「そうかもね」
 和輝は面白くなさそうである。冗談めかして笑った表情であるが、憮然とした感情が隠しきれない。和輝は同い年なのだが、少し子供っぽかった。そこが志乃は可愛いと思ってしまうのだが、やや将来が不安である。
「俺、結構猫好きよ? 可愛がってやるのになぁ」
「猫の気持ちを無視した可愛がりなんて、すぐに見抜かれるわよ」
 和輝は大きく背伸びをして、それからうなだれる。
「やれやれ猫は賢いな。こんなに可愛いのになぁ」
 和輝は近づいた猫の背中に手をやったが、するりと澄ました顔で、猫は和輝の手を避けてしまった。和輝は声を上げる。
 しょうがないなぁと思いつつ、志乃は時計を見る。終了予定にした時刻が近づいている。
「まぁまぁ、それよりももう少しで出ないと」
 志乃は腰を上げる。
 志乃の指先をぺろぺろと舐め始めていた猫は、志乃の挙動に驚いて、びくりと背筋を震わせた。

 志乃は申し訳ないと思いつつ、急ぎたいような焦っているような体の感覚を少し持て余していた。時刻はそれなりに遅い。これからご飯を食べて、少し話をしたら……ホテルに行っても問題ない時刻だ。あぁ、まったく恥ずかしいことに。機能の処理しなかった性欲が、和輝が隣にいることで煽られている。意識してしまうとはっきりと感じる体の情動。中に、そんなに中に挿れて欲しいのかと思ってしまうと、我が身が情けない。
 志乃は人知れず、息を吐いた。自分でも引きそうなくらい、熱っぽい吐息だった。

 食事を終えて、だらだらとホテルに入ると、和樹はテレビがどんな番組を映すか調べていた。地上波の番組から、ラブホらしくAVまで。音楽にまつわる番組もあって、興味本位なのか和樹は番組欄を見る。クラシックのコンサート映像か、洋楽のライブ映像しかない。
「極端すぎないか」
「極端だね……」
 シャワーを互いにあびて、簡単な部屋着に着替えた。和樹は大きく腕を伸ばす。
「寝るかぁ」
「え、あ、うん」志乃の声はわずかに裏返る。
「おやすみー」
 志乃の戸惑いをよそに、和樹は横になってしまった。
確かに一日遊んでいたので疲れただろう。志乃とは気軽に遊べる距離で暮らしているし、そう「今日はまぁ、いいかなぁ」と思うことは考えられる。だが、志乃は思わずぽかんと口を開けてしまった。まさか、こんなにあっさりと眠ってしまうとは。思いも寄らなかった。真由だって、シたくない時はある。好きでも愛していても体が追っつかない時がある。そのことを思えば。何にもおかしいことはない。だけど……志乃の体は、火のついたたばこだ。吸って吸って欲しいのだ。身を燃やして、煙を出して、それを相手の肺へと入れたいくらいだ。和輝が欲しい。自分の中でくすぶっていた熱が、体中に伝導していくようだ。
 だが和輝をどうすればいいのか。志乃の方から求めるのは珍しいのだ。いつも和輝となんとなくそんな雰囲気になって、なんとなくやっていることもある。改めて考えると、和輝を自分は色々な意味で起こそうとしている。それは思った以上に、どういう顔をすれば良いのか分からない。「誘う」ということだ。志乃は頭が痛くなってきた。
 和輝の体のポイントは分かっている。弱い場所も付き合っていくうちに理解してきた。
志乃はとりあえず、和輝の背中に胸を押しつけた。和輝は「んー」と声を上げたがそれ以上の反応はない。これは腕を回してもあまり効果がないように見える。
 性的に誘うということは、どういうことだ。志乃は段々困り果ててきた。何故に好きで、それ故に体が高ぶるというのに、それをおさめるためにこんな苦労をしなくちゃならない。
そういえばと志乃は思う。和輝は耳が弱かったな。やたら感じてしまうポイントのようだ。志乃は困りながら、和輝の耳を甘噛みした。耳たぶをぴちゃぴちゃと舐めたり、食んだり、ねじりこむように耳の穴に舌をねじりこむ。和輝を味わうような感じだ。これはこれで、幸せな感じがした。唾液を舌にまとわりつかせて、思う存分耳を味わう。
「ん、んん……なぁ、なに。志乃」
「何って……何って言うか」
「そうされるの、弱いんだよぉ」
「知ってるって」
 むしろ分かって「やった」というのが正解だ。すると和輝は、志乃の腕を導いた。下半身はびくっとするほどに固くなっていた。志乃の顔が思わず苦笑いする。あまりの反応の良さに、誘った志乃が驚いたのだ。黒ひげ危機一髪を思い出す。あれは剣を刺していくゲームだが、いずれは海賊が樽から飛び出るゲームだ。しかし飛び出るのが分かっていても、飛び出たら飛び出たらで、思わず驚いてしまう。その感覚を思い出していた。
「どうしようかぁ……」
 和輝は困ったような声を出した。しかし薄明かりで浮かび上がる表情は、少し笑っている。完全にこちらの思惑は把握したような顔だ。何だろう、この試される感覚。和輝はそれっきり言葉を出さなかった。ただ志乃に視線を送っている。志乃が言わないと、何もしないのだろう。志乃は若干のまどろっこしさを覚えていた。なんだろ、これが儀礼なのか。この心の駆け引きを楽しめば良いのか。志乃はそこまでの余裕もないし、とにかく何でも良いから「抱けよ!」と言いたいくらいだ。しかし心の中でぶちまけていても、言葉にすることが出来ない。志乃はうつむきそうな自分を必死にこらえて、何とか和輝と視線を交わす。そしておぼつかない口調で。
「シたいです……和輝と、シたい……」
 和輝はその言葉を放った途端に、志乃をぎゅっと抱きしめた。志乃の目は白黒とする。。
和輝は感心したように言葉を吐いた。
「志乃も成長したよなぁ、色々と」
「え」
「エッチになったなぁ……こういうの、好きなの?」

 何だろう。志乃は強烈な違和感を覚えていた。和輝の言葉が、自分の心の繊細な部分を芝刈り機のように刈っていくような気がしたのだ。でもそれが一体何なのか、志乃は分からなかった。何だろう、ああと考えていると……胸を揉みしだかれ、深く口づけをされていく、疼いた体は和輝を欲していた。志乃は和輝に腕を回し、背中をぎゅっと引き寄せた。

「竹内さんって、今の方とは長いの?」
 食堂で志乃は弁当を食べていた。志乃の職場は小さく、狭い食堂で皆が集まって食べるというアットホームさが残っていた。志乃はその言葉に頬をひきつらせながら、小さく頷く。
「はぁ……まぁ、そうですね」
「もしかして、結婚の予定とかも」
 志乃は正直に思う。それは完全に人の個人的な話だ。自分からそんな話すものではない。だが自分にぶしつけと思える質問をしてきたのは、所属している部で長く君臨する女性だ。五十代、とにかく有能、そして押しつけがましい。制服をきちんと着こなし、髪の毛も綺麗にまとめている。姿形は上品なのに……志乃は弁当を食べる手を止めた。
「そうですねぇ。よく分からないですけど」
「竹内さんもそろそろ結婚したら、とっても人生観が広がると思うの。そうね、私達の話すことが色々と分かってくるんじゃないかしら」
 志乃の所属している部は志乃以外は皆、既婚者で子供を持っている。子育ての話題が良く出るが、志乃はあまり分からないので口を出していない。
「そうですかぁ」
 志乃は感慨を込めた頷きをして、さすが、さすがあなたさまの言うことは素晴らしいと言わんばかりの態度をした。とりあえず弁当を食べさせてくれと思った。
 休憩時間はそれほど長くないのだ。正直、この上司の言うことをまともに聞いた方が負けだ。子育てをすることを尊び、結婚していないことをこの世の不幸のように残念がる。 志乃と入れ替わりのように退社した女性がいたのだが、どうもこの上司の無遠慮な発言に傷ついて辞めたようだ。
 上司は志乃の態度に満足したかのように頷く。それからニコニコと。
「きっとあなたも子供を産むんでしょう。若いうちには頑張った方が良いわ」
 色々と香ばしさを感じる。志乃は乾いた笑いをあげた。愛想はよくするが、こいつの満足のために結婚も子供も産みたくないと思う。志乃は仕事の後に酒が飲みたくなった。もし暇なら、和輝を呼んで、行きたかったバーにでも行こうと思った。
 それにしても……志乃は胸に手をやった。
 子供を作るのを頑張った方が良いとは……。まぁ、それも一つの主張だろう。ただ何というか……セックスに励めと安易に言われているような気がする。胸がチクチクとする。棘のついた草が、ぶつけるように当たってきているみたいだ。それほど痛くはないが。気になりはする。すると休憩スペースの端で、週刊誌を読んでいた男性社員が、上司に声をかけていた。
「若いアイドルが、俳優を誘惑したらしいですよ」
 上司はすくりと背筋を伸ばす。
「あら、それははしたないわね」
「何でも、夜の居酒屋で飲んで、そのままホテルに……とか。いや、大胆だなぁ。この子」 下を向いて小さく笑う男性社員に、上司は少し憤慨した声で。
「まったく女が誘いにかけるなんて、はしたないにもほどがあるでしょ。親は教えなかったのかしら……」
 志乃は「あんたが言うなよ」と思ってしまった。さっき、志乃に子作りをすすめた人とは思えない発言である。でも、それはあの上司の中では矛盾がないのだ。子作りのための性行為と、そうではない性行為、そのどちらに価値も悪も善もないだろうに。ただ「行われた」だけだろう。
 志乃は気づいていた、いつも以上に上司の発言にイライラしている。その訳知り顔にパイを投げてやりたい程度に。早く仕事を切り上げよう。志乃はご飯を急いで口に入れた。

 バーで軽く飲むと満足してしまった。一杯飲んだだけで心が穏やかになる。酒は最高だ。気持ちよくするという意味では志乃を裏切ったことがない。暗く赤いワインをゆっくりと飲みきると、早々に和輝と店を出た。和輝は家でもう少し飲まないかと言う。心は満たされていたが、宅飲みも悪くない。
「良いよ、行こうか」
 すると和輝は嬉しそうに志乃の手を取った。

 ほどほどに飲み進めてしまうと体が重くなる。志乃は大きく腕を伸ばし、和輝のベットに横になった。意識はちゃんとあるのだが、ぐだぐだとしたくなる状態だった。適当なことを適当に口走ったり、ごろごろと狭いベットで転がったり。かなり好き放題にしていた。「志乃」
 和輝が声をかけてきた。志乃はその言葉を曖昧に返す。頬が熱い。うなじにかけて熱もこもっている。小さく鼻歌まで歌い出したところで、和輝が急にのしかかってきた。
 和輝の体は温かかった。男らしい、角張った体、重みもずしんとくる。
「どうしたのー」
 志乃がぼんやりとした口調で言うと、和輝は志乃の形の良い胸に頭を預けた。
「志乃は仕事はどうなの? 明日は?」
「明日はね、休みだよ。じゃなきゃ飲めないし」
「そっか……」
 和輝は胸に頭を預けたまま、志乃の背中に回した手に力を入れた。それから甘えた猫のように。
「シよう……?」
 柔らかな声だった。欲に濡れた甘い声……和輝は志乃の耳朶を噛む。この間の意趣返しのつもりだろうか。志乃はそのこそばゆさに目をつむった。水音ともに、和輝の下半身が固くなっているのを感じる。ずいぶんと大きい。もしかしたら飲んでいる時から情欲を高ぶらせていたのかもしれない。
「あ……」
 志乃はわずかに声を漏らした。すると和輝は小さく声をかける。
「……駄目?」
 駄目じゃない、和輝から求められるのは嫌いじゃない。むしろ求められているような気がして気分が良い。自分の体をこの男は求めている。きっと人によっては体が良いのかよとなりそうだが、それならどの女だって良いはずだ。和輝は「私」という体を求めていることに、充足感を覚えていた。ただ、今の志乃は、自分の感覚と衝撃に戸惑っている。
 志乃は和輝を卑猥だと思わなかったのだ。エロいだとか、セックスが好きなのとは思わなかったのだ。少し笑ってしまうこともなかった。男ならば、それが当然だと思ってしまう自分がいたのだ。
「志乃?」
 和輝は返答をしない真由に声をかけた。その顔は、どうしたのと問いかけている。志乃は慌てて頭をかぶり振った。自分の考えに驚いてしまっているなんて言えない……。
「何でもないよ……いいよ」
 和輝は嬉しそうに頷く、そして服の隙間から手を差し入れて、脇腹をなで始めた。

 何だろうと和輝に体をまさぐられながら、志乃は思う。
どうして、自分は和輝の発言に違和感を覚えないのだろう。志乃の言葉に、和輝は「エッチになった」と言った。その言葉に悪意はなかったのだろう。だけど言葉自体は、志乃の欲情を揶揄する響きがあった。和輝は面白かったのだろうか、志乃の欲情はそれほどおかしいことだったのだろうか。そういえば子供の頃は、男性は狼だから気をつけなさいと、親に言われたものだ。それは男性の持つ力の強さに警戒しなさいということだと思っていたが、大人になればさすが認識は変わる。あれは襲いかかる性欲には注意しなさいと言うことも言っていたのだ。だがそんな親も今では、上司のように、結婚について口を出し始めている、適齢期とか孫を産むタイミングとかをやきもきしているようだ。
 それにしてもだ。
 女は男の性欲を受け止めて、女の性欲は男はどうしているのだろう。刺激を与えるカンフル剤? カンフル剤だから、笑うのか。分からない、よく分からなくなってきた。

 ぐっと腰を動かして、和輝が中に挿れてきた。一瞬その質量に志乃は目をつむる。強い律動。最初はそれの勢いに悲鳴のような声を上げてしまったが、やがて肉と肉同士が絡み合い、和輝のソレを受け止められるようになる。志乃の口から自然に、普段では想像がつかないような、かすれた甘い声が口から漏れ出た。
 志乃は背中に回した腕に力を込める。それで志乃の様子を察知したのだろう。和輝の動きは早まった。

 果てるのはそう遠くはないだろう。志乃も突き上げるような快楽に声が止まらない。自分の中に、はっきりと和輝を求める、情欲がかき立てられている。そうだ、男が狼というなら、自分は蛇だ。飲み込むように和輝という存在を欲している。セックスを通じて体を触れあわせて、もっと感じていたい。それは志乃にとって、何もおかしいことではなかった。心からの訴えだった。だからこそ、この突き上げるような思いを。
「エッチだなぁ……」と片付けられたのに、体が震える。唇を噛みしめる。この虚無感に近い、暗い灰色の空から落ちる雨を見るような、哀しみはなんだろう。

「しばらく会えない……?」
 志乃はぽかんと口を開けて、ラインの連絡を見ていた。
和輝から、連絡が来た。どうも風邪を引いてしまったらしい。強い風邪らしく、和輝はうつしたくないと言ってきた。風邪が治っても、しばらく仕事も忙しいらしい。志乃と会えないことを、和輝は申し訳なさそうだった。
 志乃も仕事は忙しい時期だったし、和輝の様子に嘘はなさそうなので、大丈夫だよと返した。

 それから三週間が経った。志乃は無言で、タブレットを見ていた。内容は電子書籍で買った官能小説だった。最近女性向けの官能小説が売られることもあって、志乃はたまに買っていた。とにかく女に優しい男達、ほどほどに危険な香りがする男達に優しくされるのはどうでもいい。志乃はページを飛ばして、エロシーンを純粋に読んでいた。男性向け官能小説を志乃は読めるのだが、男性側の態度にたまに辟易してしまうので、女性向けの小説を読んでいる。志乃はまっすぐな視線で黙々と読んでいる。数冊読んでいるうちに股間の中が濡れているのを感じていた。だが志乃は指をその中に押し込むことがなかった。志乃は自慰行為が下手だった。どこを押せば気持ちいいのかよく分からない。男はその分表に出ているのが楽だなと思ってしまうが、体の構造上文句をいってもしょうがないと思っていた。自慰行為がうまければ性処理も、もう少しうまかっただろう。指が良いところまで届かないのも難点だった。
 昼間、職場でパソコン作業をしている志乃は、真面目一徹といわんばかりの仕事ぶりだ。仕事は楽しい、人間関係で思うところはあるが、それでも仕事がある限りは頑張りたいと思う。それが終わって疲れきった頭を癒やすのが「官能」とは、子供の頃は思わなかっただろう。でも三大本能が満たされないのは、志乃にとっては駄目なのだ。食べて、寝て、シて、それで心や体は満足する。女の子がそんなことに興味を持つのははしたないのに、女になれば子供を作るためにために「求められる」それだけじゃない、性欲を持った人間に「求められる」ならば女が欲に興味を持つことの何がはしたないのだ。何も知らない初心な方が危険すぎるだろう。志乃はそう思いつつ、その反面やけくそになっていた。
 ああ、でもあいつは、誘ったら、嬉しそうに「エッチだな」と笑うんだなと!
 悪意も他意もないからと、その軽率さに何も言えないのが、志乃は嫌だった。でもついに言えなかった。

「志乃ー。珍しいねぇ、うちの飲み会に来るなんて」
 友達の中でも付き合いが古い真理子の家に志乃は来ていた。彼女は酒好きなのだが、酔えば酔うほど口があけすけになるので、宅飲みを好んでいた。そして友人を集めて宅飲み会を開いていたのだ。
「今日は誰が来てるの」
「んー、香澄だけだよ。サシ飲みになるかと思ってたから、来てくれて嬉しいー」
 香澄もよく知っている友人だ。和輝に会えないけれど、会ってもフラストレーションがたまる現実に、モヤモヤしていた。友達の宅飲み会で気を紛らわすしかなかった。
 カクテキやレバニラ、サラダに、ガーリックライス。真理子はお酒を純粋に楽しめるように、料理を買ってきたり作っていたりした。
 とりあえずビールで乾杯する。その後は好き好きのペースで酒を飲み始めた。
酒が進むごとに色々な話になっていく。その中で話の主題になったのは香澄と彼氏の関係だ。香澄は彼氏とうまくいっていないらしい。連絡をなんとなく取り合っていないという話になった。
「なんかさぁ……駄目になっていくって感じなのよ」
「そんな風になった原因とか分かるの?」
 香澄はうーんとうなって、スクリュードライバーを一気に飲んだ。ウオッカが効いているお酒、後でぐんと酔いが頭に回るに違いない。
「夜の相性がよくなかった。私のせいかもしれない」
 それに反応したのは真理子だった。
「なんで、そうなるの」
「なんでって……説明が難しい。男のアレって固いじゃん……それがお腹に響いて、エッチとかが厳しかったんだよね。私」
「ちゃんと解きほぐせよ……彼氏」
 真理子は泡盛でろれつが回っていない。
「まぁまぁ、真理子。泡盛こぼれちゃうよ、落ち着きな」
 志乃がティッシュを差し出すと、真理子は鼻が出たのか、勢いよく鼻をかんだ。
「だってぇ、女の体、考えてないんじゃないの。香澄の彼……」
「さぁ、そこまで香澄は言ってない気がするし。分かんない」
 困ったように志乃は香澄を見る。すると香澄はウオッカをカップになみなみ注いでいた。リンゴジュースも入れている。
 そして思い詰めた顔で飲み出したので、志乃は思わずその腕を止めた。
「や……やめよう。香澄」
 香澄はどうすればいいのか分からなそうに、眉尻を下げた。
「だって、あいつ、わりと強引で……」
「やっぱそうだ! クソ彼氏じゃん!」
「普段は優しいのに、どうしてそうなるのか分かんなくて」
「はー! 猿だー猿なんだよ、その彼氏」
「真理子! 変に煽らないで、口閉じて!」
 志乃が怒るとさすがに真理子は、肩をすぼめて口を閉じた。
香澄は震える声で言葉を続けた。
「私、彼に合わせられない自分が駄目なのかなと思った。彼が感じてるのに、私全然気持ちよくないんだよ」
「それはだいぶきついね」
「どうにか、なんないのかな……」
 志乃の言葉にしなだれるように、香澄は言葉を落とした。
しん、と宅飲み会の雰囲気に静けさが宿る。言葉を探すが、良い言葉が見つからない。霧の中で、一個のリンゴを探すようなものだ。どうしたらいいのか、酒の酔いでうまく頭が回らない。志乃は酒をちびりと飲んでは、思案に暮れた。
 すると突然、真理子が声を上げた。あまりに素っ頓狂な声に、志乃は目を剥く。
「ど、どうしたのよ。真理子」
「いやさ、急に思ったの……香澄って、なんかあんまりセックスに興味ないのかなって」
「興味がないと言うより、苦手意識が強いかな。だってどう頑張れば気持ちよくなるのかとか、考えちゃうし」
 真理子はふむと言って、部屋の片隅を探り始めた。志乃はどうしたのだろうと思った。そして真理子の出してきたものに、ぎょっと目を見開いた。
「じゃあさぁ、まずは自分が気持ちよくなった方が良いよ。彼氏で気持ちよくなんないなら、こういうのもあるし」
 床に置かれたのは、ローションにローター、電マだった。あまり性的な事情に詳しくない志乃でも分かる。大人のおもちゃの数々である。
 香澄は見えている光景についていけないのか、絶句している。
「こんなの買ってたの。真理子……」
 志乃は恐る恐る言った。それにあっけらかんと真理子は頷く。
「いやさぁ、快楽のために男を買うのも、なかなか金がしんどいと思って。おもちゃを使い始めたんだけど。これがまたなかなか面白くて、つい買ってしまうんだよねぇ」
 香澄は真理子の発言に口には出さないが、引いている。志乃は逆にすごいなと思ってしまった。わりと真面目に感心していた。
「自分のイイところを探すには、オナニーが一番だと思うんだよねぇ。でもさぁ、指だとなかなかなところがあるじゃん。こういう時、おもちゃに助けてもらってるの」
「機械にほぐされるのがいいの?」
 香澄は呆然とした様子で言う。
「んー、機械だからの利点もあると思う。機械自体は人間と違って疲れないし、果てないし、人間ってそういう意味では、勝手だからね」
 真理子の言葉にずくんと、大きく志乃の心が疼くのを感じた。人間は勝手。そうだそれは間違いないだろう。言葉一つで人をあっけらかんと傷つける。でもおもちゃはそんなことをしない。ただ従順に動くだけ。
 それは志乃の悩みを大きく前進させるような言葉だった。まったくそんなことを考えていなかったと志乃は思う。
 真理子の言葉に香澄も少し興味を持ったようだ……何かを言おうとする。それを遮って志乃は言った。
「それってさ……真理子、どこで買ったの……?」
 志乃の中で、何かが動き出していた。

 志乃は緊張を覚えながら包みを取っていた。箱には仰々しいほどの説明書きやら、性行為を煽る文句。端的に言えば一目で分かるほどに卑猥なものだと分かるデザインだ。
 大人のおもちゃ屋なんて行くのは初めてだったし、入り口で思わずためらってしまったが、いざ入ると、種類が豊富で、細かな説明もあった。客は男性も多いが、カップルもいた。 おもちゃの見慣れない形に、志乃はさすがに恥ずかしさとためらいを覚えたが、いざ商品を調べ出すと、正直見入るものがある。人間、性への追求がとてつもないものなのだなと感心してしまうぐらいだった。その中でも、ローターを手に取る。オーソドックスな卵形だ。
 ネットを探すと、いくらでも「適切な使い方」を書いている。初めて、そういえば買うものに迷いがある時、いつも和輝に相談していた。しかし今回は迷いはしたが自分で調べて買った。まぁ、買うものが買うものだ。言えば、安直に志乃をからかうのが目に見えた。「お、もしかして足りないの? おもちゃが欲しいくらいに?」
 正直、その軽薄な口をどうかしたくなる。どうして人の性の欲求を、からかうようにしか受け止められないのか。志乃はからかうように、和輝の欲求を受け止めたことがないのに。納得がいかなかった。

 ハエの飛ぶような音に似た音が卵からこぼれる。ぶるぶるとローターは震えた。意を決し、志乃は下着姿になった。そして胸の先に震える卵を押しつけるように当てる。
 息を抜くように声が漏れた。気持ちいいよりはくすぐったい。官能の度合いが低いカラのように感じた。これからどんどんとおもちゃで自分は反応するのだろうか。
 疑問に思ってしまうが、それ以上に志乃の心には安寧が訪れていた。

 静か、静かなのだ。
和輝の志乃の性的欲求を面白がるような声もない。煽られることもない。ただ、静かに、くすぐったいような快感が訪れている。こんなに安らぐ気持ちで性が満たされたのは、あまりに久しぶりだった。何だか笑ってしまう。白い液体に、青の絵の具を落とすような哀しさで、笑ってしまう。
 細かい息をこぼし、じっくりと体をおもちゃでほぐしていく。その腹の底をなでられていくようなじんわりとした快楽に、身が震える。

 その時だった。脇に置いたスマホが震える。見るとライン通知だった。
「会いたいな、志乃」和輝からの短い連絡。志乃は一瞬真顔になり、そのスマホを裏にした。まだ夢を見たかった。おもちゃが見せる、ひとときの夢を。
 志乃は股の間にローターを押しつける。吹き上がる快楽に、志乃はぎゅっと目をつむった。 

小説を書き続けるためにも、熱いサポートをお願いしております。よろしくお願いいたしますー。