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Om Saraswatyai Namaha 人生の棚卸し(2)音楽その1

これまでの人生、音楽はいつもわたしと共にありました。

父が尺八奏者であり、わたしが2歳の頃に亡くなったのであまり覚えていませんが、呉服屋をしていたり、襖などに使うような柄の入った様々な素材の紙を商っていたと聞く祖父も尺八を吹いていたそうです。

母も琴や三味線の師範で教えていた頃もあったそうなのですが、子供が生まれてからは教える暇もなくなったのか、わたしの記憶の中の母は一奏者としてのものだけです。

二人はそのような邦楽つながりの半分お見合い半分紹介みたいな感じで結婚することにしたと聞きました。

父は若い頃は市役所の役員と尺八奏者の2足のわらじを履いていて(ほんとは公務員は副業禁止らしいんですが、半ば公認だったのでしょうか?)
経済的にも安定していて礼儀正しく健康で、外大を出ていて、先祖代々の持ち家もあるし、見合いの相手としては良い条件だったのでしょうか。

何人かの候補の中から一番面白そうな母にしたらしいと聞きました。
いろんな人に「変わってるな」と言われる母は、商業高校を出てから生協にしばらく勤めたり、料理や裁縫(洋裁や和裁)の専門学校でいわゆる花嫁修行をしたようです。

そんなわけで、尺八、琴や三味線などの邦楽を介して結婚した両親の暮らしはやはり邦楽に満ちていました。

家にも常に父に尺八を習いに来るお弟子さんが来ていたので、複数で稽古する様子を子供のわたしはいつも耳にし、誰もこないときにはひとりで練習する父の尺八の音色が常に家に流れていました。

それがわたしの当たり前の風景であり、音楽環境でした。

父のコレクションだったのか、子供用に購入したものだったのかは定かではないですが、クラッシックや他の国の民族音楽のレコードなどもあって好きに聞けたので、何か適当に聞いていました。

父や母の、またその知り合いの邦楽関係の演奏会も頻繁にあって、聴きに行けるときには聞きに行きました。
若い頃に合唱をしていたらしい父は良い声をしていたので何かの舞台で民謡を歌っていたこともありました。
母も美しい声をしていますが、母に関しては舞台では歌うよりも演劇で笑いを取る姿やダンスをする姿をよく見ました。

父が演奏会に出演する日は花やお菓子をたくさん持ち帰ってくるので、わたしや弟たち、母も大喜びでした。

あまり記憶にないですが、わたしも幼稚園の頃にはもうお琴を習い始めたのでしょうか。
ひとりで阪神電車に乗って、甲子園の先生の家まで習いに行っていました。
わたしは何が何だかわからない気分でなんとなく電車に乗って、駅で降りて、歩いて、そしたら先生の家について、と、やってましたが、実のところ全てが夢の中みたいに何も実感がないままやっていました。

なのでお琴も言われたことをやっていましたが、自分がなんでその状況にいるのか分かっていなかったので、特に情熱もなく習っていました。

教わっていた甲子園の先生は、すごく立派な玉ねぎみたいな髪型をした先生で、灰色の髪で上品に思えました。
その大きくセットされた髪型をした先生のお母さんも高齢でしたが当時まだ存命で、やはりとても上品で丁寧でした。

しかしみな音楽家ですから、邦楽を通して出会う人たちはみんな音楽への愛や情熱があり、常に技術向上を望む真摯な雰囲気がありました。
演奏会の練習をするときなどはその個人宅にたくさんのお琴や三味線をする人たちが集まって、練習やリハーサルをしていました。
そういう非日常的な場は面白かったです。
だから、意味がよくわからないって感じでしたが、お琴と、お琴の世界は好ましく思っていました。

ときには胡弓など、べつの楽器が入るときもありました。

熱意を持って演奏する姿は、わたしには異世界のようで不思議でした。
わたしには熱意が、ありませんでした。

そのお宅には手塚治虫の漫画などもあったので、何かの待ち時間などにはそれらを読んでいた記憶があります。

邦楽関係の人にとってはわたしは「先生のお嬢さん」なので、何割り増しかで丁寧に扱ってもらっていたかもしれないと思います。
邦楽関係の人は全員にこやかで、上品で、みんな天国にいるみたいに優しくて仲良しに見えました。
日本に伝わる伝統芸能の正当性に支えられていたら、人ってそうなるのかなと思います。
大きな安心の中に全ての人が調和しているように見えました。
そして全員がそれぞれの音を奏でて全体として調和する。
影がなく、子供のわたしは世界ってそういう光に満ちたもんなんだと思いました。

邦楽の世界は西洋音楽と違って大勢でするときも基本的に指揮者がいなくて、まさに「阿吽の呼吸」で、全体が周りの空気を読みながら気配をかわしつつ演奏します。
邦楽の世界は日本の中でも特に日本の美しい要素があるとも思います。

すっかり40代も半ばになった今のわたしは、キラキラしたこの上なく上品で優しそうな人ばかりの世界が切り口を変えたらそうではないということもわかりますが、
そういう、言い方を変えれば光だけの天国みたいな邦楽界の住人のいいところだけを見て、もしくは見せられて育ったわたしはそういう雰囲気が嫌いではないし、そのような安定した華やかさを心地よく感じます。

でも、安定性は閉塞感にもつながって、
そういう意味ではわたしはお琴や三味線をやることで刺激的な新しい経験ができる気がしていませんでした。
今になってみるとお琴いいなあ、って思いますけど、当時はただやらされてたからやってた以外の何物でもありませんでした。

学校の友達とは違う、そこでできた友達と遊ぶのも面白かったし、綺麗な着物を着て舞台に立つのも面白かったし、演奏したり弾きながら歌を歌ったりも面白いレクリエーションでした。
でも情熱は最後までわきませんでした。
だから練習も、必要最低限しかしなかったし、それすらできてなかった気がします。
きちんと練習して曲を仕上げることにあまり充実感も持ててませんでした。

父や母は邦楽が本当に好きでやってたのだと思います。
(父は今も現役ですが)

そういう喜びを、どうしてわたしは持てなかったのかなと思います。

年に一度は自宅でファミリーコンサートと称して、自分たち家族や、知り合いの音楽家たちなどでコンサートをしていました。

そういうのは楽しかったですよね。

でもそんなんするくらいならもうちょっと子供を仕込んで欲しかったような気もしますが、いいのか悪いのか、割と放置でした。

父と二人で何かの演奏をどこかの会場でする機会があったときも、ちょっと難しい曲だったし、練習が十分ではなかったのでわたしの演奏はかなりボロボロでした。美しい曲だったのは覚えてますが。
父も恥ずかしい思いをしたと思うんですけど。

まあ父もわたしの演奏技術に責任をもってなかったし、母は、5人の子供の世話で忙しくて構ってられなかったんでしょうね。

なんかわたしには練習する癖もついてなかったし、もともとそんなに情熱がなかったので、お琴に関しては長年やってたくせに、モチベーションでしくじってたなと思います。

お琴は小学校卒業で一旦やめて、高校ではバスケ部だったので部活で忙しくて習ってる暇はありませんでした。

高校に入ってからは、走る文化部と呼ばれていたアーチェリー部に入ったので、ゆるくて、バイトやいろいろ学外での活動をする余裕もあり、(勉強はもともと必要最低限しかしてなかった)
またお琴を習い始めました。

これはわたしは何を思ったか、わたしがまたお琴を習ったら、完全に親が喜ぶだろうと思って、ただそれだけの理由で再開しました。

今度はものすごくレベルの高い、世界的な演奏活動をしてる超プロな先生に教わりました。
父の知り合いのお琴の先生のところにその超プロの先生が定期的に訪問する、その機会に教わっていました。

やっぱりわたしは大してやる気もないのにお琴をやっていたのですが、
その先生の人格には感化されました。
これが本当のプロなんだなと感じました。

だから、その先生に教わったこと、感化されたことは、わたしにとっては演奏技術の他のことがすごく大きかったです。
高いレッスン料を払ってもらってもお琴の技術は大して向上しませんでしたが(そもそもやる気がないので・・・)わたしにとって、それは幸せな出会いの一つだったと思います。
そして実際にその先生の出す音は、同じ楽器なのに違う楽器みたいに深みがあって存在感がありました。
単純に、すごい、と思いました。

邦楽の演奏でこころから感動したのは、その先生のお琴の演奏と、琵琶の演奏でした。琵琶にはしびれました。
父は近すぎてよくわからないですが、インドのサイババのところで演奏してるのを聞いたとき、父は間違いなくプロフェッショナルなんだなと感じました。


その高校のときのお琴の先生は、いつもとても力づけてくれて、手の形もいいし、良い音を出すということで、邦楽で、東京芸大の音楽科を受験することを強く勧められました。
でもわたしは自分にお琴に対する情熱や向上心がまったくないのを知っていたので、その欠落を自覚したまま受験する気は毛頭ありませんでした。
もちろん技術もありませんでした。

でも、東京芸大受験(その先生も東京芸大卒だったのかもしれません)を本気で勧められたことは嬉しかったですし、良い思い出になったという感じでした。

当時は「わたしはそんなん完全に無理無理(笑)」と120パーセント思ってましたが、
今書きながらふと感じるのは、場合によっては、そんなに夢物語でもなかったのかなということです。

高校のときに前の席だったクラスメートがピアノで東京芸大と院を経て今イタリアと日本でやたら活躍しているようなのですが、ピアノなどはやってる人がものすごい多いでしょうからその中で超プロとなるのは並大抵の練習量と才能ではないと思いますが、
お琴だったら受けたら案外うっかり受かるとかもありそうな気もしました。笑

でも受かっても、お琴の演奏が好きじゃなかったらどうしようもないですよね。
あああ、でも万が一そうなってたらわたし、入学してから声楽に転向してた気がします。それはかなりありそうな、楽しいパラレルワールドです。


小学生の頃、ピアノも少し習っていました。
小学生の頃はわたしはやたら習い事に行っていました。

お琴、ピアノ、習字、お茶、お花、などなど。
それらは一定期間続きましたが、短い期間で辞めたのとかはいっぱいあります。
少林寺も母はわたしにやらせようとしていましたが、見学しただけで無理って思って行きませんでした。

お茶は和菓子が美味しかったし、お花も面白かったです。
毎回活けたお花を記録のために何をどこに活けたかスケッチしてました。
毎回いろんなお花が用意されてて、それが楽しかった。

わたしの習い事はたいがい、母が一緒に自分もやりたいものだったと思います。
多分ですけど母が子供の頃は経済的に厳しくて、習い事とかできなかったんじゃないかなあ。

ピアノも母も一緒に習い始めて、母は熱心に練習していました。

最初のピアノの先生は変わってると言われていた母の数少ないママ友で、
上品な奥様でした。
私の仲のよかった友達のお母さんでもありました。
優しく教えてくれて、無理なく楽しく続けられました。

その私の友達一家はしばらくして東京に引っ越してしまい、
今度は母の別の友達で、確か声楽家の人がピアノを引き続き教えてくれました。

でもその人はすごく怖くって、レッスンがすごく嫌でした。
やるように言われる曲も深刻な感じの難しい曲が多くて全然好きじゃなかった。
もう、全然楽しくなかったんです。

で、数曲習ったところでやめました。

やったと言えるほどやってないようなピアノですが、それでも西洋音楽を少しでもやってたのはのちのち役に立ったなと思います。

邦楽には慣れ親しんでいたけど、西洋音楽とは楽譜の形式から何から何まで根本的に違うので。


中学高校、大学と大きくなっていくにつれ、自分の好みで雑多な音楽も聴くようになり、カラオケにも行くようになり、友達とバンドを組もうと盛り上がって一回も練習せずに終わり、
大学に入ってから性懲りも無くまたお琴を習い始めました。

やる気がないとはいえ、長年やっていたのでそれなりには基礎は出来ていて、(基礎だけしつこくなんどもやってるとも言える)
やっぱり慣れ親しんだ世界に関わると安心するんです。

京都の大学の寮に住んでいたので、そこから通えるいい先生を父に探してもらって紹介してもらいました。
かなり近くにすごく良い先生がいました。さすが京都。

そこはご夫婦でお琴の演奏活動と指導をバリバリされてて、やはりしっかりプロだと感じたし、
京都だけになんかご夫婦の佇まいとかもめっちゃみやびでした。
ザ・京都人 てかんじで。

京都でもしっかり仲間に入れてもらって丁寧に指導してもらって(すべて父の威光と思います)
楽しい京都ライフの一ページでした。
でもやっぱり大した練習はしていってなかったんですが、根気よく指導してくださって、
稽古の直前のやっつけ練習でほとんど間に合わせてたんですが、無事にマンツーマンの稽古が終わって帰るときにはいつもものすごい開放感と多幸感でした。
空も飛べそうなくらい。笑


大学は私は教育大の美術科だったのですが、小学校教員養成課程でもあったので、小学校で習うすべての科目が必修でした。
音楽の授業もあって、ピアノを弾きながら歌ったりしたのかな?

ピアノも少しはやってたので特に難しさもなくおおいに褒められてパスし、
そしてその場で教授に発声法の授業を受けることを勧められました。
だったと思います。

なので、次の期で音楽科用の授業である発声法の授業を受けました。
べつに他学科の人が受けても構わないんです。

そこで声楽にはまりました。

驚きの気持ちよさで、
ものすごくしっくりきて、自分が生き返ったような気になりました。

こころから楽しかったです。

声楽の授業の指導をしていたのは舞台で主役を演じるような現役のオペラ歌手の男の先生でしたが、
研究室に習いに来るように言われたので、授業の期間が終わった後も個人的にマンツーマンで指導してもらっていました。

その先生に声や骨格からもあなたはプロとしてやっていけるから、プロを目指しなさいと言われました。

それを聞いて、そう言ってくれるのは嬉しいけど、全然楽しい気持ちではない自分がいました。

オペラ歌手って、なんか変な時代遅れの衣装を着ててカッコよくない感じがしてかもしれません。

音楽に限らず、いろんな分野でその道のプロの人とかから「プロになれる才能があるからプロを目指せ」と言われることが多かったのですが、何物にもなってません。
このすべてにおけるプロ級の中途半端さはなんなんだろうと自分でも思います。

しかし声楽を現役プロに指導してもらえたことは私の財産でした。
歌うこと、声を出すことは今も純粋に好きです。

たまに思い出して当時歌ってたイタリア歌曲やオペラを一人で陶酔して歌います。


大学卒業後は沖縄の西表島に行きました。
西表島の民宿で働きました。
暇な時期にはそこの青年団の活動やママさんコーラスに参加して楽しんだ後は、同じ八重山諸島のべつの島である波照間島の製糖工場で働きました。

仕事は夕方5時くらいで終わりだったので、夕方から三線教室に通いました。
島には何人かの指導者がいて、玄人好みの先生や、ちょっとギラついた芸能系の先生など。
私が習ったのは芸能系の先生で、明るくてノリが良かったので人気者でしたし、有名人でした。
波照間を訪れた小説家のエッセイなどにもよく登場しています。

これはその先生に限ったことではないですが、とにかく飲み会や宴会が多かったです。

陽気で楽しかったですが、そういうときにはやっぱり三線が出てきて大演奏会・大合唱になります。

飲み会や宴会のプロ、サービス精神の鬼って感じでした。

力強い歌声と演奏で、私もときにはどこかの民宿の夜の余興としての演奏依頼に駆り出されて一緒に演奏しました。

そんな俗っぽさ全開な先生でしたが、指導はしっかりしていて、間違った自己流を教えないようにと、公的なコンクールなどで入賞して上れる所まで上りつめ、地道に協会に所属して上の人の指導を常に仰いでいました。
私も何かの折に石垣島の重鎮の所に連れて行ってもらって仲間に入れてもらいましたが、
上の人を心から尊敬してる感じがすごくよかったです。
そして上の人もすごく愛情深い感じで。人格者だということがもう、すぐにわかるというか。

私は沖縄のそういう人間関係の場の雰囲気も好きで、沖縄に行きました。
わたしの人生に常にあった音楽をやってると自分のチューニングが合うというか、自分の核がしっかりするので
これまでにいろんな所に住みましたが行く先々でなんらかの音楽に関わっていたいと感じて、そうしています。

三線は沖縄に行って当然のごとく習い始めたのですが、
やはり音楽をやっている人(多分特に伝統音楽)の世界や人種が私には馴染み深いので、その中にいると安心するのです。

お琴などの邦楽を私は長年やってましたが、やっぱ曲自体が湿っぽくてなんか鬱っぽいんです。
それは精神的な音楽だとか、みやびだとか、いう風に表現されることなのかもしれませんが、

沖縄の三線の根本的な空気感の陽気さは私にものすごく合っていました。

習ってたのは古典だったので基本、生真面目なんですが、それでも沖縄の大自然、沖縄に吹く風がベースにあってできた音楽なので、
真面目な古典の曲でも沖縄の大自然が細胞レベルで感じられていつも感動しながら練習していました。

波照間の先生はもともとものすごく愛情深くてサービス精神の鬼な人だったのですが、私にしては画期的なことに、毎日欠かさず練習して三線に恋してはまったので、すごく目をかけてよくしてくれました。

島での公民館での演奏とかでも仲間に入れてもらったり、

宮古民謡大会が石垣島で初めて開催されたときも、私が他の島の生徒と一緒に大会に出場できるように手配してくれて、舞台で着る着物から何から何まで用意してくれました。

私も熱心に練習しました。
島のあちこちにプライベートビーチがあるので、そういう自然の中で三線を弾きながら自然に歌いかけると、岩々や木々、海や風などすべての自然と心が通じて凄まじいと感じました。
その頃もわたしはいろいろ辛い、根本的な部分で絶望的に孤独な精神状態だったのですが、沖縄の自然がわたしのすべてを包んで支えてくれました。

おかげで民謡大会では新人賞ももらえて(多分全員もらえたかも)新聞に名前が掲載されるなど、良い思い出になりました。

沖縄の民謡大会の新人賞取得って、三線の活動をする上での資格取得みたいなもので、一定のレベルに達してる証明みたいなものです。

石垣島での第一回宮古民謡大会で新人賞をもらってすぐに今度は宮古島での宮古民謡大会があり、それにも今度は優秀賞枠で参加しました。
でもそっちは練習がおいつかずに優秀賞取得はなりませんでしたが、
伴奏者としてついてくれた先生と一緒に宮古の舞台で演奏できて、良い記念になりました。

三線も、わたし自身もすごく好きで熱心だったし、そのまま研鑽を積んでプロの演奏家になるよう言われましたが、その後のわたしの人生があまりにも七転八倒でめちゃくちゃだったので、残念ながら続けることはできませんでした。


(なかなか終わらなかったですね。長いので一旦切ります。)

























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