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久々に鬱状態になったことで学んだこと、気が付いたこと

この1ヶ月ほどひどい鬱状態に落ち込んでいました。残念ながら久々の自殺衝動にも襲われました。

現在はようやく脱したのですが、このところ良いことが続き、調子に乗って共感力を失いかけていた私にとって、我が身をじっくり振り返る機会となりました。

(ご連絡が遅れたりご迷惑をおかけしてしまいました皆様、大変申し訳ございません。)

体が動かないときはもうどうにもならない

このようになった原因は、1月から(私にしては)トップギアで走り続けてきた心身の負債が限界に達したこと、また、こなさなければならないタスクの多さに潰れたこと、梅雨入りに伴う「気象病」など、複合的なものでした。

「セロトニン出すためにも動かなきゃ」と頭で思ってはいても身体中が痛くて重くて動くに動けず、そうして自己嫌悪で更に更に深く暗いところに落ちていく。

心と頭も空中分解しているようでバランスが取れず、心の奥底にどす黒い霧がもうもうと烟っている、そんな状態でした。

抜けた今わかることは、「いつまで続くかわからない不安に押し潰されそうになっても、決して焦ってはいけない」ということ。

渦中にいるときは焦りしかなくとも、もがけばもがくほど沈むだけ。

明けない夜はない」ということだけを信じて、心を決めて状況を受け入れて待つ。これこそが最良の手段なのだと感じています。

『天才と発達障害」』を読んで、絶望し、慰められた

しかしそうはいっても、あまりにも絶望的なメンタルの状態だったため、藁をも掴む思いで、ネットの記事で気になっていたこちらの本を読んでみました。

強靭で健全なメンタルのまま一生を終える方がいる一方、物心ついたときから鬱とお友達だったような私。

こんな性格であることのメリットはあるのか、何かヒントが見つからないかと読んでみた結果は、タイトルの通り。絶望したと同時に、慰められもしました。

まず、慰めとなったのは、逆説的ですが「ある程度遺伝的にメンタルバランスの欠如が運命付けられているようだ」ということを確認できたこと。

最近特に、「まっさらな健全な状態にならなければ」という思いが半ば強迫観念のようになっていた私にとって、「もうこれは受け入れるしかないらしい。鬱はゼロにしなくていい」という諦観はむしろ慰めとなりました。

そして、これまで「もしかしてもしかしたら発達障害じゃないかも」と、良くも悪くも確信を持てないでいたことも、家系を振り返ってみたら、自分がしっかりその系譜に連なっていることを強烈に意識せざるを得ませんでした。

また、先日亡くなった祖母の中にも私の中にも見受けられる非情さや冷酷さも発達障害の特性の一つであることを知り、「よくこんな精神のバランスの悪さで、子供を生んで(問題はたくさんあったにしろ)育てたものだな。」と祖母にも母にも感心できたのは、思わぬ副産物でした。

よくアダルトチルドレンと発達障害は切ってもきれない関係と言われますが、卵が先か鶏が先かということで言えば、卵も鶏も同時と言うしかないほど密接な関係があるようです。

しかし、文中に紹介されている偉人たちの最期があまりにも悲劇的なものの連続だったため絶望的な気持ちになり、ある章を途中で読むのをやめました。

(あくまでこれは私の主観ですが、もしこちらの本を読まれる方がいらっしゃいましたら、それを念頭に置いていただいた方が良いかもしれません。)

苦しんでいるのはあなた一人ではない

そうして今度は、以前下記の投稿でご紹介したものの、3分の1しか読めていなかった『スタンフォードのストレスを力に変える教科書』も読み進め、ここには二つの光明を発見することができました。

一つは「孤独感」について。

まずここに書かれていたのは、苦しみの渦中にいるときは、世界で自分一人が苦しんでいるような孤独感や孤立感に苛まれるが、決してそんなことはない、ということ。

そして、そのようなときこそ、一人で解決しようとせず、人との繋がりを求めて行動してみることが大事であるということ。

まさにこの鬱状態になってから、私は人に迷惑をかけてはいけない、一人で解決しなくてはと、社会的にも物理的にも引きこもっていました。

しかし「みんなは元気に毎日を戦っているのに、自分は本当に弱い駄目な人間だ」「誰とも分かり合えない」という孤独感が、さらに鬱状態を悪化させました。

しかしとうとう耐えきれなくなり、信頼できる友人にこの状態を打ち明けたところ、「今は絶望的な状況かもしれないけど、その荒れた表面の下には奈緒さんの人間性がいつも通りしっかり存在しているのが見えるよ」と指摘され、近視眼になっていた自分を俯瞰し、はっとしました。

土台から完全に崩壊してもう二度と再建できないのではと感じていたけれど、崩壊したのは表層だけだったのか。

この瞬間、真っ暗だった心に風穴が空いたような感触があり、明らかに自分が快方の進路に方向転換しはじめた手ごたえを感じました。

確かにこれは到底一人では出来ませんでした。世の中にはアルコール依存症などから立ち直るための互助会がありますが、あれらの有用性をこのときほど強く感じたことはありません。

「脅威反応」から「チャレンジ反応」へのマインドセットシフト

そして、もう一つ、この気づきによって、大きく心境が変化したことがありました。

これはこの本の中で、タイトルのように紹介されていることです。

ちょうどこの時期に、私はあるとても尊敬する方から素晴らしいお仕事をいただいていました。しかし嬉しかったのと同時に、自分にとって初めての試みだったため、大きなプレッシャーとなっていました。

しかし、友人にその恐怖を話しているうちに、自分がその仕事を通じてその方から「褒められたい、認められたい」という他人軸でものを考え、萎縮してしまっていたことに気がつきました。

「呆れられるくらい変なものを作って驚かせてみよう!もし気に入って頂けなかったらそれはそれで仕方ない」と気持ちを転換させてみたとき、すーっと心が軽くなっていくのを感じました。

「これは自分の人生であって、自分でどうにでもハンドリングできるものである」

そのときにこんな言葉が湧き起こってきたのですが、まさにこれは、「脅威反応からチャレンジ反応へ」とこの本で書かれていたことでした。

心が元気だったときにはこのことを「当たり前のことじゃないか」と軽く読み飛ばしてしまっていましたが、今となってはこのマインドセットシフトの重要性がしみるほどわかります。

このようなことは、以前に「大御所幻想を破る」ということを書いたことにも通じることなのですが、情けないことにその後も、自分自身が何度も忘れては何度も思い出していることです。

今、闇の中にいらっしゃる方へ

先日、なんとかこのお仕事が終わり、無事に納品することができました。依頼していただいた方にも気に入っていただくことができて、自分自身が大きく成長できたことも実感できました。

そしてこれが契機となって、完全に鬱状態から抜けました。

思い返すと、今回は完全に克服できたと思っていた自殺衝動も久々に蘇り、一度死んだようなものであると同時に、何度目かの生き返りをしたようなものだと感じています。

しかし今強烈に感じているのは、「死なないでよかった」ということ。

本当に死ななくてよかった。生きててよかった。

理由はあげようと思えば色々出てきますが、ただただそう感じます。危なかったなとも。

きっとこれからも時々はまたこんな状態になるのでしょうが、死ななければ大丈夫。なんとかなる。そう思います。


今、先日の私と同じような状況にいらっしゃる方へ。

嵐は過ぎます。

夜は明けます。

溺れたときには力を抜いて浮いて待つのが最善の策。

無駄にあがいて消耗せず、「とりあえず死なないでおく」。

それだけで十分です。

そして、一人で苦しんでいる方へ。

仲間はたくさんいます。

一人で抱え込まず、仲間を見つけに行ってください。

素直に打ち明けたら助けてくれます。

きっと心が軽くなるはずです。

そしてあなたを助けることで、相手も幸せになります。

「死なないで」ということは、これまでもこれからも一番お伝えしたい言葉です。


まずはメンタルの状態を重視する必要性

今回強烈に確認させられてしまったのが、今後は自分のメンタルの状態を最重視して生きていかないといけないということ。

ADHDの特性として、「自分の限度を越して動き、最後はぶっ倒れてしまう」ということがありますが、まさに今回もそれでした。

一般的なレベルで考えたら、私を追い詰めたのは「え、これだけのことで?」と驚かれるようなものばかりです。

しかし、ADHDの私にはとても難しかったり信じられないほど時間がかかってしまうものが多く、「苦手なことも克服しなくては」「身を削ってでもやらなくては」と無駄に自分を追い込んだ結果、このようにダウンしてしまいました。

最近ありがたいことに素敵な機会をいただくことが増えてきていたのですが、例え機会を逸して損をすることになってしまったとしても、心の状態に常に耳を澄まし、必要に応じて意識的に仕事量を調整していかないとと感じています。

もちろん、一つ一つに全力で取り組むのは大前提ですし、新しいことに挑み、成長に繋げていくことも大切なことです。

ただ、あれもこれもと詰め込んで倒れて迷惑をかけてしまったら本末転倒。

「甘え」や「努力不足」として自分に鞭打つのではなく、人間として自分の心身のバランスを保つことは当たり前なこととして、まずは私自身に定着させていこうと思います。

私と同じように、人と同じような量をこなせない性質を持つどなたかが、「仕事量を調節するのは甘えじゃないんだな」と自分を追い詰めることが無くなったらいいなと、そうしてそれぞれの人が自分にあったやり方と適切な居場所を見つけ、その人らしい能力を最大限に発揮できるようになったらと願ってやみません。

そのためにも、ADHDの当事者として、躓いたことも含め、今後も包み隠さず発信を続けて参ろうと思います。

今回の内容をダンナのVoicyでも話しました。
トップの画像は鬱状態を抜けかかっていたときに立ち寄った明治神宮で参道の脇に見つけた、のたうつような大木です。この樹を見つけたときに「死ななくてよかった」という思いが心の奥底から自然に湧いてきました。

そういえば、鬱状態に落ちる直前に、こんな素敵な記事にもしていただいていました。調子づいているときほど、自分に無理のかかったペースになっていないか立ち止まって確認することも必要なのかもしれません。



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