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芥川龍之介 奉教人の死と翻案の文学

本当は寝不足日記と交互に更新する予定だったこの読書日記でありますが、変に「日本文学と海外文学を交互に話そう」と考えたがために、早速ネタギレの様相です。

私は基本的には海外文学を中心に読んできておりますので、日本文学は新旧ともども、引き出しが少ないのでした。

とはいえ、某文豪ゲーム絡みばかり出すのもなぁ、と思ってあちらこちらに飛ばそうとしていたわけですが、普通に某文豪ゲームのメインとも言える作家に立ち返ってみました。

国木田独歩のファンを自称するからには、芥川龍之介を取り上げるならば本来、『河童』を先に語るべきです。

しかし、帰省ついでに札幌に立ち寄った際、たまたま古本市をチカホでやっておりまして。一緒に見ていたあちらの友人が「芥川龍之介は『奉教人の死』がおすすめです!何故私がこれを好きかは読めばわかると思うんですけど!」と大プッシュしてきたので、帰りの飛行機で読もうと思って購入したのでした。

おい、これが性癖なわが友よ。わが友よ。

いや、わかるけど。誰に長い付き合いではありませんので、わかるけど。


友人の性癖はともかくとして、この読書感想文は感想文が主体であるから、ネタバレにはあまり配慮してません。というか青空文庫に掲載されるレベルの文学にネタバレも何もないか。

短い話なので実際に読んでいただいた方が早い気もしますが、ざっくりあらすじを説明します。

長崎に住んでいたイケメン修道ろおれんぞは、彼に惚れた娘が妊娠して、「この子はろおれんぞ様の子供です!」と訴えたがために教会を追放されます。

数年後、物乞いに身をやつしたろおれんぞでしたが、火事に巻き込まれて自分を追放においやった娘の子が家に残されたのを見て、炎の中に飛び込んで赤子を助けました。

ろおれんぞもその後助けられましたが、瀕死でした。その姿を見て、娘は赤子が本当はろおれんぞの子ではなかったことを懺悔します。

ろおれんぞは、実は男装をしていた女性だったのでした。

……という話です。

まぁ、自分をはらませた(と言い張ってた)相手が女性だと知ったら、そりゃ娘も懺悔しますよね!

ちなみにこのお話は『黄金伝説』というタイトルのキリスト教聖人伝に収録された『聖マリナ』の物語が下敷きとなっているようです。Wikiを見るだけでも、ほとんどあらすじが同じであることがわかります。

参考:ビテュニアのマリーナWikipedia

もちろん、聖マリナは長崎に住んではおりませんし、ろおれんぞさんはろおれんぞさんという名前以外何も明かさず、出自すら自分の父はでうす(神様)であるという徹底したミステリアス主人公として描写されておりますし、ラストの女性だとバレるオチに至っても芥川龍之介による創意工夫がなされております。

あらすじは一緒ですが、全く別の物語となっています。

二次創作というよりは、聖書+日本文学ハイブリッドノベライズですね!

芥川龍之介自身は、キリスト教にハマったことはあると告白しておりますが信者というわけではないように思えます。

たとえば、芥川龍之介が数々残した切支丹物(キリスト教モチーフの作品)でも、「おぎん」「おしの」はキリスト教の教義に対する強烈なアンチテーゼを含みます。特に「おぎん」は敬虔な信者である少女が棄教を選択する物語であります。

棄教の物語と言えば、日本では多くの方が教科書で習うことになる遠藤周作の「沈黙」がありますが、「おぎん」の面白い所は、宗教的葛藤の末に棄教に至るのではなく、キリスト教の価値観と日本の伝統的な家族観との間で葛藤した末に、棄教に至るという点です。

そもそも、芥川龍之介はキリスト教モノだけではなく、儒教的、仏教的な作品も多く残しています。「杜子春」などは代表的ですね。「蜘蛛の糸」は仏教説話といいつつアメリカ作家の創作が元なので微妙なラインですけど。

芥川龍之介のキリスト教への興味は、信心よりも「知識的な興味」寄りのものだと推測できます。「奉教人の死」に関しても、キリスト教信者の価値観を持って聖マリナの伝承を日本向けに広めた、というよりは「自分が興味を持った聖人伝を、自分の中で昇華した作品」という方向だと思います。

芥川龍之介は多分元ネタ追及タイプのオタクですね!

大体、この時代の文学者というのは、現代でいうところのある種極まったオタクの素質を持っていると思いますが、芥川龍之介に関しては宗教的価値観を追求したいタイプのオタクであったのではないかな、と。

他にも宇治拾遺物語などが元ネタのものがありますし、翻案作品が非常に多い。翻案のスペシャリストといっていいでしょう。

翻案が多いとオリジナリティがないのかと言えば、もちろんそんなことはなく、優れた作品であるからこそ芥川龍之介は今日にいたるまで日本の代表作家なのであります。

物語の基礎はすべてシェイクスピアが作った、などという話もありますが、シェイクスピアとてモチーフにギリシア・ローマ神話を採用したり、史実を元に創作したりしているわけです。

物語の基礎というのは伝承や人々の生み出した歴史的事実の翻案によってできているわけですね。無から生まれる物語などない。

私は国木田独歩が(ゲーム絡み抜きでも)好きなので、彼の言葉をちょいちょい引用してしまうのですが。

人間は「自然」を直写し得る者ではない。

若しこれができるなら哲学も宗教も問題ではない。

(中略)

詩人の書いたものが自然の作ったものと同一でないのは当然だ。

自然すらも全く同一のものを二個作ることはできない。

(新潮社刊/「病牀録」国木田独歩)

国木田独歩は、実在人物をモデルにすることについての問題について、こんなことを述べているわけです。

これの前後にも色々書いてるのでざっくりまとめると「モデルがあったからって創作がそのモデルと同一のものであるわけないだろ。現実と創作は分けて考えろよ」という話です。

西鶴(江戸時代の戯曲作家)が書いた作品とかに、モデルがなかったとでも思ってんのか?(要約)みたいなことまでいってて独歩さん本当強メンタルだと思うし(今の時代でもこの視点を持てない人は結構いるわけで、明治時代にこの視点を持って大々的に発信するのは相当強い……)、当時は色んな意味で影響力を持っていた国木田独歩がこういった発言をして(しかも名声を獲得してから割とすぐに亡くなったのである種の偶像化もなされていたと思う)その後の文壇に与えた影響は、なんだかんだ言って大きいのではないかと思います。芥川先生も、「河童」で神殿に独歩像祀ったりエッセイでややこじれた独歩語りをしてるので、影響受けてるんでしょうね。(それが彼の文学にどこまで影響したかはひとまずおいといて)

翻案に関する考え方ひとつとっても、独歩のモデル問題反論と通ずるところがあって、どれだけ元ネタがあっても、あらすじがほとんど同じであっても、それが同一の物語であるわけではない。

「奉教人の死」は、聖マリナという明らかに元となる物語が存在しながら、翻案として非常に優れた作品として評価されているのは、そういう芥川龍之介独自の筆致であるとか、表現力であるとかはもちろんなのですが、元ネタを上手く使いながらオリジナルの物語として昇華している上手さがあるからでしょう。

自分の親について「でうす」であると称する(素性が露見することで性別がばれることを咲けるため?)、兄弟も同然の「しめおん」に真実を告げず不自然に許しを請うて逃げるなど、ろおれんぞの謎めいた行動の端々が、最後に「実は女性であることを隠していた」に集約される伏線回収の見事さが、芥川龍之介の才能のすごさを訴えかけてくるわけですね。

本当、小説が上手い~~~。(当たり前)


ところで、友達が激プッシュしたので「奉教人の死」をメインに書きましたが、新潮社刊の「奉教人の死」に収録されている中では「黒衣聖母」がゾクっとする味のあるラストで好きです。


Amazon:新潮社刊「奉教人の死」

青空文庫:奉教人の死

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