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認知症と家族 映画『長いお別れ』の話

「長いお別れ」は、認知症の映画である。

ハードボイルド名作ではない方の「長いお別れ」である。

どうやら英語で認知症のことを「ロング・グッドバイ」というらしく、この「長いお別れ」も認知症で色んなことを忘れていく父親と、家族との「お別れ」の物語なのである。

原作も買ったのだが、結局読み始めないうちに映画の方に先に来てしまった。後で原作との違いを楽しもう。

何で家族と縁遠い方の私がこの映画を観たかったかというと、まさしく私の祖父が「長いお別れ」をしたからだ。

賑やかだった祖母は60代の半ばでドタバタと亡くなり(この辺は語ると長いので割愛するが)祖父は引き取り同居で我が家に戻ってきた。

無口でほとんど会話がなかったが、私が夕方、農家の仕事を手伝いに行く時間の前に一人でいると、必ず出てきて一緒にテレビを見た。

祖父が認知症になったのは、私が札幌に進学して、家からいなくなってからだ。それから、じわじわと「長いお別れ」が始まった。

祖父は家族と全く会話をしない人だったのに、不思議と寝たきりの前後不覚になるまで、祖父は私のことも家族の誰のことも忘れていなかった。

もう食べたはずのご飯や、降りるはずのバス停を忘れても、会話もない希薄な関係だった家族のことは忘れなかった。年に2回しか会わなくても、私は祖父にとって孫のままだった。

うちの祖父のことを語り出すと映画の感想でなくなるので、この辺にしておく。また今度、日記の方に書こう。

「長いお別れ」は認知症の父を見送る家族の物語である。

事前にちらりと見たレビューでは「認知症はこんな甘くない」とか「綺麗事だ」「ただの認知症あるあるネタでは?」とか言ってる方もいたが、そもそも認知症は人それぞれだし、この映画認知症のドキュメンタリーでもないので、観るポイントが違うような……。

私は祖父が寝たきりになるまで自宅介護(というかほとんど介護らしい介護もしていない。マジ元気な認知症だった)ので、「わかる~」とか「うちもあった~」とかなっていた。施設に入れるかどうかとか、家族の問題だよなー。(うちは本当に結構ギリギリまで元気だったうえに、町の老人ホームが満員で数年待ちだったので預けませんでした)

最近、叔母が認知症になったのだけど、数日前のことを忘れてたり、被害妄想が出たりするだけで、意外と滅多に合わない私のこと忘れなかったりしてね。

悲惨な認知症や介護実態だけを前面に出してないところが、この映画を観たいと思ったポイントですよ。認知症って、じっくりと長い時間をかけて折り合いをつけていく家族の問題なんだよ。

良くも悪くも邦画らしい、特別にわーっと盛り上がるシーンのないひたすら静かな物語なのだけど、ところどころでべそべそ泣いてしまった。

本当にタイトル通りに「少しずつ遠ざかる長い時間をかけたお別れ」で、少しずつ忘れたり問題を起こしたりしながら、父親が別人のようになっていくのを見る話。

その中に、娘たちの家庭の不和であったり、恋や仕事の失敗であったりが重なる。

特に蒼井優のやってる次女役がこう、明確な夢があって、それに必要な才能がないわけじゃないんだけど、イマイチ頑張りが空回ってる感じで、そのせいで恋も仕事も失敗して、っていうのがすごいリアル……リアルタイムで身に覚えがあるので笑えない。

傍目で見て「そりゃ失敗するでしょ」っていう点がいっぱいあるのだけど、本人はすごいまじめに努力しているので「あーーーっ」てなる。胃が痛い(他人事ではない仕事がない末端フリーランス)

家庭を持っていると長女家族の、微妙にかみ合わない家庭内不和を観ている方が「あーーーっ!」てなるんだろうけどw

父親役の山﨑努さんが、本当にすごい演技で。結婚してるのに奥さんにプロポーズするシーンが可愛かった。もうその人何十年も前から奥さんになってますよ、ってニコニコしちゃう。可愛いおじいちゃん……。

惜しむべくは、ポスターにも使われているメリーゴーランドのシーンが割と中盤で、その後の印象でちょっとかすんでしまったことだろうか。

いや、あのシーン自体はすごくいいほっこりエピソードなのだけど、「帰りたかったのは……」という台詞とイマイチかみ合ってない感じがして。そこはちょっと残念だった。要するに「家族を迎えにいって、一緒に帰る」ことが目的だった、ということなんだろうけど……。

あと、アメリカにいる孫のタカシくんが成長してグレた後にしばらく顔が映らないのに、ちゃんとピント合うシーンが、居眠りするお母さんに上着かけてあげるシーンなんだよね。

そこで、インターネットで繋がってる祖父と、何も言葉を交わさないのにアイコンタクトで手をあげるの。あれ、家族が繋がってる瞬間なんだな。

おじいちゃんは多分タカシくんのことは何もわかってないんだけど、あそこでバラバラになってた長女家族がおじいちゃんを通して一瞬噛み合ってる。

おじいちゃんが自分のことわからなくても「生きてるなら生きて欲しい」と言えたのは、あの時一歩踏み出していたからかもしれない。

『この道』の時もそうだったけど、亡くなったシーンを直接的に描かないのは「お別れ」の瞬間ではなく、過程がこの家族に必要で、大切なものだったからなんだろうな。

「お父さんは(延命を)望まないと思う」という娘たちに「勝手にお父さんの気持ちをわかったように言わないで」ってお母さんが言うんですよね。その上で「私は(延命しないことを)選びました」と。

これは認知症に限らずだけど、本人に意思確認ができない場合、最終的に家族が選択しなければならないわけで。

そこで「お父さんはこう願ってる」という綺麗事にしてはいけない、これは家族の選択です、と言うのがこの映画のキモだと思うんですよ

お別れするのは、本人じゃなくて家族の方だから。

思えば、漢字が書けなくなって紅葉の葉っぱが落ちたあの時が「お別れ」の合図だったんだな。話が進むごとに、栞にされる木の葉の色が変わっていく。

黄色いイチョウ→紅いモミジ→青い広葉樹の葉

まだ青い葉を、若い孫のタカシくんが拾っていくのか。そうか、そうやって続いていくんだな。家族にはまだ、長いお別れの続きがある。

本の栞に木の葉を使うというおじいちゃんの習慣を、娘だけではなく、ほんの少しの間一緒に過ごしただけで日本に住んですらいないタカシくんが引き継いでいくのもエモさがある。

この映画の最後はタカシくんのシーンで終わるのだけど、この不登校の件で先生と面談させられているラストシーン、何でもいいから話して、と言われてタカシくんが「祖父が死にました」という話をするわけです。

それで、先生が「認知症はこの国(アメリカ)では『ロング・グッバイ(長いお別れ)』というんだ。ゆっくりと遠ざかるから」という話をする。

その話をしている時、何となくタカシくんが「腑に落ちた」みたいな顔をするんですよね。もちろん、彼の不登校には本人が言うとおり、祖父の認知症も死も全く関係ないのだけど。

多分、不登校の直接の原因である「家族に対する不満」と「生きれるなら生きて欲しかったのに、祖父が早く死ぬような選択をした家族へのぼんやりとした不満」が地続きになっていて、それが「認知症とは時間をかけたお別れの過程だ」ということがわかって、納得できたのかなって。だから「サヨナラ」になったのかな、と。

多分この後タカシくんは学校を辞めるのかな?という感じがする。「サヨナラ」ってそういうことかな。(原作チラ読みしたけど、これ、原作通りなんですよね)

辞めないかもしれないけど、多分、彼は「お別れの続き」を生きることに気持ちが向いたのかな、と。それが青い葉っぱを拾うことに繋がったのかもしれない。エリザベスともお別れして、祖父ともお別れして、だけど彼の人生はまだまだ青い葉で、長い長い続きがある。

すっごいどうでもいいシンパシーポイントなんだけど、文庫本を逆さまに読むのうちの祖父もやってた……新聞も逆さにしてた。認知症になると逆さまにする方が読みやすくなるのか、それとも「読めないからこれは逆さに違いない」というロジックになるのか、どうなんだろう。

私の祖父、認知症でも本当に倒れるまで割と自由に出歩くし(自転車にのるし勝手にバスに乗るし……)酒と煙草とあんぱんを隠し持ってたし、おもらしした時に下着を隠す小技を習得してる理解力の高い認知症だった……。

そのかわりバス停で降りられなくてドナドナされたり、アンパンをカビさせたり、お風呂から上がることを忘れてのぼせたりはしてたけど……。

……結局祖父の話をはじめてしまった。

どうしてもニュースや創作でクローズアップされるのは悲惨な認知症ばかりなのだけど、こういうマイルド認知症の人は意外と多いと思うんだよな。

母が「困ったには困ったけど、倒れるまで自分で歩いて(間に合わないことがあるにしても)自分でトイレに行って風呂に入れて、ちゃんとご飯も食べるので楽だったわ」と言っていた。

母は一時期グループホームでパートをしていたが、ほとんどネグレクト状態でホームにきた認知症のおばあちゃんが、グループホームで優しく介護をしてもらったら、びっくりするほどシャキッとして、他の入居者の世話を焼くようになったりしていたという。

本当に認知症の進行って人それぞれで、1年でびっくりするほど進行する人もいれば、この映画のおじいちゃんみたいに何年もかけて少しずつの人もいる。

認知症の進行は、本人にも家族にもどうしようもないけれど、悲惨なだけが現実ではないし、決して不幸な結末とも言えない。

認知症を介護しているその間も家族はもちろん生きていて、介護のためだけに生きているわけでもない。

実際、そのようになっているのなら、それは社会保障の問題であって、この映画はそういう話ではないのだ。あくまで家族の話だ。

「お別れをした後も続いていく」家族の話。

ところで、私の祖父は最後の数年はほとんど寝たきりで、そういう高齢者専門の遠くの病院に入っていた。

ので、最後の数年は顔も見ていない。兄はたまに様子を見に行っていたが。

はからずとも、この映画と同じく、祖父は肺炎で亡くなった。

ヘビースモーカーだったし、糖尿なのにアンパン食いまくるし酒もガバガバ飲むし(ボケる前から)、およそ死因になりそうなことをたくさんしていたのに、最後はただ衰弱して肺炎になった。

祖父が亡くなったのは、ちょうど私が札幌から帰省する当日の朝だった。

はからずとも、私との別れから始まった祖父の「長いお別れ」は、私の帰還と共に「永遠の別れ」になったわけである。

まるで私が来るタイミングを狙いすましたかのように亡くなったのだが、もちろん祖父は私の帰省など知らないでいたはずだ。

何となく、待っていたような気がしてならない。長いお別れの最後を、見送ってほしくて。

そう思うのは、私の勝手な感傷であって、実際、祖父は家族の誰にも看取られずに静かに一人で逝ったのである。家族の誰が選んだわけでもなく、一人で、静かに。

89歳の大往生でした。

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