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サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」と思春期の終わり

「ライ麦畑でつかまえて」は、私が中学三年生の冬に読書感想文を書いた題材の本である。

何故、よりにもよって教師受けの悪そうな本を選んだのかという感じがするが、そんなの「これが読みたかったから」としか言いようがない。

農家育ちの私にとって、本は毎日の強制稼業手伝いの中の癒し。それも読書感想文という名目があれば、親に本買ってくれよーと厚かましくおねだりができるのである。やったね!

図書委員だった当時、私は読書感想文斡旋係みたいなことを自主的におこなっていた。

ど田舎限界集落寸前の学校の、野生児に近い(自分含む)生徒たちに「とりあえずこの本を読んで、こういう感想を書けば先生はOKを出す」というアドバイスをするというもの。

その時、比較的読書ができる方のクラスメイトに「あの頃はフリードリヒがいた」を貸し出して「教科書で読んでほかの部分が気になった、戦争や差別は良くないって書けばOK」という作者が怒るぞソレ、というアドバイスを行なった。

彼女の感想文は優秀賞を取った。私は一段下の努力賞。自分でやったとはいえ(あと彼女がそこそこ現代文の成績が良かったとはいえ)微妙なエピソードなのだった。

とはいえ、今にして思えば「むしろこの教師受けバリ悪そうな小説で努力賞取ったのすごいくない?」と斜め上の自画自賛をしたくなる。

読了済の方はご存知の通り、この「ライ麦畑でつかまえて」は思春期の反逆心に満ち溢れていて、教師に対しても主人公はバリバリのヘイトを飛ばしまくっているからだ。

中学三年生の私がどんな感想文を書いたかは記憶の彼方すぎて覚えていないが、この本を題材にするくせに教師受けは意識する小賢しい生徒であった私は、多分これを青春の悩める少年の話という感想にして、提出したのではないか。

実際、思春期の少年少女の目線では、権利を得られずままならない社会への抵抗であり、理解しない大人たちへの反逆であり、折り合わない学友たちの拒絶の物語なのだと思う。

しかし、思春期を通り越してこの物語を見ると、何だか少しだけ違う感想を抱くようになってきた。そもそも、この話は主人公であるホールデンが「これまでのいきさつ」を語っているもの。つまり、過去の話なのだ。

主人公ホールデンは、英語の成績以外はてんで良くなく、素行も悪く、ついに学校から放逐される。

大人しく家に帰らずにあちこち放浪し、ついに遠くへ行こうと決意して、唯一心を開いている幼い妹に最後の別れを告げに行く。

だけど、幼い妹がメリーゴーランドに乗って幸せそうにしているのを見て、思い留まる。それがこの本のざっくりとしたあらすじだ。

邦訳は白水社の野崎孝訳の「ライ麦畑でつかまえて」と、講談社の村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」があるが、私は断然野崎孝訳派である。

私はハルキストではないし、なんかもう、邦題を原題そのままだとか、ホールデンのあの斜にかまえたセリフの数々がハルキイズムに満ちてしまった感じがなんというか「解釈違い」なのである。これは私が野崎孝訳に愛着があるせいも多分にあるので、ハルキストの方々は怒らないでください。

ホールデンの視点から見る社会は、理不尽と敵意に満ちている。

学校はインチキ野郎ばかりと言い放ち退学と編入繰り返すこと4回、娼婦を買おうとして金を出し渋って殴られ、未成年なのに女給にアルコールを要求し、泊めてくれた先生を変態だと怯えて逃げ出し……それはそれは素行不良な少年である。

両親が嫌い、映画が嫌い、映画を作ってる作家の兄も嫌い。愛する人は亡くなった弟のアリーと、溺愛している妹のフィービーだけ。

まちがいなく100%不良であり、やっていることも言っていることも完全にヤンキーなのであるが、この作品が名作でありえるのは、そこに多感な思春期の純粋さと憧憬があるからではないだろうか。

邦題「ライ麦畑でつかまえて」の元になったのがホールデンのこのセリフである。

『君、あの歌知ってるだろう?『ライ麦畑でつかまえて』っていうの。僕のなりたい――』

夜中にこっそり忍び込んだ実家で、フィービーに「自分のなりたいもの」について語るシーンである。

この後、賢いフィービーに『ライ麦畑でつかまえて』ではなく、実際には『ライ麦畑で会うならば』だよ、とつっこまれるのだけど、ホールデンは適当にごまかして、続けるのです。

広大なライ麦畑で何千という子供が遊んでいて、危ない崖っぷちに立って遊んでいる子供が転がり落ちそうになった子供を捕まえる。そういう仕事がしたい。

ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。

これは現実には存在しえない仕事。崖っぷちの広大なライ麦畑で子供が走り回って遊ぶなんて、そんな状況が空想の産物でしかないし、ホールデン自身も「馬鹿げている」と認めていること。

だけど、そんな現実感のないものしか、彼は求めることができなかった。

この話の少し前に、ホールデンはフィービーに『好きなもの』について聞かれ、亡くなった弟のアリー、今こうやってフィービーとゆっくりとりとめのない話をすること、と答えているのです。

賢い女の子のフィービーは、それは「ものではない」と考える。

ホールデンはそれを「実際にあるもの」だと訴える。

これはフィービーの方が大人びているという問題ではなく、ホールデンの目線が、ずっと「形のない愛しいもの」に向けられているということではないだろうか。

形のない思い出や状況などを愛しているけれども、実際の社会で大切にされるのはテストで実際に出した成績であったり、真面目な態度であったり、お金だったりする。

ホールデンの周りには、彼が抱えている形のないものへの愛を理解する人がいなかった、ともとれる。

この実家に忍び込んだ後、ホールデンは教師の家に泊まることになり、教師が夜中に暗がりで自分の頭を撫でていたことに仰天して「変態だ!」と逃げ出すシーンがある。

彼は「こんなことが子供のころから20回くらいはあった」という。

実際、その教師が変態であったかどうかは、本文からは知る由もないのですが(実際されたのは頭を撫でていただけで、変態だと判断したのも、そういうことが以前にあったというのもホールデンの主観)彼が過剰に敏感な性格であることはうかがえる。

アリーが亡くなった時も「特に理由はなかったけど、ガレージの窓を拳で叩き割った」と言っている。理由は明らかなのに。

複数の大人が「親に精神鑑定を受けさせられただろう」と言ってくる。

つまり、アリーの時のことも含めて、彼はそういう哀しみを「特に理由はない」としながら暴発させてきたことがあったのだろう。家庭環境のせいか、変態に度々遭遇したからなのか、アリーの死があったからなのかはともかく、学校での問題行動も含めて、恐らく彼の中で処理しきれない何かが確実にあったのだ。

「ライ麦畑のつかまえ役になりたい」

その空想は、果たしてホールデンの「なりたい自分」なのだろうか。

彼は自分のことをつかまえて欲しい、と感じてはいなかっただろうか。

彼が信じられるのはアリーやフィービーといった純粋でかわいい子供で、そういう子供たちをつかまえる役になりたかった。

大人たちは誰も、ホールデンを捕まえて受け止めることはなかった。

そう考えてから「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルを見ると、じんわりとこないだろうか。(いや、私の勝手な自己解釈なんですけどね?)

原題の「The Catcher in the Rye」だと直訳すれば、ホールデンの言うところの「ライ麦畑のつかまえ役」の方であって、「ライ麦畑のつかまえて」は、実はホールデンの勝手な勘違いで覚えていた詩のタイトルの方なわけです。

実際「ライ麦畑の捕手」とか直訳なタイトルや「危険な年齢」といった邦題もあったそうで。(Wikipediaさんはなんでも教えてくれる)

「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルが一番有名なので、それで覚えている方の方が多いけど、実際本文に出てくるのはタイトル間違いという。

誤訳では、という説もあるみたいですけど、私は物語を訳者の野崎孝さんなりに解釈して、そちらを採用したのではないかなぁ、と思っています。

ホールデンは、本当は自分がライ麦畑でつかまえてほしかったのではないか。そんなことを感じさせます。

まぁ、ぶっちゃけ私はこれが一番日本語として美しいのでこのタイトルが正義だと思います。(元も子もないことを言った)

ホールデンはヒッチハイクで西部に旅立つことを決意し、フィービーに最後の別れの手紙を書きますが、フィービーは意外にも自分もついていくと、荷物をまとめてきてしまう。

これにはホールデンも焦り、止めることになる。

フィービーは、ここで本当に「お別れ」しちゃったらホールデンは一生捕まえられない、と思ったのかもしれない。ホールデンの言うことに「パパに殺されるわよ」と否定しながら、彼女は徹底的に兄想いなのだ。

回転木馬を前にして「私じゃ大きすぎるから」と乗りたいのに乗れないでいるフィービーに、「いっておいで」と背中を押すホールデンは、あれだけ社会に対して牙をむいていた彼とは思えないほど普通の「お兄ちゃん」である。

何回も回転木馬に乗るフィービーを

「僕はただ、ここで君を見ててあげるよ」

ずっとずっと眺めている。

それは、多分ホールデンにとって「ライ麦畑のつかまえ役」になった瞬間だったのだと思う。

だからなのかはわからないけれど、結局ホールデンは、西部に旅立つのをやめるのだ。彼はライ麦畑のつかまえ役という空想を、愛する妹を見つめる役に変えて叶えたのだろう。

回転木馬のシーンのホールデンは、ひたすら純粋で優しい少年なのだ。

実際、それで彼が社会と折り合いをつけられたのかといえば、そうでもないだろう。

この話の語り手をしている時点で、ホールデンは病気で静養させられていることになっている。

彼は煙草をすいすぎたこともあって結核になりかけて、と言っているが(そして、ラストシーン近くで実際に彼は肺炎になってもおかしくないような状況にあって、体調も崩している描写がされているが)そこかしこに『精神的な療養をさせられている』ことが示唆する発言がある。

エピローグでも、病院に精神分析の先生がいる、と語っている。

自分の身に起こったことを語る、というのも、自分の考えについて整理する一環として、という流れのようにも思える。映画作家である兄に話したことの焼き直し、と語っているので、少なくともこれは身内に個人的に話したこととは別の相手に話している。

物語はこう締めくくられる。

誰にも何にも話さない方がいいぜ。話せば、話に出てきた連中が現に身辺にいないのが、物足りなくなってくるんだから。

つまり、あれだけ毛嫌いし、インチキ野郎と批判した人々を、語った物語とは裏腹に、ホールデンは懐かしく思っているのだ。

それは、フィービーを通して内面的なものばかりしか愛せなかった自分が救われたからなのか、じっくりと病気を治す静養をしたおかげなのかはわからない。

そこにあるのは、社会に折り合いをつけないまでも、反抗し続けていたものですら懐かしいと思えるほどに、他人に語れるほどに、内面的世界だけではなく多少なりとも外の世界を受け入れることを認めたホールデンの姿なのだ。

それは寄る辺がなく、繊細で敏感だったホールデンの、ある種の思春期の終わりとも言えるだろう。

『ライ麦畑でつかまえて』は、単なる社会への欺瞞と反抗を独りよがりに書いた中二病の物語ではない。

ましてや、中二病脱出の物語ではない。

内面的には中二病のままでいても、実際には社会ではさして困らないし。

ホールデン・コールフィールドは、回転木馬の見守り役になることで、ようやく自分が認められる『外の世界』手にいれた。ライ麦畑の空想から、フィービーにつかまえてもらって、こちらの世界に戻ってきた。

そうやって、ある意味純粋すぎたがゆえに内面の理想にすがって社会に反抗しつづけた主人公が、そんな思春期を『思い出というもの』にできた物語と言えないだろうか。


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