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一般人にトゥルーENDの概念はあるのか

※のっけから『天気の子』のネタバレをするので、これから観たい人は回避してください。




『天気の子』を観てきたという会社の先輩の感想を聞いたら……



「私はあのエンド好きだけど、主人公たちが世界をああいう風にしてしまったんだから、賛否両論は当然でるよね」


「え?賛否両論ポイントってそこなんですか????」



普通にノベルゲーム黄金時代に10回くらいフラグを間違えまくって、やっとルート分岐を全部回収してからたどり着く真のエンド系だと思っていたから、あれが否定の材料なのか……とちょっと驚いた。

もしかすると、ノベルゲー(それも感動系)黄金期を浴びてすくすく育ったオタク以外は、獲得していない概念なのか「トゥルーエンド」ってやつは?

新海誠の作品がいまいち合わないオタ友は「何かエロゲ妄想っぽいところがダメ」とか言ってて、そっちの方がまだ「わかるな……」という感じがある。


『天気の子』って、結局ライ麦畑の捕手になりたい多感だけど真っ直ぐな少年が、「大勢を救うために必要な犠牲」を「それでも彼女に会いたい」という願いだけでぶち壊す話である。

その行為に対する答えは作中の大人代表であり、最初は「大勢や自分の信念のために、時に他人を犠牲にしなければならないのが大人の判断」としていたスガさんが、東京が沈んだ後もなんだかんだで回っている世界で、純粋な本人の努力によって会社の拡大と娘に会う権利を獲得していることを考えればわかる。

スガさんは、自分の「大人の判断」を帆高の信念を受けて訂正し、正しく自分のできること、やるべきことを成し遂げた上で帆高に言う。

「お前ら二人が世界を変えたなんて思うなよ」

……と。ここが最高にスガさんが大人なところであって、たった一人を犠牲にすれば救われる世界から、別に誰かが犠牲にならなかったことで何かが失われることは自然の成り行きである世界になる。

むしろ、従来のセカイ系は、世界の存亡にかかわる子供たちだけで完結する傾向が強かっただけに、大人が明確に子供に対して答えを出しているのは評価すべきだと思った。

のだけど……。

その話をしたら「え、そこ……?」みたいな反応で。


もしかして、一般ピープルはそこまで深読みしない…………?


そういえば、『天気の子』の映画レビューで低評価つけている人って、割と「思わせぶりで設定を回収していない!」みたいなのが多くて。


そこか?? そこなのか???


『君の名は』よりオタ臭い内容になったからとかではなく????



……………………。


いや、設定の回収については空の魚とかもうちょっとつっこんでほしかった感あるけど、正直あの物語にとってその説明って必要かっていうと別にいらねーな?ってなったからスルーしたんだけど、出した設定は全部説明しないとダメなんかね。

映画という媒体だからなのか、それともオタクムーブメントを決めない人の脳内というのは、全てを語りつくして回収できないものは話に出さない、何となく匂わせるのはダメみたいなところがあるのか。

生まれてこの方オタクじゃなかったことがないからわからない。

それとも、わずかな隙間を読み取ってルート分岐を幻視するのは、ノベルゲーの黄金期に「フラグ」という概念を自然に吸収した世代の特殊能力なのか?

…………割とそれもありそうなので困る。

ネトゲソシャゲ世代のWEB小説が、異世界転生をベースに「ステータス」や「スキル」という概念を前提に作られているものが量産されているのと同じで、「フラグを見逃さない」というのは、ノベルゲー世代の特殊能力ではないのか?


シュタインズゲートなどは映画「バタフライエフェクト」をインスパイアして作られているけど、そういえば「バタフライエフェクト」も丁寧にフラグを潰してトゥルーエンドを見つける話であり、なるほど、いわゆるノベルゲーの形式にしっくりとくるわけであるわ。

全部説明してもらうのが当たり前の世界を、説明的じゃなくした結果がゲーム風異世界の世界観と考えると、なるほどという気がする。

とはいえ、「全部説明」というのは余韻や空想の余地をぶっとばす、ということであり、完成度が高くなければ「小さくまとまる」「全部説明で進行する」みたいなストーリーになりかねないわけである。

叙述トリックでスコーンと落とす、というのはそう簡単にできないというか、叙述トリック系ってやりつくされている感があるからそう簡単に客は驚いてはくれぬ。

過激だったり、エロかったり、びっくりしたりで名作になる時代じゃねえ。

何もかもやりつくされているんだ。

こちとら撲殺天使ドクロちゃんとかを通って来ている世代やぞ。ぴぴるぴるぴる(ry

そうやって考えると、かつて我々ノベルゲー世代が「トゥルーエンド」と呼んだ「様々なルートが存在していたという前提で、多分これがこの世界や主人公たちにとっての最適解」なのだろうと思われるエンドのエモさをちょっとご理解していただけないだろうか。エモ。

我々は隙間に散りばめられたフラグを回収して、エンディングで答え合わせをしてエモってるんだ。

ノベルゲー世代は魂にトゥルーエンドの喜びが刻まれているので、ルート分岐について妄想してしまうし、トゥルーエンド的な内容のストーリーを観ると「このゲームが何ルートくらいのボリュームで、何回くらい攻略すればこのエンドにたどりつけるのか」幻視してしまうんだ。トゥルーエンドにたどり着いたらしっぽを振ってしまうんだ。

あと、あの時代になんでノベルゲーあんなに流行ったかって、ぶっちゃけ立ち絵とテキストがメインで、とても低コストだからです。(システムも簡素だしね)

無料ソシャゲが当たり前、ゲームですら個人がフリーソフトを駆使して謎のクオリティで作れるような技術とツールがある今、あの時代に「ノベルと絵のゲームで一発当てた精鋭」がたくさんいて、そういったゲームの現場から今日の型月や新海誠が生まれてきたんやでってことを知って欲しいぜ。

FGOはやってないしFateもやってないんだけど、私は月姫リメイクのさっちんルートを今でも待っていますからね。


どうでもいいけど、『天気の子』で一番の収穫は、豆苗を育てれば97円で2回収穫して野菜もとれるし家計が助かるってことだよ。ありがとよ、陽菜ちゃん。

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