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北海道産ヒロシマの孫

終戦記念日なので祖父母の話でもする。

うちの祖父は広島出身だという話は何度かしたわけなんですけど、私自身は北海道で生まれて北海道で育っている。

北海道で生まれ育った両親の元で生まれた私は、三十路をすぎるまでずっと北海道で生きていた。東京にきたのは本当につい最近である。北海道産である。

私の祖父は広島出身で、私の祖母は大阪出身。

祖母はお嬢様だったが、顔にアザがあったために厄介払い的に祖父に嫁いだ。お見合い婚である。

その辺の詳しくはこっちの日記に書いたので、そっちを読んでくれ。

「死にゆく人を見送る話」

明らかに不本意な結婚だったっぽいのに、私の祖母は良く言えば明るく前向きで、悪く言えばいい加減な人だったので、寡黙すぎて何かんがえているのかわからん祖父とも添い遂げた。というか、祖母は祖父のことは気にせずにババアアートを量産するなどして自由気ままにいきていた。ババアアートというのはあれだ、こういうのだよ。

聞けば、祖母は酔っぱらうとイキオイで

「満州に嫁ぐ花嫁って新聞に載ったのよ!!!」

と自慢するクセがあった(母証言)らしいので、このお嬢様、実にたくましい。

それと同時に、満州でどれだけ苦労させられたかも延々語ったらしいので、割とうらみつらみもあったのだとは思うが、少なくとも私は「孫ちゃんカワイイ!」ってなっている祖母しかしらない。すごいバババカである。

母が嫁ぐ前に「顔のアザを消す手術したい~お嫁さんが逃げちゃう~」と父(つまり息子)に泣きついて手術したので、私はアザのない祖母の顔しかしらないが、多分父も結婚するかもという段階になってからだったので多分「え?今更?」という感があったのではなかろうか。だって、普通に母ちゃんアザのある祖母と会っている上で結婚するお話になったんじゃろ?

いや、手術できる世の中になった時点で普通に手術すればよかったんちゃうか?という点で。(実際、じゃあ手術しようか、と手術したわけで)

もちろん、祖母にとってアザは長年のコンプレックスであったのだろうが、我が家の祖父母は本当に良くも悪くも「生き方が雑」であり、具体的にどの辺が雑かというと、高度成長期を迎えて今は限界集落な我が地元にもオシャレなスポットがたくさんあった昭和中期に白黒テレビが現役だったくらいである。

ちなみに、兄が生まれるまで外の掘っ建て小屋に五右衛門風呂であった。

マイナス2ケタになる北海道の冬を五右衛門風呂で過ごしていた。

カラーテレビが当たり前の時代に、白黒テレビを使っていた。

誰も気にしなかったんかい!

壊れないからまあいいわ、みたいな感じだったらしい。

祖父母、どちらも車の免許持っていない。馬車。農業は馬車。

これについては当時はそう珍しくもなかったらしいのだが。余談であるが、戦後入植者のほとんどは農協から借金をして村有地と農機を買い、農業を始めていたので、どこの家も金がなかったのである。

とにかく、そういう家だったので、祖母も「今更顔のアザを気にする人が周りにいないからまぁいいか」みたいなテンションだったのが、息子の結婚となって「親戚付き合いあるじゃん!」となったのだろう。

祖父母のどちらも、親戚が遥か海の彼方だもんな。

そもそも、何で祖父母が戦後入植者になったかというと、満州の入植に失敗して、敗戦で満州に留まることもできなくなったので、ひきあげてきたのである。

何せ祖父の出身は広島である。地元に帰る家がなかったのだった。

と言っても、恐らく原爆の被害にはあっていない。

曾祖母は100歳(推定)まで、広島で生きていた。

ただ、祖父の兄弟は祖父以外生き残らなかったということだ。曾祖母は戦争のごたごたで戸籍がややこしいことになり、死んだことにされてしまったので妹の戸籍で生きていた、という。99歳で逝去。妹の戸籍だというのが本当なら、実年齢は100歳を超えている。

曾祖母の言うところの戦争のごたごたが、いつの戦争の話をさしているのかわからないので何とも言えないが、祖父の家は元からあちらで農家をしていたらしいので、原爆の爆心地である市街地に家はなかったはずである。

祖父の兄弟はほとんど戦争で亡くなった。祖父は満州に行ったので生き残ったのだった。

私は又聞きしかしていないので、曾祖母はおそらく一人で自分の親戚を頼ったか、その時は祖父の兄弟がまだ誰かしらは生きていたのかしたのだろう。

ただ、広島出身の祖父には、地元に戻るのに難があったのには違いない。

祖父も祖母も、地元の話は全くしなかった。

寡黙な祖父はともかく、おしゃべりだった祖母ですら、故郷の想い出話などひとつもしなかった。

祖母がなくなったのは、私がまだ七歳の時なので、まだその時がきていなかっただけなのかもしれないけれど、とにかく何も話さなかった。母も、酔っぱらった時に祖母が勢いで喋ったのを聞いたくらいだった。

そういえば、広島と大阪の出身なのに、関西なまりはそんなになかったな。

離れて長かったからかもしれないけど。よくよく考えてみたら、確かにイントネーションが関西よりだったかも。関西弁も広島弁も、ほとんど祖父母の口から出てこなかった。

思えば不思議なもので、戦後入植者が多い土地柄、関西、近畿、東北、北陸、と祖父母世代は様々な出身の寄せ集めのようなものだったのだが何故かみんな「まるっと北海道弁」であった。

北海道人の言葉は、色んな土地からの入植者の方言にアイヌ語由来のものなどが混ざり合って、マジでカオスなのでもうどこまでが方言なのかもわからない。

色んな土地の人間が集まると、恐らく共用語に収束されていくのである。

北海道弁は、浜言葉以外ではほぼイントネーションは共用語である。

むしろ江戸っ子言葉の方がよほど方言的なイントネーションだろう。

戦後入植者の皆さんは、割とワケアリっぽい人が多い(という印象がする)ので、もしかすると「出身はあえて聞かぬ。出身はあえて悟らせぬ」みたいな暗黙の了解があったのかもしれぬ。

というわけで、ヒロシマクォーターな私であるが、広島のことはほとんど知らない。大阪に至っては未だに行ったことすらない。

広島には一度だけ行ったことがあって、しかしそれは祖父には全く関係なく、たまたま終戦何周年だかなんだかの節目だとかで、高校の修学旅行の日程に原爆ドームと原爆資料館をつっこまれたからである。

とにかく資料館がこわかった記憶しかなく、当時は田舎のJKが個人用のケータイなど持たぬ時代であるから(そもそも圏外だったしな)写真も残っておらず、私の中で半日だけいた祖父の故郷の記憶はほぼ皆無である。

原爆ドームを見たはずなのに、その記憶すらない。原爆資料館を薄目で通り過ぎた記憶しかない。薄目で。

私の中で広島といえば、毎年広島にいる親戚から送られてくる広島菜の漬物である。祖父の出身とは関係なく、集団就職で本州に出て、そのまま祖父のルーツである広島に嫁いでいった叔母から毎年送られてきた。

そして、ネットで知り合った付き合いの長い広島のフォロワーさんが、会うたびにおみやげに買ってきてくれる牡蠣せんべいである。牡蠣せんべいマジで美味い。神の菓子。

純北海道産ヒロシマの孫は、今は東京で北海道とも広島ともさして関係なく生きている。

生きている。

広島とは関係なく、広島のこともろくに知らずに生きている。


だけど、震災のことでいまだに「フクシマノ放射能ガーと」か言ってるのを見る度にすっげえモヤっとする。


だって北海道産だけどヒロシマの孫だから。


広島にいった時の記憶はほとんどないけど、公園は緑でいっぱいだったし、広島菜の漬物は毎年美味いし、牡蠣せんべいは最高だぞ。


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