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私の女友達も、女の子に恋をしていた。

「ノート編集部のお気に入り」として流れてきた、ハヤカワ五味さんのこちらのnote。

私にも女の子を好きな女の子と親友になった経験があるので、その子のことを思い出しながらすらすらと読めてしまった。こちらのnoteでは、ハヤカワさんの意見としては「相手が恋愛対象になりうる関係性の中での友情は成立する」すなわち「異性愛者の男女間の友情も成立する」し、「異性愛者の女性と同性愛者の女性の友情も成立する」と思っているそうだ。

これは私の個人的な意見と全く同じだ。

男だろうが女だろうが、異性愛者だろうが同性愛者だろうが、素敵な人は素敵だし、波長が合う人は波長が合う。性別に拘って仲良くできる人の幅を狭めてしまうことは、個人的にはすごく勿体無いことだと思っている。

(その思想のせいでかえって誰とでも友達になってしまって恋愛が始まりにくいのが悩みなのだけれど、それはまた別の機会に書こう)

そしてそう思えるようになったのは、高校時代に仲良くなったFちゃんとの出会いが大きい。

私の高校は、前にも述べたけれど女子校で、とにかく自由な環境だった。「同世代の男子」という現実的に恋をする相手がいない分、アイドル、アニメ、宝塚…それぞれが好きなものに全力で情熱を捧げ、その相手はときどき先輩、先生、友達…など、現実的な相手にまで及ぶことがあった。共学の高校でいわゆるリアルな恋愛を経験し、人間の心の機微を実体験を通して学んだ人たちからしたらバカバカしく思えてしまうかもしれないけれど、あの時の私たちにはあの世界が全てだったし、少なくとも私たちは真剣だった

(学年の5%くらい、男子校の文化祭や塾などの出会いを通して彼氏を作る輩が現れるのですが、そんなことが起きたらもう一大スキャンダル、ていうかもう重大犯罪、江戸時代の隠れキリシタン並みに徹底した取り調べを受けさせられることとなります)

そしてそんな空間で過ごして5年目、高校2年生のときに同じクラスになったFちゃん。何がきっかけで仲良くなったとか何がきっかけで相談されたとかは全く覚えていないのだけれど(Fちゃんごめん)、私は何かの機会に彼女の秘めた恋を知ることとなったのだ(もちろんFちゃん本人に許可を得て書いています)。

彼女は、同学年のAちゃんに、本気の恋をしていたのだ。

しかし、Fちゃんの想いは完全な一方通行だった。でもAちゃんはFちゃんの気持ちに気がついていて、だからついふとした瞬間にFちゃんに優しくしてしまう。気持ちに答える気はないのに。その中途半端な優しさがかえって苦しくて苦しくて、Fちゃんは何度も涙を流していた。

その話を聞いて、彼女の涙を見ていて私は思ったのだ、

「同性愛って異性愛と全く一緒じゃん」と。

結局、人が人を本気で好きになる甘さも苦さも、堪えきれない胸の痛みも、性別で規定されて変化するようなものではなくて、たったひとつの「好き」という気持ちでしかないのだ。
好きになった相手が異性だろうが同性だろうが、想いが成就するときは成就するし、成就しないときは成就しない。そのことを感覚として理解した瞬間だった。

それ以来、私の中での「同性愛」というものに対する壁は崩れ、いわゆるセクシュアルマイノリティと呼ばれる人たちに出会っても、本当に違和感なく自分の中に受け入れられるようになった。むしろなんで社会がそんなに大騒ぎしているのかがわからないくらいだ。

先に述べた「恋愛対象になりうる相手との友情」の話に戻るけれど、私はFちゃんのことを友達として大好きだし、Fちゃんもありがたいことに私のことをめちゃめちゃ好いてくれている。でも私たちは友達だ。
お互いに好きな人ができたら相談するし、もしその相手とうまくいったりしたら祝杯の宴を開くし、失恋したら夜通し電話をして話に付き合う。
Fちゃんが女の子を好きだったという事実が私たちの友情の妨げになったことは、ただの一度もない。


また、ハヤカワさんは先ほどのnoteで「性的指向はグラデーション」と述べていたのだが、これについても画面の前でうんうんと頷いてしまった。
なぜなら先ほど話に挙げたFちゃん、直近で好きだった相手は男の人であるからだ。
しかしその人、性格は少しAちゃんと似ているところがあって、私は話を聞きながら「ははーんあなたやっぱりそういう人がタイプなのネ」と少しニヤニヤしてしまったのを覚えている。

要は、彼女の中には「性別」という壁はなくて、ただ自分が惹かれる「人」を素直に好きになっているだけなのだ。

私の個人的な意見を述べると、恋愛の「好き」は「人として好き」の最上級なのではないかと思う。
私は今まで男の人しか好きになったことがないし、そもそも好きになった経験も多くはないけれど、そこに「男だから選んでいる」という意識は全くなくて、むしろ人として「ああこの人のこういうところがすごく素敵だな」と感じるところから始まっている、そんな気がしている。
そして自分の気持ちを認識した後には自分が自分じゃないみたいにすごく弱くなってしまって、自分でも驚くくらい簡単に泣いてしまったりする。その脆さは高校時代のFちゃんと全く同じだ。

実際私に「同性を本気で好きになった」とはっきりと話してくれたことがあるのは、私の人生においてはFちゃんだけだ。でもこのハヤカワさんのnoteを見ていると、おそらく言えていないだけで同性を好きになっている人は、実はたくさんいるのだろうな、と思う。

そう言った人たちが生きやすい社会を作るというのは現在の日本社会においてはかなり難しいことだと思うし、そんな社会に対して戦いを挑めるほど私は強くもないけれど、それでも私の周りだけは、「誰もが好きな人を堂々と好きだと言える世界」であって欲しいと思っている。
そう思ってこのnoteを書いた、自分への誓いも込めて。

そして、このテーマについて書くのは正直かなり怖かった。実際書いたいまも、どんなコメントが来るかわからないな、とものすごく恐れている。
それでも書こうと思えたのは、Fちゃんが「私のことを書いて欲しい、あなたの文章に出られるなんて光栄だ」と言ってくれたからだ。
そんなFちゃんに、心からの敬意と感謝と愛を示して、このnoteを終わりにしたいと思う。

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