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平成が終わっても、私は宇多田ヒカルを聴き続ける


ありがとう、と君に言われるとなんだか切ない
さようなら、の後も解けぬ魔法 淡くほろ苦い The flavor of life...


これは、宇多田ヒカルの"Flavor of life"の冒頭の歌詞。日本人でこの曲を知らない人はほぼいないのではないだろうか。一世を風靡したドラマ「花より男子2」の挿入歌で、この切ない曲に合わせて紡がれる、つくしと道明寺の一筋縄ではいかない恋模様を、日本中が胸を痛めながら見守っていたものだ。

この曲が人気になった当時わたしはまだほんの小学生で、「ありがとうと言われると切ない」とか「人生は淡くほろ苦い」とか、それらの歌詞の意味もよくわからないまま、なんとなくメロディーが好きで頻繁に口ずさんでいた。そしてその歌詞の意味を真に理解する機会は、10年後に訪れた。

どんな人だったとか、どんな関係だったとか、どんなシチュエーションだったとか、そういうことはわたしだけの秘密の国として心の隅っこに残しておきたいのでここにはくわしくは書かないけれど、昔ある人にまっすぐ目を見て「ありがとう」と言われたことがあって、そのときわたしはこの曲の歌詞を「あぁこの気持ちを歌っていたのか」と理解したのだ。

その人はなぜかわたしの目を見ながら、「ありがとう」を二回も繰り返した。その言葉はただの聞き慣れた挨拶の言葉のはずなのに、すごく優しい響きを持ってわたしに届いてきて、心の奥底から満ちていく感覚が指先まで押し寄せると同時に、どうしてそんな風に言うの、という切なさも溢れ出てきて、なんだか泣きたくなってしまったのを今でも覚えている。

たぶんその人はそんなことを自分が言っただなんて微塵も覚えていないし、わたしの中でもこのときの記憶はその色と温度を変えつつあるけれど、それでもわたしはこの「ありがとう」をこれからも忘れないのだと思う。たったひとことの「ありがとう」という言葉に、わたしの中に眠る感情がこんなにも呼び起こされたことは、今までの人生においてそのときしかないのだから。

それでもいまその人に「ありがとう」と再び言われたら同じような気持ちを抱くかはわからなくて、人間関係というものはなんて刹那的で曖昧なものなんだろう、と過去の一瞬の奇跡に想いを馳せたりもするのだ。


そう、宇多田ヒカルの歌詞の魅力は、「聴いた瞬間はピンとこないのに、数年後に初めてその歌詞に胸打たれる瞬間が訪れる」というところだと思う。私が物心ついたときから彼女はずっと、日本音楽界のトップを走り続けていたから、大体の曲は小さい頃から何となく知っていた。でも最近、その歌詞を「わかった」と感じる瞬間がものすごく増えたのだ。

生きている時間が長ければ長いほど、喜びも、悲しみも、どんどん増えていく。「これ以上の幸せはないだろう」とか「これ以上の絶望はないだろう」とかその当時は本気で思っているのに、意外とその記録はあっさりと更新される。

歳を重ねるということは、内に秘める感情の世界が、どんどん広がって行くということなのではないかと思う。宇多田ヒカルの歌詞の世界に描かれている感情は、いつも私の新たな感情と呼応するのだ。

だからたぶんわたしは、10年後にHeart Stationを聴いたら過去の恋愛を思い出して少し切なくなってしまうと思うし、いつか、はるか遠い未来のことと願っているけれどいつ訪れるかはわからない、そんないつかにおいて、自分のだれか大切な人がもう二度と会えないところへ行ってしまったとき、花束を君にを何度も口ずさむのだろう。


また、「前を向けない人間に寄り添ってくれる」というのも、彼女の歌詞の大きな魅力なのではないかと思う。

世の中には数多くの応援ソングが存在する。「前を向こう!」とか「君ならできるよ!」とか「頑張ろう!」とか、そういったポジティブな言葉であふれている類の。

でも人間、本当に頑張らなければならないときは、もうそんな前向きな言葉を信じられないくらい疲弊してしまっていることが多い。私はとりわけ後ろ向きな性格をしているから、そんな時、他人の明るい言葉を信じられない自分にまた嫌気がさして、どんどん落ち込んでいってしまう。

それでも宇多田ヒカルは、許してくれるのだ。前を向けず、人を信じられない私たちを。

例えば、私の大好きな曲に『真夏の通り雨』という曲がある。

勝てぬ戦に息切らし あなたに身を焦がした日々
忘れちゃったら私じゃなくなる 教えて正しいサヨナラの仕方を

親しい人の死とか、失恋とか、世の中にこんなに辛いことがあるのかと驚いてしまうくらいに悲しい出来事があったとき、人は皆「早く忘れちゃいなよ」とか「忘れるのが一番だよ」とか、簡単にアドバイスする。確かにそれは真理なのだと思う。

けれど実際、辛い出来事ほど、簡単に忘れることができないのではないだろうか。確かに楽しい時間があれば一瞬は忘れられるかもしれないけれど、一人になって苦しみの蘇ってくる瞬間はますます堪え難いものとなる。忘れたいと強く願うほど、付随する後悔と胸の痛みは夜な夜な膨らんでいって、それらは幽霊となって私たちを縛り付ける。そして忘れられない自分自身にまた嫌気がさしてしまうのだ。

でも宇多田ヒカルは、「忘れちゃったら私じゃなくなる」と歌っている。みんなが「忘れたほうがいいよ」と勧めるような出来事でも、「忘れちゃったら私じゃなくなる」から忘れないでいいよ、と。苦しみも含めて私自身なのだよ、と。

世の中には、暗黙のルール、必ずしも従わないといけないわけではないけれど、なるべくそのルールに沿って生きていた方が「いい」と見なされているルールが、数多く存在している。先に述べた、悲しいことはすぐ忘れた方がいい、というのもそうだし、恋愛は楽しいものでないといけないとか、恋をするなら片想いは無駄だからすぐ諦めたほうがいいとか、競争には勝たなきゃいけないとか、失敗は繰り返してはいけないとか、数えだしたらきりがない。

人の生き方なんて本当に自由で、誰かを傷つけない範囲でならどんな生き方をしてもいいはずなのに、誰もが誰もの人生にケチをつけたがる。

それでも宇多田ヒカルは、Distanceで恋愛について「ひとことでこんなにも傷つく 君は孤独を教えてくれる」と歌っているし、初恋で「欲しいものが手の届くとこに見える 追わずにいられるわけがない」と叫んでいる。
誰かの願いが叶うころで「誰かの願いが叶うころ あの子が泣いてるよ みんなの願いは同時には叶わない」と諭しているし、SAKURAドロップスで「どうして同じようなパンチ何度もくらっちゃうんだ」と泣いている。

彼女はいつでも、不器用で、うまく生きられない私たちに寄り添ってくれる。仕方ないんだよ、それでいいんだよ、人生はほろ苦いものなのだから、と。それこそが、器用さと効率を求められる現代社会の中で、彼女がいつまでも不動の人気を保ち続ける理由なのではないかと思う。

宇多田ヒカルは途中で休みながらも、平成の音楽界をずっと牽引して走り続けてきた。もうまもなく平成は終わりを告げるけれど、それでもわたしは、次の世代においても彼女はきっと私たちの心に訴える曲を生み出し続けていくのだろうな、と確信している。

そしてわたし自身も、宇多田ヒカルの歌詞のような言葉を紡ぐ人間になりたいと胸を焦がしながら、平成が終わってもnoteを書き続けていくのだろう。








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